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(哲学, 社会 blog) 硬めブログコミュの「浅田彰 症候群」 --- グロテスクな教養

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グロテスクな教養 (新書) 高田 里惠子 (著)

「教養とは何か」「教養にはどんな効用があるのか」―。大正教養主義から、八〇年代のニューアカ、そして、現在の「教養崩壊」まで、えんえんと生産・批判・消費され続ける教養言説の底に潜む悲喜劇的な欲望を、出版社との共犯関係・女性や階級とのかかわりなど、さまざまな側面から映しだす。知的マゾヒズムを刺激しつつ、一風変わった教養主義の復権を目指す、ちょっと意地悪で少しさわやかな教養論論。

____________________


浅田彰は、たまにFinalventブログにコメントを書き込んでる。

____________________

>>> 解決ができ次第、削除させていただきます。

> じゃあ余計に助けてあげる気が失せた!

「聞くは一時の恥」で、質問している事 自体が恥ずかしいという心理なんだろうなぁ。

日本型 学校秀才に顕著な「浅田彰 症候群」の一形態ですなぁ。

コメント(13)

http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1158282978/
「ブログ炎上」という。最近では亀田興毅の世界戦を見て「本当に感動した」と書いた女子モーグルの上村愛子や、後輩アナウンサー
のパンツ盗撮事件で「男子はパンツを見たい生き物」と書いた日テレの薮本雅子元アナのブログが“炎上”したが、なぜこういう事態が起こるのか。

 メディア評論家の美崎薫氏はこう言う。
「有名人のブログで不用意な発言があると、『2ちゃんねる』などの掲示板を入り口にして、
あっという間に袋叩きにされます。匿名性をカサに着た卑怯な行為ですが、ネット上には
こうした“お祭り”を楽しみにしている野次馬が少なからず存在するのです」
 

香山リカ
『2ちゃんねる』に書き込んでいる人のなかには、一般社会では発言権がないからああいう場で発散している人もいるわけで、
そういう意味では彼ら こそ社会的に弱者だったりマイノリティの立場だったりするはずなのに、なぜ石原さんが好きなのか理解に苦しみます。 石原さんはあんたたちのこと嫌いだよ、と思うんですけどね(笑)。

浅田彰
右傾化した若い人たちは「サヨ」を嘲ってさえいれば自分がひとかどの「国士」として公論を述べているかのような錯覚を持てる。 
実際はひきこもりの「ネットおたく」に過ぎないとしても、たまたまネットという媒体が与えられたため、
自分が「政府高官」にでもなって「国益」を論じているかのような妄想が膨れ上がってくるんでしょうね。

宮台真司
男の子は「2ちゃんねる」的な掲示板に引きこもって脆弱なプライドを温存する結果、とても人前に出せない、
それこそ掲示板の世界に永久に引きこもっておいてもらうしかないような勘違い野郎が急増しています(笑)。
「浅田彰 症候群」には2つの原因がある。

1.恥をかきたくない。小心者。

2.自分のMotivation(自慢したい欲求)に敏感。

(三島由紀夫の韜晦)

「男の論理」「心理」では 掲示版に書き込む目的は「自慢(誇示)」(そのための手段として「相手を侮辱」)

(これは、大学教師(院生)タイプの男でも同じ。「説教する」態度になる。)

浅田彰ほどに敏感だと、「説教する」ことも出来ない。

したがって、知ったかぶり(引用)だけをする事になる。
講義が下手な大学教師

エピソード希望。

日本の大学の講義は世界一退屈だ。アメリカの大学で日本レベルの講義やったら、すぐクビだよ。

私が特に興味があるのは以下の事:

普通の人間なら、話が下手で聴いてる人間が退屈したら、講師がそれを気にしたり、面白くしようと努力したりするが、

日本の大学教師は気にしない。「超人的な鉄面皮」で、淡々とテープレコーダーのように下手な話を続ける。
_____________

能面のような顔をして1時間でも2時間でも続ける。

(能面と言えば浅田彰)

大学教師の他にも、ああいう話し方をする職業があるか?

裁判官?

