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ギリシア哲学コミュのパルメニデス

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パルメニデス

紀元前515年ごろに生まれたパルメニデス。 ソクラテス以前の古代ギリシャ哲学者の中でも最も重要な哲学者がパルメニデスと彼を支持したのがゼノンです。 現在でいうイタリアのナポリを当時はエレアと呼ばれていたため、そこにいた哲学者の事をエレア学派と呼んでいます。 ネット上や哲学専門書などではかなり難しい解説が多いのですが、簡単に説明してみようと思います。

パルメニデスの考えは彼が書いた「自然について」に残っています。 この「自然について」ですが、2部構成で「真理の道」がほぼ完全に残っている一方で、「意見の道」については断片しか残っておりません。 ちなみに月の明かりは太陽の光が反射した物である事を説いた最初の人物と言われているのがパルメニデスです。 

後で記述しますが、パルメニデス(そしてゼノンも)は神秘体験(Mystical Experience)を経た後に
彼の哲学を編残したと覚えておいてください。 

古代ギリシャでまず生まれた一元論(Monism)の考え、そして理性論(Rationalism)の系統を受け継いだパルメニデス。 目で見た世界と、実際の世界は違うという考えを極限まで持っていった極端な理性論を持った哲学者です。

パート1 : 考える事とは?

パルメニデスはまず、考える事というのは理論的(logos)に意味内容(Semantic Content)を処理することを考えました。 これを文で書くと、

「私は考える」

となりますが、考えているものがなければ、考えている事にはならないと説いています。 例えを使って言いかえると、

「私はお金について考える」 「私は明日の天気について考える」 などなど

上の例のように「〜について」という具合に考えている内容が無ければ、考えている事にはなりません。 

ここで具体的な内容なくただ考えている場合もありえるのではという意見が出てきます。 良い例が「私はただ考える」といった表現です。 漠然としていても何かを考えている際には、理論的に情報を処理していなければ考えているとはならず、考える事というのは意識の中に何かが無ければならない事になります。 

考えるという事は意味内容を持つ物を理論的に処理する、または意味内容を持つものを意識するという具合に覚えておいてください。 

パート2: 考えられる物と考えられない物

私たちは肯定分で言える物は考えられるけど、否定文いえる事は考えられないとまず覚えてください。 例を挙げます。

「私が考えているものを当ててみてください。 まず椅子ではありません。」

否定ぶんですね。 さて私は何を考えているんでしょう。 読者のみなさんがまず思いついたのは椅子です。 でも椅子ではないので、次々といろんな物を連想しているのではないでしょうか。 次々とヒントを否定文で出して見ます。

「チョコレートではありません。」 「食べられません。」 「恐竜ではありません。」 などなど

否定文をいくらだしても答えはでてきません。 (ちなみに私が考えていたのは携帯電話の使い方でした。) 考えられるものは肯定分で表せるものですと覚えておいてください。

パート3: 考えられる物と、考えられない物

パルメニデスも含めて、古代ギリシャ人が求めていたのは万物の起源(アルケ)とは何かで、ターレスは水、アナクシマンドロスはアペイロンのように、彼らはアルケ1つであるという一元論を説いていたのですが、パルメニデスもアルケは一元論を支持したので、アルケは1つであって、それは理論・理性(Logos)をもって考えられる物と考えました。 そこから考えられない物はアルケではない、そしてもう一歩踏み込んで考えられないものは存在しないと断言しました。

ちょっとここで考えられない物についてお話します。 たとえば明日、みなさんの預金口座の残高が突然500億円になりますと言ったら、考えられますか? または私が明日ベルサイユ宮殿を買いますと言ったら、考えられないといいますか? 可能性的にはゼロではないので、哲学的にはあり得る、つまり考えられるんです。 哲学的に考えられないという物の定義は、絶対に不可能な事や物、または「円は三角である」のように自己矛盾を含む事や物を考えられない、存在できないとしています。

パート4: 「ある物のみあり、有らぬものはあらぬ。」

パルメニデスの真理の道に出てくる有名な一文ですが、初めて読んだ人には何の事を言っているのかさっぱり分からないとおもいます。 英語では ‘What is’ is; and ‘what is not’ is notと表現するのですが、すぐにわかる人はなかなかいません。 パルメニデスが言いたかった事を簡単に言い換えます。

「考える事ができるものは考えられる、そして考えられない事は考えられない。」
「存在する物は存在する、そして存在しない物は存在しない。」

この二つを組み合わせると、「存在する物は考えられる、考えられる物は存在する、そして存在しない物は考えられない、考えられない物は存在しない。」という具合に覚えておくと楽です。 ちょっと難しく専門用語を使うと、同一律(The Principle of Identity)と矛盾律(The Principle of Contradiction)です。

