ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ナーガールジュナ(龍樹)『中論』コミュの龍樹の中観哲学の本質。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
小乗仏教の説一切有部は、存在を細かく分けて、世界は75の存在から構成されていると主張した。

自我は、構成要素によって成立しているものであり、自我が、構成要素に分割できる以上、自我は存在しないという仏教独自の立場を説一切有部も取っていたのである。

ここに、ウパニシャッド哲学やヒンドゥー教の哲学との相違がある。

説一切有部も、小乗仏教とは言え、仏教であり外道ではない。

説一切有部は、75の存在(現代的に言えば原子)は「三世実有」であるとした。

過去にも、現在にも、未来にも存在すると主張したのである。

我々は、目の前に居る猫も、過去に見た猫も、未来の猫も観念(イデア)の中で見ることができ、想像できる。

想像できるもの=思惟の対象となるもの=言葉によって表現できるものの中で、75の世界の根本要素は、実際に存在するとしたのである。

その思考方法は、プラトンのイデア論に似ている。

龍樹は、それに対し、75の存在さえ、言葉によって、作り出された虚構であり存在しないとした。

そして、言葉による虚構を除去した時、世界の真の姿が見えるとした。

世界の真の姿とは「空」である。

仏教では、アリストテレス『形而上学』が実体と呼び、

トマス・アクイナスが、アリストテレスの実体概念を継承し、神こそ実体だと主張した「独立自存」の存在=実体、

デカルトが神に次ぐ実体とした霊魂、理性を持った個人、ライプニッツがモナドと呼んだ「独立自存」の実体を認めない。

仏教では、すべてが相互依存の関係にあると考える。

これをもって、「縁起」と言う。

個々の存在を相互依存の関係として見事に描き出したのが華厳経であり、西田哲学である。

龍樹は、この縁起(相互依存関係)をも、「空」なるものだと述べている。

相互依存関係が「空」でなければ、人間は、異性、妻、子供との関係に執着することになる。

縁起を「空」じることこそ、仏教の基本である。

コメント(33)

>サンジェルマン伯爵さん

できましたら、「龍樹の中観哲学の本質」という本トピの趣旨に対して、
どの辺りにポイントを押さえて対照していくべきとお考えかなど、
少しご見解を頂けますと恐縮です。
>レオンさん

>縁起を「空」じる
如何ようにも解釈できる動詞なので、少しかみ砕いて説明頂けますと、他の方の自由闊達な意見や見解も頂けると思います。

新春から、少しコミュが元気づいてきたようです。
それが、なにより嬉しい限りです。

様々な「般若経」(この経典群の思想を理論的哲学によって正当化したのが中観派の哲学)では、

「悟りも無い」ことが強調され、悟りへの執着も否定されます。

すべてのものが空である境地に執着することも否定されるのです。

独立して何にも頼らず存在する実体は存在しない、すべての存在は、他者との関係において存在しているというのが仏教の立場です。

しかし、関係に執着してもならないのです。

妻子との関係、王子としての国家との関係に執着せず、これらを断ち切り、出家したのが釈尊です。

関係を空と見る者は、関係に執着しません。

中観派の立場は「一切皆空」ですから、関係も「空」だということになります。
>レオンさん
それでは、ありがちな罠、すなわち虚無思想に嵌ってしまうように思われます。
苦しみや慈しみも含めて、「空」なる自己と他者とを、この胸に抱きしめるのが、釈尊の真意と伺うのですが、いかがでしょうか?

