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アンナ・ポリトコフスカヤコミュのチェチェン抵抗運動:2006年の総括

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アンナ女史の話題が少なく、チェチェンの話題になって恐縮ですが。
前回載せた話題とまったく別の角度から、つまりチェチェンの抵抗運動側からの昨年の総括の記事がありましたので、訳してみました。この記事によれば、抵抗運動はまだまだ健在で、人々もそれを支持しているとのことです。
色々名前が出てきますが、説明もあるので、なかなか為になる記事だと思います。自分の日記に載せていたものですが転載します。 写真は、記事に出てくる現在のリーダーDokku Umarovです。

http://www.jamestown.org/publications_details.php?volume_id=421&issue_id=3971&article_id=2371800

CHECHNYA WEEKLY
Volume 8 , Issue 2 (January 11, 2007)
THE CHECHEN RESISTANCE MOVEMENT: 2006 IN REVIEW
By Mayrbek Vachagaev

北コーカサスでの2006年の出来事を振り返ると、チェチェンの抵抗運動に影響を与える、顕著な政治的戦略的変化があったことを述べないわけにいかない。先の抵抗運動のリーダー達−Abdul-Khalim SadulaevとShamil Basaev−が用いた作戦は、この地域全体に及び、予期せぬ攻撃をすることによって、常にロシア政府を脅かすというものだった。彼らの統治期間では、ほとんどの実際の戦闘をチェチェンの外、近隣地方に移すという目的はほとんど完全に達せられた。そして、今日、Dagestan、Ingushetia、Kabardino-Balkaria、そして Karachaevo-Cherkessiaのthe dzhamaats (地方の宗教的コミュニティーlocal religious communityとの説明があった:訳者注)は、たいへん活発になっていて、ロシア政府は治安部隊を北コーカサス全域に展開しなければならなくなっている。

Abdul-Khalim Sadulaev−彼はイチケリア・チェチェン共和国の大統領であり、地域全体の抵抗運動のリーダーであった− の偶然の殺害は、戦士達、抵抗運動の政治的指導層の双方にとって強烈な心理的衝撃であった (http://ej.ru/comments/entry/4129)。この予期しなかった喪失 (June 17, 2006, Argun)に、Shamil Basaev の死(July 9-10, 2006, Ingushetia)がすぐさま続いた。彼は、この運動全体で最も際立った軍人の一人だった。Basaev−彼は民族を基盤とした多くのdahamaatグループを作ってきた−は、戦略家として優れており、地域全体に影響力を持っていた。彼の死は、運動にとってAslan Maskhadov の殺害以来の最も強烈な打撃であった。新しいチェチェンのリーダーとしてDokku Umarov を選んだことは、抵抗運動の中に多くの混乱をもたらした。Maskhadovの足跡に従おうとしながらも、Umarovは彼と同じような正統性を持たず、Basaevのような軍事的経験も無ければ、Sadulaevのように精神的権威も持ち合わせていなかった。しかしながら、Basaevは、死ぬ前に、チェチェンがこの抵抗運動のリーダーであるという事実を強調しなおして、民族のdzhamaatに、新しいチェチェンの大統領に忠誠を誓うよう要求した。北コーカサス地域全て(Dagestani, Ingush, Kabardin, Balkar, Karachai, Adyg and Nogai)のdzhamaatsのリーダーとして承認されたことで、チェチェンの大統領は地位を確保したが、この昇格が危険の増大をもたらした。