パート5: 無の不可能性と宇宙物理

パルメニデスの大きな功績の一つと言えるのは紀元前5世紀ごろに無は不可能であると証明した事にあります。 おおまかに以下のような証明になります。

もし無が存在するならば、それは物であるか、または概念である。 
もし無が物であれば、物は考えられる、つまり存在することができるので、無ではない。
もし無が概念であれば、これも考えることができるので、無ではない。
つまり無が存在するならば、物ではなく、そして概念でもない。
無というのは物でもなければ、概念でもないため、無は存在しない。

If ‘nothing’ exists, it is either a thing or a concept.
If it is a thing, as it can be an object of a thought and it exists, it is not ‘nothing.’
If it is a concept, as it can be an object of a thought, it still is not ‘nothing.’
Since both a thing and a concept are something rather than nothing;
‘Nothing’ does not exist. NOTHINGNESS IS IMPOSSIBLE.

パルメニデスの考えを使えば、無というのは物理上不可能というだけにとどまらず、概念上も不可能という事になります。 なぜ不可能かというと無という概念を考えると、必ず自己矛盾が発生するため、理論上不可能になってしまうからです。 パルメニデスからすれば、私たちが使う言葉には「無」という表現がありますが、あくまでもそれは比喩的に使われているにすぎないという事です。 

たとえば「冷蔵庫の中には何もない」って言ったとしますが、本当に何もないわけはないんです。 たとえば冷蔵庫内の仕切りはある、空間もある、冷蔵庫内の壁もある。 言いたいことは食べたい物や飲みたい物が無いだけで、本当に冷蔵庫の中が無の世界になっている事はありえません。 

ちょっとここから飛躍して宇宙物理について考えてみたいんですが、科学者の中には宇宙は無から生まれたという説があります。 この説の最大の問題は、無という概念が既に自己矛盾になってしまうためです。

話をパルメニデスに戻しますが、彼がまず無に関連して言いたかった事は、「アルケは無から誕生した」のような事は絶対に不可能である。 

パート6: アルケにせまる

ここから少し論理(Logic)を使わなければならなくなるので、難しいと想った方はごめんなさい。
作文上の理由からここまで黙ってきましたが、パルメニデスが言う「有るものはある」の「有る」が指すものはアルケそのものなんです。 そこで本当にアルケなど存在するのかという反論も聞こえてきそうですが、まず無が不可能という証明がされた事で無以外のもの「有るもの」しかないということが理論上すぐに言えます。 そこでパルメニデスはこれまでの理論を駆使して、アルケの性質について述べ始めます。 

前提: 一元論は正しい。
前提: 有るものはある、無いものはない
前提: 無は存在しない。
*前提は原理(Axiom)と同じように用いられているため、それ自体を証明する事はできないが、正しいと定義されている。 つまり前提は証明できない。 (Axiom is defined as self-evidently true, and it cannot be proven, and demanding a proof for an axiom is impossible.)

1. もしアルケに起源があるならば、それは無から誕生したか、すでにあったものから誕生した。 
しかし無は存在しない。 またすでにあったものが存在したとすれば二元論、または多元論となり、それは一元論の前提上ありえない。 つまりアルケには起源がない。

2. もしアルケが消滅しるとすれば、それは無となるか、また別の何かになる。 無は存在しない。 また別の何かも一元論の前提上ありえない。 つまりアルケは消滅しない。

3. もしアルケがいくつかに区分できるのであれば、一元論と食い違う。 アルケは区分できない。 

4. もしアルケが動く事ができるのであれば、(動きというのは相対するものが必要なため)、相対できるアルケ意外のものが必要である。 しかしそれは一元論と食い違う。 アルケは動くことはない。 

上のようにやっていくと、アルケには以下の特徴があります。 

起源がない、消滅することはない、破壊できない、区分けができな、動きがない、変化することはない

つまりアルケは永遠である。 

パート6: アルケの特徴と神秘体験について

アルケの特徴は先に挙げたように、「起源がない、消滅しない、破壊できない、区分けできない、動きが無い、変化はない」のように否定文で説明されている事にまず注目してください。 前に考えられるものは肯定分で表せるといいました。 つまり否定文は考えられないともいいました。 そのためアルケは否定文で表現されているので、存在できないのではという質問が上がっても当然です。 ただそうはならないんです。 まず1つ目の理由は無の存在が不可能と証明されたので、無以外の物、つまりアルケは理論上絶対に存在しなければならないという証明にもなります。 ここまでは難しくありません。 さてなぜこれが否定文で表現されるのかというのが一番難しい部分です。