すみません。無学なものの浅智恵と笑っていただいても構わないのですが・・・
どうしても「智恵」を囓ったものにとって、核心に触れる部分だと思いましたので。
自我の存在を否定し(無我の思想)、あらゆるものに対する執着を消滅させるのが悟りへの道です。

そのために中観哲学は、すべてのものが空だと説いたのです。

無我の境地は、他者のために自己の生命をも犠牲にするという慈悲を結果します。

法華経では、自分が悟る前に、他人を救い悟りの境地に導けと説いています。

浄土三部経では、法蔵菩薩が、自分以外のすべての衆生が極楽へ行き、悟りを開くまでは、自分は極楽へも行かないし、悟りも開かないとの誓願をたてます。

大乗仏教では、原始仏教と違って、他人の悟りを第一に考えるのです。

空も存在しないということは虚無思想にはなりません。

中観派は、そういう虚無主義も否定します。

自我の滅却という体験が無い限り、なぜ、すべてを空とすることが虚無主義にならないのかは、論証が困難だと言われています。

仏教では言葉で表現できない体験を重視するのです。
サンジェルマン伯爵さん

>これを信じる必要はありません。

どの見解であろうと書き表されただけでは僕たち仏教を学ぶ者は信じてしまうことはないと思います
さまざまに検討し熟慮することと思います
レオンさん

>龍樹は、この縁起(相互依存関係)をも、「空」なるものだと述べている。相互依存関係が「空」でなければ、人間は、異性、妻、子供との関係に執着することになる。 縁起を「空」じることこそ、仏教の基本である。

僕はこのくだりには疑義があります
龍樹は「縁起も空だ」と言ったというよりも、
「縁起だからこそ空だ。空とは縁起のことだ」
と言ったのではないでしょうか?
レオンさん

>関係に執着してもならないのです。妻子との関係、王子としての国家との関係に執着せず、これらを断ち切り、出家したのが釈尊です。関係を空と見る者は、関係に執着しません。中観派の立場は「一切皆空」ですから、関係も「空」だということになります。

もちろん妻子との関係、王子としての国家との関係も実体として存在するものではなく深い真実においては空です
しかしだからと言って龍樹は縁起の理も空だとは言っていないのではないでしょうか?
「実体としては存在しないのは縁起によって世俗的に存在しうるのみだから」というのが龍樹の言わんとしたことではないでしょうか?

妻子との関係、王子としての国家との関係というものは確かに世俗的には存在する
しかし縁起によって存在するばかりで実体として存在するわけではない
すなわち、究極の真理においては空である

ということではないでしょうか?
レオンさん

>自我の滅却という体験が無い限り、なぜ、すべてを空とすることが虚無主義にならないのかは、論証が困難だと言われています。仏教では言葉で表現できない体験を重視するのです。

いや、むしろ龍樹やその他の大乗の論師は空観が決して虚無主義ではないことをさかんに論証しようとする論書を遺していると思います
78910さん、

梶山雄一著作集『中観と空 ?』をお読み下さい。

非常に、理解しやすいものです。

関係が空でないとしたら、一切皆空という中観哲学の根本を否定することになります。

中論の注釈としては最も優れたものを書き、中観派研究の中心であるチベットにおいて、非常に尊敬されているチャンドラキールティ、あるいは、その他の中観派の理論家は、

空を論理的な言葉で哲学的に表現することを、あきらめ、哲学から逃亡し、「空とは言葉を超えたもの、言葉では表現できないもの」だとして、逃げたのです。

梶山雄一は、この逃亡を批判し、空を論理的な言葉による哲学によって表現することが、チャンドラキールティたちにできなかったのは、彼等の哲学が「形式論理学」に依拠するものであり、弁証法の論理学に基づくものではなかったことにあると書いています。