また、Lecha Eskiev、Sultan Khadisov、Isa Muskiev、Abu-Hafsその他の多くの高いランクの司令官たちの死によっても、重要な変化がもたらされた。このことは、第1次チェチェン戦争(1994-96)の頃の有名な老兵に取って代わったこの新しく若いリーダが、抵抗運動にかかわる多くの者達にとって、馴染みが薄いことを意味した。これは、しかしながら、ロシア政府にとっても、新しい指導層を良く知らず、政府の行動を混乱させ、ロシアの情報源がほとんど誰をも新しいチェチェン指導部高官と見なしてしまう、という利点ともなった。この不案内なことは、ロシアのメディアが存在しないチェチェンの部隊を生み出したり、時折漫画のように作用した。この例として、“Zelikhman Yandarbievの部隊”から76歳の兵士が降伏した話がある。その男は明らかに1998年に入隊したが、2ヵ月後に武器を取り上げられ、いかなる反ロシア活動にも加わらなかった (www.chechnyafree.ru, January 3, 2007)。この“Zelikhman Yandarbiev”は、1996年4月から1997年1月までチェチェンの大統領の地位にあった同じZelikhman Yandarbievで、彼はロシアのエージェントによってカタールで殺されていた。彼は、自分のボディーガード以外に、自分の部隊をもったことがないことは良く知られていた。

Aslan Maskhadov の大統領時代、チェチェンの国際的外交面での実績は特筆すべきであった。Sadulaevの統治では、しかしながら、外交的な効果に陰りが見え、現在Umarovの時代は、外交活動はまったくの休止状態になった。海外で活動する唯一目立った人物は、情報大臣であるAhmed Zakaevだ。彼は、ロシア当局によってなされる根拠の無い非難によって自由にヨーロッパを移動出来ず、彼の義務を果たせないでいる。チェチェンの抵抗運動に関する人物で国際舞台で活動しているものは、他には誰もいない。Movladi Udugovは、以前の影響力を失っている。“Kavkazcenter” のwebsiteに全てを傾注させており、彼は彼の焦点を北コーカサスから、より広範囲のイスラム世界に影響を及ぼすニュースの報道に移行している。このことは読者を失うことに繋がっている。なぜならUdugovの視聴者は、世界の出来事に関する情報よりも、コーカサスからのニュースにより興味があるからだ。この変化は、一部にチェチェンの戦後に対する統一されたビジョンが不足していることからくる。特に、現在のUmarov大統領は、Udugovの考えよりもZakaevが表明した考えに賛同する傾向にあるからだ。

Aslan Maskhaovが大統領の時に形作られたチェチェンの国会(第2次戦争の間の2005年にモスクワによって選ばれた国会と混乱しないように)は、理論上は今日でも機能している。そして、議長であるLema Saraliapov と現在ストラスブルクやフランスに住む何人かの役人が代表を務めている。しかしながら、これらの人々でさえ、記念日を祝うのに必要な時だけ活動するような傾向で、海外に住んでいて効果的に活動するような機関も戦術も持ち合わせていない。

2006年には、チェチェンは共和国内での人権問題に対して向けられた関心を、より頻繁に利用するようになった。“チェチェン−ロシア友好協会Society for Chechen-Russian Friendship (“Obshestvo Chechno-rossiiskoi druzhby)”による全ての活動と、著名な人権活動家Ruslan Badalov による“チェチェン救国協議会Chechen Committee of National Salvation” (“Chchenskii Komitet Natsionalnogo Spasenia”)に対する訴訟活動に対する裁判所の停止命令は、人権の仕事はすぐに地下活動になってしまうであろうということを意味する (www.grani.ru, October 13, 2006)。絶え間の無い圧力、脅迫そして誘拐が、今でもチェチェンに住む決意でいる人々の日常の生活になってしまった(www.kavkazmemo.ru, October 13, 2006)。モスクワでのAnna Politkovskayaの殺人、そして、ロンドンでのAleksandr Litvinenkoの殺人は、報道陣のチェチェンへの訪問の禁止とあいまって、FSBが関係する限り、北コーカサスでの出来事を報道することが命をかけるに値するかどうか考えさせることになったに違いない。しかしながら、外国のジャーナリスト達が密かにチェチェンに入国し出来事を報道しているということも書かなければならない。最近の例で言えば、the “German Wave”ラジオ局からのドイツ人リポーターがいる (www.newsru.com, December 15, 2006)。