自動車学校の講師も あんな感じ?
amazon レビュアー: C.ハサウェイ

>>> 人文社会系のアカデミズムが大学で「カルチュラル・レフト」となっているのは全世界的な現象のようだが、この本では日本における固有の系譜が辿られている。

明治時代に輸入された西洋の諸学への不信感が社会背景としてあるなかで、当時の受験エリートである旧制高校の生徒のあいだでは単なる受験秀才ではないことを示すための差異化のゲームが行われていた。

そのための主要なツールとして教養があったが、これには岩波文庫の出版が関連しているそうだ。この差異化のゲームは高等教育の大衆化と共に拡散し知をブランディングの記号商品とするにいたる(ニューアカデミズム)。

ここで再販制度に守られた大手出版社の編集者の手による興行企画が大きな役割を果たしていた。

また最終章では女性の教養消費について論じられている。この本で記述された系譜は昨今より広い読者層に向けてサブカルによって差異化してゆく批評・啓蒙ビジネスの今後の動向を予想するうえで重要である。
amazon>>> 以前、同じ著者の『文学部をめぐる病』も読んだが、


>>> 昔の教養青年たちが、今では「たんなる外交官、たんなる医者、たんなる高級官僚、たんなる東大教授……」にしかなっていない、という批判


>>> 甘さが目立つ, 2005/7/13
レビュアー: カスタマー
既に書かれたレビューに「腰砕け」「コップの中」という批判があるが、そのとおりだと思います。近代日本の教養論をめぐる「いやらしい」叙述が、ニューアカやその周辺を対象にすると急に弱くなってしまう。周到に批判を避けているのですね。著者の世代が教養論を書くなら、ニューアカの功罪を新しい視点で論じることを避ける理由はないと思います。
ともあれ近代日本の教養論を通覧するのには便利な一冊。末尾の参考文献も役に立ちます。


http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%81%AA%E6%95%99%E9%A4%8A&lr=
グロテスクな教養 の検索結果 約 603 件
31 名前:りえこちゃんかわいいよ :2005/06/10(金) 16:01:42
高田里恵子「グロテスクな教養」 ちくま新書

前著「文学部をめぐる病」で一躍有名になった(一般には多分
この本しか知られてないと思うが)人の最新刊。著者はドイツ
文学論・(日本の)ドイツ文学者論を研究している。

「文学部をめぐる病」では、戦争期のドイツ文学者の果たした役割や
その時期の教養主義、「二流」文学者のあがきなどのテーマを怜悧に
かつ暖かに見下ろして(批判・反批判を超えた地平で)描いた名著であった。
本書では、戦争期に限らず戦後期、ニューアカ時代などへも視野を向け、
テーマとして前著の「男の子の教養」「二次大戦期・戦争と教養」に加えて
さらに「アカデミズム・ジャーナリズム(編集者)と教養」「女の子の教養」
など幅広く語っている(巻末の参考・引用文献が17ページある)。

著者の専攻を超えてさまざまなことを論じているため、多少まとまりが
なかったり、ツッコミが足りないように思う部分もある。しかし得意分野である
「教養主義=教養主義批判」を担ってきた旧制高校的文化、それにまつわる
男の子たちを論じた部分はやはり面白い。旧制高校的なるものに縁がない
現代の若者にとっても、半世紀前の若者たちの「僕は単なる受験秀才なんか
じゃない」という自意識をめぐる「教養ゲーム」への悲しくも滑稽な奔走に
対して、感じる所があるように思う。あと30年生まれるのが遅かったら
きっと「やおい」小説やマンガの分野で活躍していたんじゃないかというくらい、
そのあたりの男の子たちの記述に熱がこもっている。



32 名前:りえこちゃんかわいいよ :2005/06/10(金) 16:02:01

第二章の「二次大戦期・戦争と教養」では、現代と同レベルの大学生批判、
教養主義の崩壊についての論述が興味深い。浅羽通明なんかも語っている
とおり、日本には教養なんてものはなじまないのである。

最終章の「女の子の教養」では、「女の教養」についての言説をたどりつつ、
女の子にとっての教養=男探し=上昇婚と、階級とのかかわりという面から、
「心貧しくなにかを求め続ける」教養主義者の男の子が、ブルジョア家庭の
女の子=父の娘=男探しをしないエリートに打ちのめされる悲しみや、
男の教養と女の教養の連動などを語る。
そして最後に鶴見祐輔の小説「母」を論じつつ、男を獲得したあとの
「女の子いかに生くべきか」というテーマを、「男の子いかに生くべきか」
とともに「君たちは、どう生きるか」というテーマに収束させる。

文章全体に流れる半分冗談・半分本気な記述にもかかわらず、「あとがき」
を読むことでちょっとだけ本気だということがわかる。グロテスクで
いやったらしいけど、ちょっとだけさわやかな読後感の本である。
34 :名無し専門学校:2005/12/10(土) 12:34:26
 大学生でなくても知っているやつは知ってるし
 大学生でも知らないやつは知らないよ