そして、現代の全世界の仏教学者も、弁証法による空の表現という課題を達成できていないと書いています。

中観哲学への弁証法の適用こそ、21世紀の課題だと思います。
補足・

縁起であることが「空」であり、縁起と呼ばれる関係性が「空」であっても、その空を、さらに空じなければならないと説くのが中観派です。

そうやって到達した「空」は言葉では表現できないとチャンドラキールティーは言いました。

中観派の哲学者は、哲学から逃亡したのです。

彼等が、やり残したこと=「形式論理学ではなく、弁証法的論理学」によって、空を哲学的言語で表現することが、21世紀の課題なのです。

弁証法的論理学を観念論的に大成したのがヘーゲルです。

しかし、プラトンのイデア的発想(観念論)をする説一切有部の批判の上に中観派は成立しました。


弁証法的論理学を唯物論的に大成したのが、マルクスです。

「マルクスは論理学と名のつく本は書かなかったが、『資本論』という論理学の本を書いた」と言われています。

マルクスの理論の摂取無しには、中観哲学の発展はありえないと思います。

その点で、禅の悟りから出発した西田幾多郎が、自己の哲学にマルクス主義を取り入れたことは、示唆的です。
レオンさん

>関係が空でないとしたら、一切皆空という中観哲学の根本を否定することになります。

もちろん、関係という事象も含めて一切の事象は究極の真理において空です


>中論の注釈としては最も優れたものを書き、中観派研究の中心であるチベットにおいて、非常に尊敬されているチャンドラキールティ、あるいは、その他の中観派の理論家は、空を論理的な言葉で哲学的に表現することを、あきらめ、哲学から逃亡し、「空とは言葉を超えたもの、言葉では表現できないもの」だとして、逃げたのです。

逃げたというよりも、言葉や概念的思考でとらえようとした途端に空を二元論の次元にまで引き下げることになってしまうから、あくまでも謙虚であろうとしたのだと思います
この謙虚さを肝に銘じた上で謬見を排除する哲学的努力は誠実に行なっていたのではないでしょうか?
レオンさん

>縁起であることが「空」であり、縁起と呼ばれる関係性が「空」であっても、その空を、さらに空じなければならないと説くのが中観派です。

もちろん空を実体化してとらえてしまう過ちは避けなければなりません


>そうやって到達した「空」は言葉では表現できないとチャンドラキールティーは言いました。中観派の哲学者は、哲学から逃亡したのです。彼等が、やり残したこと=「形式論理学ではなく、弁証法的論理学…

僕は真実の空観にまで至る瞑想の行者においては、本人たちがそれを弁証法的論理と呼ぶことを知らなかろうが知っていようが、実質的には形式論理を超えて弁証法的論理を思考において駆使していたととらえています

ヘーゲルやマルクスの知識がなくても、人間の精神の発達階梯を急速によじ登ってゆく瞑想実践においては、実質的に形式論理は乗り越えられ弁証法的論理に突入してゆかざるをえず、事実そうであったと僕は思います
弁証法と言うより四句分別を駆使したんじゃないかな・・・。

有、無、非有非無、亦有亦無って具合に。
78910さん、

その瞑想によって、言葉で表現できない「空」の境地に到達できるとしたことが問題なのです。

「ヘーゲルやマルクスの知識がなくても、人間の精神の発達階梯を急速によじ登ってゆく瞑想実践においては、実質的に形式論理は乗り越えられ弁証法的論理に突入してゆかざるをえず、事実そうであったと僕は思います」

「実質的に・・・弁証法的論理に突入」と言われるが、その弁証法的論理を中観派の理論家が論理的言葉で表現していません。

また、言葉=ロゴスで表現されないものは論理ではありません。

禅は空を論理で表現することを拒否します。

インドの中観派の理論家が到達した地平は禅と極めて似たものなのです。

レオンさん

>その瞑想によって、言葉で表現できない「空」の境地に到達できるとしたことが問題なのです。

瞑想以外の手段によって空の境地に到達できるとも思えませんが…
いや、死に際しては僕たちの微細な意識の連続体は空の境地を味わうこともあるのかもしれません


>「ヘーゲルやマルクスの知識がなくても、人間の精神の発達階梯を急速によじ登ってゆく瞑想実践においては、実質的に形式論理は乗り越えられ弁証法的論理に突入してゆかざるをえず、事実そうであったと僕は思います」…「実質的に・・・弁証法的論理に突入」と言われるが、その弁証法的論理を中観派の理論家が論理的言葉で表現していません。

確かにナーガールジュナの著作を読んでもその論理の中心はあくまでも厳格な形式論理の適用によって論敵を打ち破ることであるように見えます
しかし、言説の上では当時の文化的発達度にある程度、縛られているとは言え、その著作を詳細に読めば著者が明らかに形式論理を超えた瞑想段階に立っていることがうかがえると思います
その形式論理を超えた瞑想段階で到達した境地をロゴス化していないことが問題なのです。