共和国に住むチェチェン人による報告により、ロシア政府はいまだ軍用機が高原地帯で使用され、“平和なチェチェン”というイメージとは正反対な何かがロシア政府によって進められていることを認めざるを得なかった。同様に、一般市民の報告が村々が戦車で砲撃され、しばしばヘリコプターによる機銃掃射で軍隊が不意打ちを受けるということを伝えている(Kavkazky Uzel, December 28, 2006; www.strana.ru, December 21, 2006)。これらのことにもかかわらず、毎年毎年、モスクワは抵抗運動など無く、共和国内の犯罪行為だけ取り締まらなければならないのだと宣伝しようとして来た。ロシア政府は、もう既にチェチェンにおける国際テロリストと戦っていると宣言することの効果が薄くなったことを知っており、今日では、クレムリンは北コーカサス全域の状況が、平和で安定していると描き上げることに関心を持っている。事実は、しかしながら、反対であることを示している。Ramzan Kadyrovが、「ほんの4・50人の共和国を渡り歩くゲリラ」が山の中に残っているだけだといまだに主張しているが、北コーカサス統一部隊the Unified Military Corpsの司令官−Evgenii Barayev将軍−は、もっと多い700人という数字を示している(ITAR-TASS, December 5, 2007; www.kavkazmemo.ru, December 1, 2006)。Ramzan Kadyrov が、7千人のゲリラを市民生活に戻したと自慢していたのも興味深い。これは、面白い数字で、一つはそれが以前公式には発表されていなかった数字だということと、一方で、誰もが、どれだけの人数が今の状況に単純に甘んじていると決心したのだろうかと不思議に思うからだ。

チェチェンからの撤退に関しては制服組の意見が聞こえてこない。共和国の現在の親ロシア指導者は、彼らの現在の戦力(警察1万7千人、“Yug”と”Sever”の大隊、ロシア防衛省からの2部隊、そして“Argun”グループからの3千人の国境警備隊)で、で状況を処理できるであろうと主張している。しかし、ロシア内務省の高官は、残ったゲリラの主要戦力を破壊して始めてこの話題について検討できると確信している (Radio Freedom – Northern Caucasus, August 10, 2006; Interfax – Yug, December 19, 2006)。このことは、内務省の指導者が、抵抗運動の‘主要戦力’がいまだ存在し、多くの有名な司令官たちの死にも係わらず機能しているということを認めたということだ。とりわけ、この地域の親ロシア為政者達(A. Alkhanov, M. Aliev, M. Batdyev, S. Khazret, etc.)の誰一人としてPutin大統領に任命されていない。これは、この駒に対するモスクワの姿勢を現している(Yuzhnyi Reporter #87, December 25, 2006)。

チェチェンからの毎日の報告は、火器による戦闘と不意打ちでイッパイだ。その総数は、その活動の驚くほどの高水準を示している。新しいチェチェン指導部は様々な発表(ロシアに対する軍事活動の更なる拡大に関して、北コーカサスでの活動の増加について、etc.)をしており、Shamil Basaevの死によって影響を受けているようには観られない。これは、2つの事柄のうちの1つを意味する。それは、そのような作戦(そして結果としての多くの一般市民の犠牲)の回避。あるいは、新しい指導部の能力を誇示する為の追加的行動の準備。それは、多くの最近の反ゲリラ作戦を避けるためと、新年の計画を練るための時間稼ぎのための暫定的な沈黙命令が出されていると考えることが出来る。

今日のチェチェンの抵抗運動は、能力があり活動的だ。その指導部は、全ての民族dzhamaats を統制してきており、武装作戦は継続的にロシア政府の指導部に不安とストレスを与え、政府による相互矛盾した幾つもの発表をさせるに至っている。戦争に疲弊したチェチェンの人々はそれでも抵抗を支持しており、チェチェンの戦後に関する論議はまだ活発で、この共和国は北コーカサス全域の抵抗運動の背後にある原動力となっている。最近では、抵抗運動の中での最も弱いところは、国際舞台での報告活動にある。この弱点は将来克服することができるし、しなければならない。2006年の結果から、2007年はロシア政府にとって昨年同様困難な年になるのは明らかだ。なぜなら、チェチェンでもここの他の地域でも、基本的変化が起きているという証拠が何もないから。それだけでなく、様々な親ロシア指導部の不和がチェチェンの抵抗運動を利することさえ考えられる。

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