1930年代からの伝統だな。『グロテスクな教養』からの引用 -------

1930年代の教養論の代表的著者であった谷川徹三は、1936年に「中央公論」
に載せた論考「教養と文字の世界」を、次のようにはじめているのだ。
日日新聞の「傘雨亭夜話」に先達こういう話がのっていた。
『本屋の前に立った二人づれの大学生の一人がいった。「トルストイって
何だっけ?」それにこたえて連れの一人がたしなめるようにいった。
「露西亜の小説家じゃあないか。」まえの一人はかさねていった。
「印度のもこんな名まえの奴があったじゃないか?」それにこたえてあとの
一人はもう一度いった。「あれあ、ヴィクトル・ユーゴーだよ。」』
ここで著者久保田万太郎は言っている。『諸君諸君、親愛なる読者諸君、
決してわたくしは、「うそ倶楽部」をここまで延長して来たのではありません。
ある日、あるときある学生町で、はっきりとわたくしの見、はっきりと
わたくしの聞いたところなのであります。』


36 :名無し専門学校:2005/12/10(土) 12:55:07
34続き

しかし私は思うに、この大学生達もスポーツについては、オリンピック派遣選手の名前にことごとく通じ、ひょっとすると彼らの陸上水上の最高記録を
何秒何分の一の末までそら暗じているかも知れないし、映画については無慮数百人の大小監督、男女俳優の名前と作品と、さらに日常の生活や好みの
食べものまで知っているかもしれない。彼らに教養がないと人がいうとき、彼らはそれが何を意味するかを解しないかも知れぬ。

ドストエフスキーとベートーベン
「先生、ドストエフスキーって誰なんですか?」とある東大(文系)大学
院生が、授業中に発したというこの質問は、東大教師の論考『「教養崩壊」
の時代と大学の未来」(『世界』2002年12月号)に紹介されて話題になり、
奇妙にスキャンダラスに流通してしまった。ドストエフスキーも知らない
東大生がいる!というわけである。
××も知らない東大院生は(たまたま)女子学生であったのだが、ドスト
エフスキーを知らなくとも、『アンナ・カレーニナ』という「不倫の話」は
ヴィデオで観たことがあるからトルストイの存在は知っており、また
「メディア・リテラシーがあり、サブ・カルチャーについての「教養」は
「極めて豊富」で、小さなシナリオを書いてオンエアされたこともあるという。



37 :名無し専門学校:2005/12/10(土) 13:07:22
36続き
70年前のトルストイ云々が、現今のドストエフスキーをめぐる話とほぼ同じ
構造になっているのは愉快なくらいではないか。


学生の教養崩壊を嘆く声は、「実際、昭和の10年代には、哲学者三木清が
大学生の「知能低下」を指摘しています」と蓮實重彦が言っているように、
1930年代中ごろに大合唱となった。わが国最初の教養崩壊議論である。
しかしその時には、嘆くものたちは、自分たちの特権的共同体の一員と
なるべき後輩達の未来に心を砕いていたのだった。
文学部をめぐる病い―教養主義・ナチス・旧制高校 (文庫)
高田 里惠子 (著)

¥ 998

内容(「BOOK」データベースより)
戦時中はナチスにコミットし、戦後はヘッセの「よき理解者」として活躍する独文学者。しかし、それは決して“変節”などではない。“一流”を断念した、エリート=“二流”たちの誠実な仕事ではあったのだ。豊富な引用と、愛情(皮肉?)たっぷりの註釈を満載して「文学」ではなく「文学部」のメンタリティを鮮やかに浮かび上がらせる。ますます大衆化する現代日本の中で、内なる“二流”を抱えたすべての人にささげる哀感コメディ。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
高田 里惠子
1958年神奈川県生まれ。東京大学大学院博士課程(ドイツ文学専攻)単位取得退学。桃山学院大学教授
_________________________________