起源がないというのは別にアルケが存在しないという事にはつながりません。 同じような事がほぼ全てのアルケの特徴として言えます。 つまり否定文で特徴をあげていても、アルケは存在するという事を言い方を変えて表現しているだけと覚えておくと楽かもしれません。 またアルケ意外の物の存在を否定してアルケがあると言っているので、否定文でアルケを表現しているといっても構わないですが、本当の理由は別にあります。

本当の理由はパルメニデスの神秘体験(Mystical Experience)にあります。 これは古代ギリシャ哲学を超えて先験的哲学Transcendental Philosophyの世界に入ってしまい、宗教的な部分と重複するので短く説明する事は非常に難しいところです。 敢えて簡単に言うと、神秘体験をした人たち(Mystics)に共通するのは多くが一元論に似た理論を持つのですが、その一元論を説明しようとすると、常に比ゆ的に否定文を使って説明している点にあります。 これはパルメニデス、ゼノンだけでなく、古代から現代までの宗教を超えて、皆ほとんど同じ事を言っています。 一番わかりやすい例がヒンズー教のブラマンや道教に出てくるタオ(ダオ)です。 詳しくはやりませんが、この神秘体験にパルメニデスの哲学の元があるといって過言ではありません。 

コメント(17)

パート1は、「意識とは何かについての意識である」という今日、とても深くうなずかされる命題とまったく同じことですね。
しかし、考えてる、何かについて考えてるという気づきは、ただ考えに浸っている状態と明らかに違い、その浸りきった状態を客観視するものですね。
さらにこの何かについて考えてる、考えていたという客観視・気づきから、「では何者が考えていたのか」という推論はしばしば推論せずとも当たり前のことのように言われますが、実はやはり推論と考える主体の確定がなされているのではないでしょうか。
プラトンの著作『パルメニデス』は、かつてソクラテスとゼノンとパルメニデスが問答を交わしたという設定になっていて、とても考えさせる内容ですね。
『パルメニデス』においてパンアテナイア大祭のためにゼノンとパルメニデスがアテナイを訪れる。ソクラテスとその友人たちはゼノンにゼノンが書いた論文をぜひ朗読してくれませんかとお願いする(当時、ゼノンは40歳近く、ソクラテスはごく若かったという)。
朗読が終わるとソクラテスは、第1論説の第1仮定の所をもう一度読んでくれませんかとゼノンにお願いした。

朗読が終わるとソクラテスは言う。
「ゼノンさん、あなたの主張はこういうことですか。もし存在というものが多ならば、それぞれは似ていて似ていないということになる。しかし、似ていないものが似ていることも、似ているものが似ていないこともありえないのだから、存在は多ではありえないーーということですか」
「ソクラテスよ、その通りだ」
プラトン、アリストテレス以前の知者たちが論理的思考というものに気がついており思考過程において憶測や想像に頼らずに思考できた者がいたとは私には考えられません。

とすると、パルメニデスはどのようにして、そのように論理的に慎重に思考を行うことができたのでしょうか?

タレスもアナクシマンドロスも、アナクサゴラスさえもアルケーの理由を論理的に述べていません。ともすれば直感で唱えているように見えます。
一体、エレア学派に何が起きたというのでしょうか。
私も最初はそう考えていました。
人類が少しずつ賢くなっているのだろうな、と。
しかし、一つ一つの概念の成り立ちを考えてみると、事はそれほど簡単ではない。

我々も、日常で使っている概念について、例えば「人権」というものについては正しく理解しているつもりでも説明しろといわれると案外難しいです。まして我々にとって人権という概念は近代以後に西洋からもたらされ、現代では憲法にかかれており、小学校からの教育で「なんとなく」理解し日本社会における共通の理解が得られています。もちろんその裏では法学者や国語学者、政治家、審議会などがきっちり概念定義をしていることが土台になっていると思うのですが、庶民の日常ではそこまで意識されてはいない。

古代ギリシアにおいてさえ、例えば数学においてはアラビア数字のような我々にとってごく簡単で児戯にも等しいとさえ思える算術概念さえなく、複雑なギリシア数字で計算をしていましたし、パルメニデスの頃には「証明」というものもまだありません(一説ではゼノン以後)。もしも我々の誰かが古代ギリシア人として生まれ、誰かからより良い数字を発明してくれ、といわれてもアラビア数字を発想できないでしょうし10進法にも気づかないでしょう。
また、パルメニデスの頃にはそもそも定義という概念もまだ無い。定義とは、論理学的に言えば種差になりますが、それが無い。したがって議論をしようにもプラトン(あるいはソフィステスのプロディコス)以前には議論の前提となる「定義」自体が不明確だったのです。
ゆえにパルメニデスの断片は「ある」、「ない」の定義が不明確であってそれが様々な議論を呼び後の哲学につながった。

