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監督・宮崎吾朗コミュのゴロー監督へ

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先生からゴロー監督の、ゲド戦記へのお言葉
http://www.ursulakleguin.com/GedoSenkiResponse.html

英語読めないので1と2に機械和訳を載せます。

コメント(24)

ゼドSenki
「ゼドSenki」へのFirst Response、スタジオジブリのためにGoro宮崎によって作られたEarthseaフィルム。
日本の映画に関して連絡している私のファン、およびほかの場所のそれに関して好奇心が強いかもしれないファンのために、書かれています。
予備の注意:
ほんのわずかな作者は映画撮影所のそばの彼らの本でされた使用を少しも管理します。 一般的な規則は契約がいったん調印されると、本の作者が実在しないということです。 「創造的なコンサルタント」のようなラベルは無意味です。 フィルムで何にも責任があるようにスクリプト作家以外のどんな作家も保たないでください。 なぜしたか。本の作者に尋ねないでください、「それら… また、」 Sheは不思議に思っています。

歴史に事情を知らせてください:
およそ20年前に、Hayao宮崎さんは、アニメ映画をEarthseaの(次に、3だけ)本に基礎づけさせていることへの関心を示しながら、連絡しました。 私は彼の仕事を知りませんでした。 私は、ディズニー-タイプアニメーションだけを知って、それが嫌でした。 私はいいえを言いました。

6年か7年前に、私の友人Vonda N.マッキンタイヤはMy Neighbor Totoroに関して私に話しました、そして、私たちはそれを一緒に見ました。 私はすぐに、そして、いつまでも、宮崎ファンになりました。 私は、彼が黒沢かフェリーニと同じ口径の天才であると考えます。

数年後に、私は、彼はまだEarthseaに関心があるなら私がフィルムに関して彼に対する話を歓迎すると彼に言うように彼女に頼みました。(その時、私は、後のEarthseaの本の楽しい日本人の翻訳者(Masako清水さん)がHayao宮崎さんを知っていたのがわかりました)。

私には、スタジオジブリのToshio鈴木さんとの快い通信がありました。 私たちの通信では、私は話かキャラクタへの根本的な変更の不得策を主張しました、とても多くの読者にとって、本が非常によく知られているので、日本でほかの場所。 彼が彼のフィルムを作る際に持つべきである想像の自由を持つために、私は、宮崎さんが最初の2冊の本の間で10年か15年の期間を費やすかもしれないのを提案しました: 私たちは、Archmageになることは別としてGedがその当時には何をしていたかを知りません、そして、宮崎さんは彼に好きであった何でもさせることができました。 (私がそのような命題をする他のフィルムメーカーは全くありません。)

2005年8月に、スタジオジブリのToshio鈴木さんはHayao宮崎さんと共に私と私の息子と話すようになりました(Earthsea著作権を所有している信用を制御します)。 私たちは私の家に快い訪問を持っていました。

Hayaoさんがフィルム作成から引退したがっていて、家族とスタジオが、全くフィルムを一度も作ったことがなかったHayaoさんの息子Goroがこれを作る必要だったと私たちに説明されました。 私たちも、非常に失望していて、また、心配していましたが、プロジェクトがいつもHayaoさんの承認を必要としているだろうという本当に、保証された印象を私たちに与えました。 このことを了解した上で、私たちは協定をしました。

その時、仕事は既にフィルムに始まりました: 贈り物、HayaoさんによるホートTownのスケッチも、およびそれの終わっているバージョンとして子供と竜のポスターのコピーをスタジオの芸術家から私たちに与えました。

フィルムへの作業はその後に非常に急速に先へ進みました。 私たちは、すぐ、Hayaoさんが、全くフィルムを作るのに参加していなかったとわかりました。

私は、彼から非常に感動的な手紙を持っていて、Goroさんから後の1つを持っていました。 私はそれらにできるだけよく答えました。

私は怒りと失望が太平洋の両岸でこのフィルムOceanの作成に出席したのが残念です。

私はHayaoさんが結局退職していませんが、今別の映画を作っていると言われます。 これは私の失望を増加させました。 私は、それを私の過去のこととするのを望んでいます。

