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仏教 釈迦 禅 悟り救いコミュの『臨済録』を読む

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岩波文庫における訳者の入矢義高氏は言う。もともと『臨済録』は臨済宗の聖典というような所に落ち着くものではなく、一切のセクトから離れて自由に交流し合い、刺激し合った唐代禅の中で生まれたものに他ならない、と。
唐代禅の師資相承における基準「弟子の見識が師と同等なら、師の徳を半減することになる。見識が師以上でなければ法を伝授される資格はない」「師の法をまるごと肯定するだけなら、それは師を裏切ることに他ならない」にふさわしく、ぜひ『臨済録』をきびしく、自由に、読んで参りましょう。

コメント(10)

冒頭は臨済禅師の行録(あんろく)をかいつまんだような記述になっていますね。
そこで行録を見てみると、臨済は初め、黄檗禅師の門下で行業純一だったという。
主座(しゅそ)はこれを見て、若いのに他の者たちとは違うと感嘆したという。
「ここに来てどれくらいか」
「三年です」
「今まで和尚に参問したことがあるのか」
「いえ、ございません。何を問うたらよいのかさえわかりません」
「なぜそなたは和尚に仏法の大意は何かと問わないのだ」
臨済は三度、黄檗禅師のもとに参問にうかがって、三度ともしたたかに棒で打たれた。
臨済は主座に言った。
「幸いにも慈悲をたまわって、和尚に問訊する機会をいただきましたが、三度問いを発して三度打たれました。しかし、恨めしいことに、私に障縁のあるせいで深旨を領解することができません。しばらくお暇をいただきたく存じます」
岩波文庫の臨済録、持っているはずだが見当たらない。
漢文の文字数は少なく、解釈は様々なのだけど、面白いですね。

この、したたかに棒で打つという黄檗の仕打ちは、
臨済が悟った時に、実は深い深い師の智慧と慈悲ゆえのことであったと感謝していたはず。
勝手に解釈すれば、「考えるよりも、感じろ」「観念よりも今現在の感覚や感情をしっかりと観よ」という示唆であったかと思われます。
誰だか忘れましたが、ある雲水が入寺を断られて門を急に閉じられ、門扉に足をはさんでゴキっと骨を折った瞬間に悟ったなんていうのも、臨済録だったか別の本だったかにありました。

余談ですが「障縁」というのは「悟りを妨げる業」という意味でしょうが、この当時の中国でそういう概念、用語が普通に使われていたとすれば、アビダンマなどの仏法が伝わり、流布していたという証左でしょう。
>>[002]
貴方の解釈に、賛同します!
瞬間瞬間の、感覚で有るので、悟っている状態も、瞬間瞬間の状態で、有るでしょうね。常に変化している観たいだし!
>>[2]

おっしゃるように『臨済録』って、ギュッとエキスを搾ったような書き方をされているから、いろいろ周辺を調べればまた学べることも多いのでしょうが、
そういうことをせずに自己のその時その時の霊性に信頼して啓示されるがままに読んでみても、とても啓発される力に満ちた本ですよね。
ビルマの格言に「痛みは涅槃への門」というのがあります。
中国の禅は棒で叩いたり、拳で殴ったり、師を平手打ちにしたりと乱暴極まりないのですが、
やはり痛みと少し関係がある気がします。
何しろ痛みは一瞬にして妄想を吹き飛ばし、今この身に起こっていることに嫌でも引き戻されます。
痛みは、感覚としての痛みと、痛みを厭う感情からなりますが、
痛みのシグナルを観察し続けることで、自然と注意力と集中力が養われるのでしょう。
経典の注釈などを読むと、病気などで死ぬ間際に身体の苦痛を観察し続けて悟ったという人も少なくないようです。
上記経典の注釈の件、曖昧な記憶で書いているので正確ではないかもしれません。
釈尊は一方で、苦行を否定しておられます。
現代にもいますが、わざと肉体を苦しめて苦痛を感じる行は、
仏道を行じる者のとる道ではないとされています。
日常生活や修行の過程で自然に生ずる痛みはいくらでもあるので、
その機を捉えて観察するのがいいかと。念のために。

臨済録から外れましたね。本は見つかりました。
>>[5]

禅宗にはインド人と明らかに違う中国人の民族性としての粗暴さが最も強烈に現れているという見方は、果たして成り立つでしょうか。
そしてその中国人の粗暴さ、禅宗の粗暴さは、中国を常に先進文化国家として仰いできた日本の武家政権に最適な仏教形態として迎えられ、日本の軍部や体育会の伝統の底流を常に流れてきたと言えるでしょうか。
>>[7]

さあ、どうでしょう。
中国には1回しか行ったことがないし、民族性云々はよくわかりません。南アジアの道場では、肉体的な痛みを伴う指導はまずないし、修行も掃除などの作務も自主的にやるものです。
禅宗はあまり経験ないのですが、粗暴さというより厳しさが感じられますね。
そもそも仏教弾圧をくぐり抜ける過程で経律論の三蔵なしで教え、教えられる形態が確立し、それは不立文字などとも言われますが、体も使った伝法が編み出されたのではないかと思います。
禅宗が日本に入ってきたとき、朝廷にも幕府にも非常に尊重され、受け入れられています。今でも京都に禅宗の本山が多いですよね。
武家政権との親和性は確かにあると思います。武士にとっては諸芸を磨き、生死の問題が切実な状況から、武士を上回る気力、胆力、平静さを持ち、卓越した精神性を身につけた禅僧は師とするに値する存在だったのではないでしょうか。
>>[2]

>この、したたかに棒で打つという黄檗の仕打ちは、
臨済が悟った時に、実は深い深い師の智慧と慈悲ゆえのことであったと感謝していたはず。
勝手に解釈すれば、「考えるよりも、感じろ」「観念よりも今現在の感覚や感情をしっかりと観よ」という示唆であったかと思われます。


熱心だった臨済さんの修行態度を見ていた首座から「黄檗和尚に、仏法の大意とはいかなるものかと参問してみたらどうか」とうながされて、これがきっかけで臨済さんの尊い飛躍が生まれることになりましたね。
3年もひたむき純粋だった臨済さんの様子も縁となり、
首座が示唆してくれた参問の際の問いの内容も縁となり、
とても大きく臨済さんは飛躍できましたね。

その参問に黄檗和尚は臨済さんをしたたかに棒で打つことで応えられた。言葉で応えることを拒否されたとも言える。
言葉でとらえられる次元など仏法の大意でも何でもないから、黄檗和尚は本当に臨済さんが問うた仏法の大意(根本義)を伝えんとして言葉を使わなかったとも言える。

言葉を超えて臨済さんに響いたものとは何だったのか。
>>[2]

>余談ですが「障縁」というのは「悟りを妨げる業」という意味でしょうが、この当時の中国でそういう概念、用語が普通に使われていたとすれば、アビダンマなどの仏法が伝わり、流布していたという証左でしょう。


3回も黄檗和尚にしたたかに打たれながらも臨済さんはその時点ではまったく意味がつかめなかった。
パッと意味を了解する明知がまだ所知障により覆われていると臨済さんはとらえた。
いとまを請いに伺うと、高安灘頭の大愚の所へ行けと指南される。

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