「空とは言葉では表現できない」と言った時、それは、哲学を放棄したことを意味するのです。
レオンさん

>言葉=ロゴスで表現されないものは論理ではありません。

書き表されたり言い表されたりしなくとも、意識内の微細な、あるいは粗大な働きそのものも論理であるととらえることもできるでしょう


>禅は空を論理で表現することを拒否します。インドの中観派の理論家が到達した地平は禅と極めて似たものなのです。

もちろん中観派も空そのものを論理や言説で完全に表現することの不可能性ははっきりと自覚しており、ただその前段階を辛うじて論理や言説によって注意深く言い表すことが可能なばかりだろうと思います
僕が書いたことは、梶山雄一の議論でしかありません。

梶山雄一は、中観研究の第一人者です。

彼を超えるには、サンスクリット語で、中観派の文書を読むしかありません。

78910さん、一緒にサンスクリット語の学習をしませんか。
レオンさん

梶山雄一先生が言葉に言い表された論理や微細な意識の中の論理、さらに弁証法や中観派が哲学から逃げているかどうかなどについてどう述べていらっしゃるかについては僕は存じません

ただ僕はわずかな時間を仏教の清らかなお導きを通して少しでも自分をかえりみ、高め、豊かにしてゆきたいと精進するばかりです

お誘いですが、今の自分はサンスクリット語を学ぶ立場ではありません
レオンさん、論理や言説には限界があることを知るべきだろうと思います。

論理や言説は表現したとたんに、何事かを捨象してしまうからです。

そのことは哲学の放棄とは違い、哲学を深めることだろうと思います。

ただ、仏教は哲学ではありません。
石田さん、

それは、チャンドルキールティや、禅の僧侶たちが言っていることです。

しかし、梶山雄一は、空とは何かを、哲学的言語で表現すべきだと言っています。

簡単に、言語で表現できないと言ってしまえば、龍樹以来の中観派の理論家が、やってきたことについて、初めから、やらない方が、ましだったと言わなければなりません。

龍樹が、ディレンマ、トリレンマのロジックを使い、中観派が、中観自立論証派と中観帰謬論証派の分かれて、言葉によって論争してきたことも無駄な徒労だったということになります。

後期中観派が、唯識派と融合したことの意味も分からなくなるのです。
中観派は、インドのカントと呼ばれるダルマキールティの認識論や、ディグナーガの論理学を吸収していきます。

中観派が、空を、言葉では表現できないものとしておくだけでいいと考えたなら、

論理学や認識論の摂取など、しなかったはずです。
 色(もの)の空は、物理学的な考察が必要です。
 相互依存は、現在、反対や疑問の多い考え方です。
 青目釈は、違います。
   http://ww4.enjoy.ne.jp/~okano11/
>>[028]

>色(もの)の空は、物理学的な考察が必要です。


物理学を知らなかった龍樹論師については、どう言えるのでしょうか。
>>[29]

 「明晰 現代語訳 中論」の付録、上記、ホームページにも

  記述しています。

  龍樹の偈を註釈した青目の解釈は、物理学的です。

  色(もの)の「空」を説くのですから、物理学的になるの

  は当然です。

  「瞑想」のなかで、物理学的思考によって、「万物の真理」

  を発見したと考えられないでしようか。
>>[030]

>色(もの)の「空」を説くのですから、物理学的になるのは当然です。


受や想や行や識の空を説く際は、物理学的ではなく違うふうに説いたと分けていらっしゃるのでしょうか。
>>[31]

般若心経において、色は空。受・想・行・識も同じ。

 の表現によります。

 中論では、13章に詳論します。「色」の空が中心に論じられて

 いると思います。
 上記[28]のホームページにエッセイをアップしました。
 これに、「縁起−無自性−空」を物理学的に、具体的に表現しています。

 御意見戴ければ幸いです。

ログインすると、残り4件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ナーガールジュナ(龍樹)『中論』 更新情報

ナーガールジュナ(龍樹)『中論』のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。