フィルム。
私の息子と私がフィルムの初演に東京に行くことができなかったように、スタジオジブリは、非常に親切にコピーを私たちに持って来て、2006年8月6日日曜日に街劇場で個人的な選別を私たちに与えました。 喜ばしい折でした。 子供と一緒にいる多くの友人が来ました。 それは、子供の応答を得るために楽しませていました。 いくつかの、より若いものが、むしろ怯えているか、または混乱していましたが、より年取った子供はそれにクールでした。

選別の後に、私たちは、私の息子の家で夕食を食べに行きました。 ウェルシュコルギーのエリノアはすばらしい正当で振る舞いましたが、Toshio鈴木さんは芝生で倒立しました。

ちょうど私が去る予定であったので私に尋ねられたGoro宮崎さん、「あなたは映画が好きでしたか?」 こういう状況なので、答えるのは、簡単な問題ではありませんでした。 私は言いました: 「はい。」 それは私の本ではありません。 それはあなたの映画です。 「それは良い映画です。」

私は、彼と私たちの周りのわずかな人々以外のだれとも話していたとわかりませんでした。 私は、個人的な質問に関する個人的な回答が公表されないのを好んだでしょう。 単にGoroさんが彼のブロッグでそれについて言及したので、私はそれについてここに言及します。

したがって、絶えず15分間すべて公共のものの精神では、私はフィルムへの私の最初の応答の、よりふくよかなレポートを与えるつもりです:

それの多くが美しかったです。 しかしながら、多くの角がこのすぐに作られたフィルムのアニメーションで切られました。 それには、"Totoro"のデリケートな精度か「千と千尋の神隠し」の詳細の強力ですばらしい豊かがありません。 イメージは、有効ですが、しばしば従来です。

それの多くがおもしろかったです。 興奮は私が深く本の精神に虚偽であることがわかる1度への暴力によって維持されました。

私は、それの多くが支離滅裂であると思いました。 これは私が私の本の話を見つけて、私の話にもかかわらず、完全に異なったテンペラメント、歴史、および運命の同じ名前で人々によって紛らわしく制定された完全に異なった話を見ている間、従おうとし続けたからです。

もちろん、映画はまさに小説に従うトライと#8212というのがそうするべきではありません。 それらは異なった芸術、非常に異なったフォームの物語です。 そこでは、大規模な変化でなければならないかもしれません。 しかし、フィルムのキャラクタと一般的な話への何らかの信義が印刷40年間ある本に基づくように命名されて、言ったと予想するのがそれは妥当です。

アメリカ人と邦画メーカーの両方が名前といくつかの概念のために単なる鉱山としてこれらの本を扱いました、状況を離れて断片を取って、話/iesを完全に異なった陰謀に取り替えて、一貫性と一貫性で欠けていて。 私は本だけではなく、彼らの読者に示された軽蔑に驚きます。

私は、フィルムの「メッセージ」が本で思えるように本からしばしば全く密接に引用されますが、生死、バランスに関する声明などがキャラクタと動作から続かないので少しheavyhandedされるように思えると思います。 よく意味されて、それらは話とキャラクタで暗に示されていません。 それらは「稼がれていません」。 したがって、彼らは説教じみるとして出て来ます。 最初の3冊のEarthseaの本にはお説教的な数ビットがありますが、私は、それらが全くこれにあからさまに際立っていると思いません。

本の道徳観念はフィルムで混乱するようになります。 例えば: フィルムにおける彼の父に関するArrenの殺人は、やる気がなくて、任意です: 濃い影か分身による遂行されるとしてのそれの説明は、遅く来て、説得力がありません。 少年はなぜ2で分けられますか? 私たちには、手がかりが全くありません。 その本では、Gedがどのように彼に続いて起こる影を持つようになったかを知っています、そして、理由を知っています、そして、EarthseaのA Wizardから考えを取りますが、結局、私たちはその影がだれであるかを知っています。 魔法の刀を振ることによって、私たちの中の暗黒を片づけることができません。

しかし、悪は悪人、単に殺すことができるウィザードKumo/トウモロコシの穂軸でフィルムでは、ゆったり外面化されました、その結果、すべての問題を解決します。

現代の幻想(文学の、または、政府の)では、人々を殺すのは、善悪の間のいわゆる戦争の普通の解決策です。 私の本は、そのような戦争で発想されないで、また安易な質問のどんな簡単な答えも提供しません。