ミレトス学派でアナクシマンドロスがアルケーを「無限」と提唱しました。それにはタレスやアナクシメネスのアルケーでは説明しきれない課題があったので、それを克服しようとしたのでしょう。アルケーが生成不滅するのなら、一番最初のアルケーは何から生じたのか、という話になってしまういわゆるアポリアを克服する為でしょう。そしてパルメニデスは、これを言い換えた「無から有は生じない」「有からのみ有は生じる」をさらに説明する為に、「あるものはあり、あらぬものはあらぬ」としたのだと思います。

たしかにパルメニデスへの流れは自然であるかに見えます。だが、それまでのギリシア人、いや人類の全てがたとえ無から有が生じようとも神々の仕業ならありえるだろう、と考えたり、そもそも「無」という概念さえ発見できていなかった。それがなぜパルメニデスには無から有は生じないと冷静に考えることができたり、無を発見できたのか。あるいは他の誰かが発見していたとしても関連付けて考えることができたのか。実に不思議でなりません。
といっても資料もほとんど無いのでいくら不思議がっても答えは出ないのかもしれませんが、哲学とはここを問い直して自分で考えることに意味があると思うのです。

引用の文章には「存在論」の単語が見えますが、こういうのは近代以後の道具を使って説明したに過ぎず、やはりパルメニデス自体を理解したことにはなっていないと思います。例えば古代ギリシアの幾何学に関して数学者が書いた書籍はほとんどすべて、代数学を用いて古代ギリシア人の幾何学の発見の正しさを証明しただけのものですが、そもそも古代ギリシアには代数学は無かったのだから、後代の道具である代数学で古代幾何学を説明をしたところで、なぜ、どのようにしてそのように正確な発見を代数学無しで発見できたのかについて、まったく説明できていない。

例えて言うなら、「納豆」という食べ物について、その製造過程を近代科学により温度や湿度といった菌の最適な栽培方法や大豆の最適な発酵方法などを調べつくして説明することはじゅうぶんに為されていても、そもそもなぜ、どうして、あんなに臭くて見た目もよいとはいえず、我々は文化習慣の中で親しむ事でやっと美味しいと感じるような食品、つまり生物の好みの自然な感覚で言えば敬遠されるべき食品を、なぜ、どうして、我々の祖先は製造してまで食べ続けるようになったのか、その理由を知ることにはなっていません(納豆批判のつもりではなく議論上の道具として納豆を使いました)。

この、なぜ、どうしてを無視したら哲学ではないし学問でもありません。
なぜ、どうしてすなわち原因を無視するのであればそれは宗教でしょう。全知全能の神々がすべてご随意になしたもうた、で済むのですから。
>>[9]


懐疑論ですね。

お書きのように捉えることもできましょう。
たしかに、ただでさえ断片しか伝わらずその他何の資料も残っていないソクラテス以前の知者たちについて、我々は臆見(ドクサ)・想像することしかできないでしょう。風が吹いたから桶屋が儲かっている、と勝手に思っているに過ぎないかもしれません。

でも、それを言っちゃうとおしまい、なんです。
パルメニデスの議論もゴルギアスの「非存在について」によって足蹴にされました。ヘラクレイトス、クラテュロス、ちょっと後のストア学派による懐疑論もそうです。
>>[9]

ひとつお聞きしたいことがあります。
アリストテレスは論理学によって人間の思考も真実を捉えられるということを担保しようとしました。

この試みさえも、ヒュームの言葉の前には徒労であったとお考えでしょうか。
>>[12]

ご回答ありがとうございます。
もう少し話を続けさせてください。

無誤謬でも、真実ではない(かもしれない)場合とは、どのような場合なのでしょうか。

形而上の神々の世界ならいざ知らず、我々のこの世界においては、無誤謬すなわち真、誤謬すなわち偽であるからこそ、世界は秩序立てられて動いています。ある日突然、林檎が地面から空へ飛び上がったり、死んだ生物が蘇ったり、あるいは時間が遡行したりしませんね。

>>[14]

何度か、書いては考え直して消した為に、コメント数が増えてしまいました。

おっしゃるとことはわかりました。
とくに具体例としては過去のできごとと、人間の意思決定が挙げられますね。前者は私がパルメニデスに関してこのトピックでコメントしたようなことについて、後者は人間の行動のなににでも該当します。ただ、生物学的に脳の仕組みが隅々まで解明されその働きをもらさず測定できるようになったら、可能かもしれませんが。

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