「二流」という同語反復, 2006/6/1
レビュアー: 沈思黙考 (冥王星) - レビューをすべて見る

「本書は「二流ということ」、そしてその悲哀についての研究である、と答えたい。」とは、著者の弁。
在野にあって文学を物す一流の芸事師にあらざる文学部職員・・・
身分の保証された制度に守られながら、翻訳・感想文に明け暮れてきた外国語研究者を「二流」と称しておられる。
「自分自身が没落しつつある斜陽産業に従事しているせいか、堅実そうに見えていた職業が社会の変化にともなって凋んでいくことに、
必要以上に敏感になるようだ。ドイツ語教師あるいはドイツ文学者という職業は、近頃どうもさえない。
実学重視のかけ声とともに第二外国語のクラスは減らされるばかりであるし、ドイツ文学を専攻した院生の就職はきわめて難しく、
西洋文学の翻訳や研究書が文化的インパクイトをもたらすこともめったにない。」
 そもそも成熟した欧米人を唸らせるような世界的思想(ウィトゲンシュタイン・ニーチェ・ハイデガー etc)が、
日本人の中から生まれてくるなどと本気で信じていらっしゃったのだろうか? 断念の自覚なき研究者が過半を占めていたようで空恐ろしい。
「評価が曖昧にならざるをえない学問領域では、研究会を作り賞をこしらえ、仲間同士で盛りあげ誉めあい、
誰それは優秀な学者だと噂を流し信じるふりをしなければならない。わたしにとって他人事でなかったのは、この状況そのものではなく、
本書の登場人物たちがこの状況に時には反抗し時には翻弄され、それなりに自己嫌悪に陥るさまである。」
断念を自覚した上で、「あえて」ゲームをなさっているのではなく、本気で舞い上がってしまいかねない研究者の姿は、実に痛ましい。
「丸山政治学は思想的に日本人を混乱させた元凶でした。

過去の分析も戦後の状況判断も完全に誤っていた」

という中村勝範氏(慶応大学)のコメント

http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/sorrow.htm

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&c2coff=1&q=%E4%B8%B8%E5%B1%B1+++%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%8B%9D%E7%AF%84&lr=
丸山 中村勝範 の検索結果 約 463 件
http://www.tamanegiya.com/maruyamabakao1.html

平成大学学長である中村勝範氏が「正論」二〇〇三年一一月号において「変節者の典型であった丸山眞男の神国日本論」という論文

<丸山はマルクス・レーニン主義が青白い秀才達にもてはやされている時代にはその走狗となり、軍国主義の時代にはそれに追従し、敗戦・占領下においては占領軍の奴隷であった。>p二六一


<丸山は平成八年八月、八二歳で永眠した。丸山への追悼文が『丸山眞男の世界』に収められている。その中でテツオ・ナジタは、丸山は長年にわたり揺る宜ない一貫した姿勢を維持し、学者として知的な批評家として非難の余地のない高潔さこそが丸山の魅力だったと述べている。

またマリウス・B・ジャンセンは、丸山ほどのビジョンと強固な意志をもった人物は、日本では明治維新以来ということになるのでないか、と書いている。いずれも読む者が赤面せざるを得ない>P二七〇


<そもそも「非難の余地のない高潔さ」などという言葉は学者のいうべきことではない。古来、日本には、たたいて埃の出ないものはないという。まことに知恵深い諺がある。

またマルクス主義が猖獗をきわめた時にはその侍女となり、国家社会主義的革新の風潮時代にはそれにつき、戦争下においては神国日本・一君万民に唱和し、占領下においては占領軍公認の「超国家主義」の尺度により、丸山自身がかって神国日本とたたえた祖国を罵倒した丸山である。

変節につぐ変節である。これほど節操のない丸山が、日本国民の中に存在したことは日本民族の恥辱である。>・P二七〇
[今村仁司]  人柄について知りたい。

>>> 1990年7月の公開座談会で一度だけ間近でみたことがある。他に二人、広松渉、丸山圭三朗がいた。講談社現代新書のPRをかねた座談会だったが、そこで司会を兼ねて喋っていたのが今村だった。

 そのときの座談会の印象では、丸山は一言一言慎重に言葉を選ぶ。関西訛りがある。広松はハキハキとしてよく通る声。とにかくマルクス擁護に懸命。今村は、どこか俯き加減でゴニョゴニョと喋る。話し振りは意外にねちっこい。

 文字だけから想像していたのと違い、この人も実は激情の持ち主ではなかったか、と今振り返ると思う。「広松さんが今だにマルクスを擁護する理由が、けっこう僕は付き合いが長いんですがよくわからんのです」とやんわり絡んでいた口調がいまだに残っている。

>>>  期せずして三人の本が講談社現代新書から出ることになった。それで企画されたらしい。

 丸山の『言葉・狂気・エロス』、広松の『今こそマルクスを読み返す』、今村の『作ると考える』がそれ。

 今村の発言から印象的なところを抜粋すると、「最近、『情況』という雑誌が復刊されまして、僕も書いてるんですが、そこに広松先生が発表された論文が大風呂敷で、僕はけっこう付き合いが長いんですが…」

(広松の、「世程の天才でもないかぎり、まったく新しい革命理論などは作れるものではありません」つまり、どこまでもマルクスにこだわる理由をそう述べたのにたいして)