私のEarthseaの竜が、より美しいと思いますが、私はGoroの竜が彼らの翼を折り重ねる高貴な方法を賞賛します。 彼の想像の動物は多くの柔らかさと#8212で見られます; 私は馬ラマの表現の耳が好きでした。 私は鋤の場面がとても好きでした、水、土的、そして、実用的な静けさと#8212というのをフィルムに与える動物であって、とてもオンな馬屋を描いて; 一定の闘争と「動作」からのペースの賢明な変化。 それらでは、少なくとも、私はEarthseaを認識しました。

色の問題:
マージンの、そして、かなり遅れている民族に着色されたEarthseaの人々、および白人の大部分を作ることにおける私の目的はもちろん若いアメリカの、そして、ヨーロッパ人の読者を対象にした道徳的なものでした。 ヨーロッパの伝統の幻想英雄が慣習上白人であった、#8212; ほとんど一般に、1968年のそうと#8212; そして、皮膚の暗黒はしばしば悪に関連していました。 単に期待を打倒することによって、小説家は偏見をひそかに害することができます。

それらが「色盲であった」と誇っている間、アメリカのテレビのバージョンのメーカーはEarthseaの有色の人口を1.5まで減少させました。 私は、きれい事Earthseaのためにそれらを爆破して、それらのそれを許しません。

問題は日本で異なっています。 私は、それに関して知らなさ過ぎているので、日本にレースの問題を記述することができません。 しかし、私は、アニメフィルムがジャンルのほとんど不変のコンベンションに味を出くわすのを知っています。 アニメにおける民族の大部分は外観と#8212というのを撮影します; アメリカ人/ヨーロッパ人目と#8212に; 白い。 私は日本人の聴衆がそれらを異なって知覚すると言われます。 私は彼らが、私の目より暗いとしてのこのGedがすると知覚するかもしれないと言われます。 私はそのように望んでいます。 キャラクタの大部分は私にとって白く見えますが、少なくとも日焼けとベージュの良い変化があります。 そして、Tenarの金髪と青い目は、彼女がKargish島からの少数派タイプであることで正しいです。

私たちはアメリカでいつ「ゼドSenki」か「Earthseaの物語」を見ることができますか?
彼らのフィルムと権利のためのテレビの人々との契約がなくなると: どんな2009年前にもそうしません。 ああ! 飼葉桶の中に犬がいます。
注意: 私たちに示されたバージョンは吹き替えされるのではなく、字幕をつけられました。 しかし、ギブリが素晴らしい当てレコをするスタジオ、私は、一度だけ日本の声を聞いて、うれしかったです。 Gedの暖かくて、暗い音は特にすばらしかったです。 そして、元の形のままフィルムが吹き替えされるとき、Therruが歌うすてきな歌が保管されることを願っています。
和訳は以上です。

機械翻訳だとアレですが...まぁ、深く言うとアレなので
まずは読んでみてください。
英語が読める方は上のリンクの方で是非。
あ、先生というのはル=グウィン先生のことです。
ありがとうございます、よみにくかったけど読めてよかったです
http://abnormal.sakura.ne.jp/index.php?itemid=952

綺麗な和訳(対訳)が掲載されているページがありました。
念のため貼っておきます。
おかげで、ル・グィンさんが、この駄作に対して、どのように思っているのかが、良く判りました。ありがとうございました。

やはりジブリが言っていることは「大本営発表」なんですね。「素直でよかった」という、駿さんの言葉も、たぶん意図的に曲解されたものなんでしょう。
しかも、その発言をゴロー監督がブログで公開しちゃった
もんだから怒っちゃったしね...
もう何もまともに話してくれないと思いますよ、先生は。

本人なんで怒られてるのかわかってるのかなぁ?
そこまでバカなのかよ...
次回作では「父の作品を越えます」なんていう、巨匠気取りの発言を連発しているところからみて、相当におめでたい人なんでしょうね。まあ、ゴミ映画についてはル・グィンさんが、誰よりも的確な批評をされているので、これ以上、語ることは何もないです。

それよりも一番心配なことは、宣伝攻勢と宮崎ブランドの威力でゴミ映画が大ヒットしてしまっていることです。もしかして、勘違い息子には2作目のチャンスが舞い込むことになるのかな?それが一番心配です。

ジブリが永久に存続しなければならない理由なんて、何もないですよ。ジブリは駿・一代限り!それが潔くてよいです。
駿さんの才能を受け継ぐような人材は、ジブリからは出てこなかったというのが、本当のところでしょう?細田もゴローに負けづ劣らず、才能ないし?駿さんの血を、一番強烈に受け継いだ男は庵野だというのが、私の見解です。(ゴローの嫉妬心が垣間見えるところだけは、ゴミ映画の唯一の見所ですね。)
>細田もゴローに負けづ劣らず、才能ないし?

ゴロー監督に対する的確な指摘はかまわないのですが
細田さん/庵野さんについての批評はここでは行わないようにして
下さいです。
話が拡散してしまいますので。
そうですね。少し喋りすぎました。申し訳ないです。
ひでりんさん、仕切っちゃってこちらこそすみませんです(汗汗
ワタシが気になるのは「そもそもゴロー君はどんな仕事をしたのか?」ですな。だって、ずっと建築会社のサラリーマンでここ2,3年はジブリ美術館の館長。つまりはズブの素人なワケで、
絵コンテなんか描ける訳ないし、原画マンができた原画を持ってきても指示なんて一言もだせないと思うんですよ。
たとえば「もののけ姫はこうしてつくられたをみると、宮崎駿は牛が谷底に落ちるシーンの原画をパラパラと見ながら
「違うんだよなあ、分かってないなあ」
とかぶつぶつ言いながら自分の手で修正を入れるわです。ワタシの眼からするとどこが変わったのかさっぱり分からないのですが、その修正ができるから宮崎駿は偉大で、作品はすばらしいのだと思います。しかし、宮崎駿も才能だけでこれができるようになったわけではなく、何十年も創り続けたからできるようになったのですよ。
にもかかわらず、素人を監督にしますか?宮崎駿監督?
これは代アニを20歳かそこらで卒業し、低賃金で原画を描きつつ「いつか監督になってすばらしい作品を創ってやる!」
とがんばっている何千人ものアニメーターへの冒涜ですよね。
ゴロー君はしかたないですよ。担がれてるだけですから、自分の無力さも分かってると思います。鈴木敏夫も「いかなる手段を用いてもジブリを存続させる」という使命感で行ったのだと思います。
ただ宮崎駿が、世界でただ一人宮崎駿だけがこの愚行を止めさせるコトができたのに・・・
「敏さん、もしかしたら俺たちのジブリは無くなってしまうかもしれない。それでも素人に監督をさせる。そんなことはやめよう」
この一言さえあれば・・・・
ワタシはただ絶望するのみです。
長くなってすみません。
絵を描く能力の有り無しについては、私の意見はボンクラ永世名人さんとは、少し違います。もちろん、駿さんみたいに、自分で絵を描けたほうがアニメの演出家として、有利だろうとは思います。けど、高畑さんは、自分では絵を描けないけれど「火垂るの墓」を作っていますからねえ。要するに表現者として表現したいものが有るか無いかが問題だと思うんです。

「もののけ姫は、こうして・・・・」の中で、私が注目した部分は、タタラ場で労働している女達の顔について、駿さんが若いアニメーターに語っているところでした。
「つらい労働をしているからといって、つらそうな顔を描くな。人間には耐性がある。疲労が限界に達すると、最後には人間は無表情になる」という駿さんの、人間観察能力は凄いと感心したのを覚えています。

で、それに比べて、ゴローの表現者としての稚拙さはどうでしょう?中盤でゲドとアレンが、畑仕事を手伝う場面がありますよね。牛を引いて畑を耕している様子が2、3カット続き、その後に、アレンの手にマメができているクローズアップが続く。
で、台詞で「手にマメができて痛いよ」みたいなことを言うんです。ボンクラ監督のゴローちゃんは、これで畑仕事の大変さを表現したつもりらしいんですね。(最終的には、ここで肉体労働の大変さを経験したことが、最後の屈折した精神の解放につながる布石だと思っているらしい?ゴローちゃんは)私は、あまりにも浅はかな演出にひっくり返りました。で、間違いなく、ゴローちゃんは畑仕事も、肉体労働も自分では経験したことがない人間だと直感した訳です。
演出家の素養というのは、実はそのあたりが重要なのではないか?と私は思っています。
監督は農学部では?そこで、また生きてきたなかでどんなことを経験し学んだかは私にはわかりません。
ただあのシーンで肉体労働の大変さというよりは生きていくにはこういうこと(体をつかえばまめだってできるし、いたいこともある)(ここでは農作業ですが単純に農作業だけでなく)がどこかで必要である(必要というのは耐えるということにもつながってるとおもいます)ということなのかなと私はおもいました。
「いたいよ」でおわってましたか?あってるかわかりませんが「だいじょうぶか?」ときかれて「大丈夫です。」みたいな感じだった気がします。
演出家の素養の話、とても重要ですね、なんでも体験してそしてよくかんがえなければいけないということですね。勉強になります
>演出家の素養の話、とても重要ですね、なんでも体験してそしてよくかんがえなければいけないということですね。勉強になります