今村は「いや、広松さんは天才じゃないですか」(つまり、広松ならそれが出来るのではないか)と返す。マルクス、マルクス、と連呼する広松への今村の苛立ちが垣間見える一瞬だった。

__________________


14 :考える名無しさん :2007/05/09(水) 22:57:36
広松が最晩年に、日中提携して東亜の協同体をとか言ったとき
今村が広松追悼?で、「日本の知識人は、漢籍の教養をもって
東洋を知ってると思い込んでいる」と批判した。
『エコノミスト』の記事かな。だから彼自身はタイから考えてたのかw
『イミダス』の思想項目で、西田哲学と天皇制の関係を批判してたのも
現代思想系としては異色?で面白かった。
その後飽きたけど、『現代思想を読む事典』『現代思想のキーワード』
『作ると考える』は、思想入門としてお世話になりました。合掌。


15 :考える名無しさん :2007/05/10(木) 00:29:51
 講談社現代新書から出てる『現代思想を読む事典』には俺もお世話になりました。

 あとは『現代思想』誌上でのドゥルーズをめぐる浅田彰との対談など記憶に残ってます。今村は浅田との対談にさいして原書で『アンチ・エディプス』と『ミル・プラトー』を読んできたと対談で語ってるね。

 『構造と力』当時の冴え渡る浅田との対談は読み応えがあった。


16 :考える名無しさん :2007/05/10(木) 00:40:44
主著は『労働のオントロギー』?


17 :考える名無しさん :2007/05/10(木) 01:10:21
>>15
当時京大の学生だった浅田を世に送り出したのが今村だよね。

>>16
『排除の構造』じゃないか?
http://d.hatena.ne.jp/rento/20070521
末廣幹という馬鹿の次のような発言である。

さらに深刻に思われることがある。天に唾することを承知の上で述べさせていただければ、それは研究者としてのマナー欠如が目立つことである。若手として発表をして。(目上の)研究者に質問されたときには、学会や懇親会の会場で礼を述べ、後日、メールや書簡で礼状を述べるのがしかるべきマナーだと思うが、残念ながら、最近では、大学院生の発表に質問しても、その後発表者から礼を述べられることは稀になった。ここで若者のマナーの欠如について嘆くつもりもない。むしろ責められるべきは、学会で発表する上での基本的なマナーさえも教えられていない指導教員であると思っているからだ。(中略)大学院生の基本的なマナーのみならず肝心の研究に関してさえも、じゅうぶんに行き届いていない現状では、協会はひとつの教育機関として健全なチェック機能を果たしていく必要があると思う。
あと、これはほんとうに未確認なのだが、彼とともにいつもあるセクハラ疑惑はどうしたものかと思う。これも未確認情報なので、彼はその疑惑をなんらかのかたちで、なんらかの場で晴らすべきであろう。下衆ヤバ夫*1にならないためにも。みずからに不本意なかたちでまつわりついている不健全な噂を払拭されることを、これは皮肉でも嫌がらせでもなんでもなく祈っている。そうでないとあなたが「健全なチェック機能を果たして欲しい」という願っている協会が、そして英文学会関東支部が、あなたの存在で健全じゃなくなるから。

*1:末廣の顔は、「アンタッチャブルの山崎」だといわれているが、そういえば、昔、フジテレビの深夜のお笑い番組『リチャードホール』で「下衆ヤバ夫」というキャラクターを山崎が演じていたときはそっくりだと思った。ただ私個人としては、末廣の顔は映画監督のデヴィッド・リンチだと思っている。ただし*********になったデイヴィッド・リンチに


>>> さらに深刻に思われることがある。天に唾することを承知の上で述べさせていただければ、それは研究者としてのマナー欠如が目立つことである。若手として発表をして。(目上の)研究者に質問されたときには、学会や懇親会の会場で礼を述べ、後日、メールや書簡で礼状を述べるのがしかるべきマナーだと思うが、残念ながら、最近では、大学院生の発表に質問しても、その後発表者から礼を述べられることは稀になった。ここで若者のマナーの欠如について嘆くつもりもない。むしろ責められるべきは、学会で発表する上での基本的なマナーさえも教えられていない指導教員であると思っているからだ。(中略)大学院生の基本的なマナーのみならず肝心の研究に関してさえも、じゅうぶんに行き届いていない現状では、協会はひとつの教育機関として健全なチェック機能を果たしていく必要があると思う。<<<


わろた。w

書いてるのは老害モウロク教授かと思ったら、40才前半のヒヨコだよ。w

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