自分が体験していなかったとしても、体験した人の話を聞き、
当時の資料(機具や、あれば写真)を見て、あたかも自分が
体験したように演出(?)できる人もいるようです。

リアルリアルに行かなくても、「ウソのホント」「ホントのウソ」
で観客を納得させたり騙したりするのもテクニックかもしれませんね。
体験した人の話を主観だけでみないで誤解をすくなくきければそういうこともできますね(それが想像力というものの強さでもあると思います)。また体験しなくてはという考えで体験してそれが本当の体験か?一日したからそれが長年してる人のことを考えれる体験をしたことになるのか?という問題もありますね。うまく想像できるかにかかってるのかな?とても難しいですね。
あるものを誤解なく理解することがニュータイプみたいなことと富野さんがいってました。これは口でいうほど簡単ではなく、そこにはいけなくてもそこを常に意識しそこに近づく必要があると。演出に関わらずわれわれに必要なことだと思います
>また体験しなくてはという考えで体験してそれが本当の体験か?

これを突き詰めて行っちゃうと、私小説の映像化しか出来なく
なっちゃいますよね(笑

やっぱり「想像する」という部分で、大切なことが沢山ありそ
うです。
石原べこ哲さんの言われていること、判ります。
やっぱり、作家にとって大事なことは、物事の本質についての洞察力だと思うのです。

労働の大変さ=手のマメの痛さしか、想像力の働かないところが、ゴローの限界です。(この人、本当に農学部でなら、大学で一体何を学んできたんだろう?)
ひでりん さん

わたしが下のようにかいたのよんでもらえましたでしょうか?
ただあのシーンで肉体労働の大変さというよりは生きていくにはこういうこと(体をつかえばまめだってできるし、いたいこともある)(ここでは農作業ですが単純に農作業だけでなく)がどこかで必要である(必要というのは耐えるということにもつながってるとおもいます)ということなのかなと私はおもいました。
「いたいよ」でおわってましたか?あってるかわかりませんが「だいじょうぶか?」ときかれて「大丈夫です。」みたいな感じだった気がします。

あのシーンで本当にあなたが、労働の大変さ=手のマメの痛さしか表現してないとおもうなら、監督がわるいようです 。つたえれてないですから
あと私は拡大解釈しすぎかもしれません。ですがそれが私の私見ですからちょっときいてもらえればありがたいです。こうだとかうけいれてくれというものではないです(もしそう感じたなら本当にすみません)。私は人を自分みたいにしようなんてできません。それでも私が?とおもえば自分の意見はいわさせてもらいます。
北田さんは人がいいんですね。
私は、意地悪な人間ですから、あの会話のやり取りを
そういうふうに好意的に拡大解釈したりはしません。というか、台詞のやりとり自体も、恐ろしく凡慮な作品だなあと思っています。
ひでりんさん
私の意見をきいていただき、しかも答えていただいてありがとうございます。

その人その人の主観ですものね。私は人の意見と自分の意見をどうもっていくべきか(うまくいえません)自分の中でわかってないみたいです。
わかりあえたらそれはそれでいい事だけど、おしつけるだけのものでもないし、考えを無視しあわなければいいのかな?AとはおもわないがAと思う人がいることは認めることでいいのかな。よくかんがえてみます

この言葉おもいだしました。
「私は貴方の意見には反対だ。しかし、貴方がそれを言う権利を、私は命にかけて守る」
ものすごく大事ですごい難しいってやっと経験としてわかりました。

人がいいっていうよりはあーとった方が自分にもプラスになるかなーってことだったのだろうと思います。

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