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ギリシア哲学コミュの現代人に問われている「汝自身を知れ

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ギリシャ哲学が提起した「汝自身を知れ」「無知の智」

皆さんに下の問題について検討いただきたく提起するものです。
ここのギリシャ哲学を話題とするコミュニティーで取り上げられる諸問題や、ギリシャ哲学が提起した「汝自身を知れ」「無知の智」という問題が現代に問いかけている諸問題を煎じ詰めると、下に示す「人類危機問題と課題」とその「知の合一」の問題に収斂するだろうと考えられますので、提起させていたくものです。

さて、多くの識者が指摘しているように、人類は自然破壊・地球破壊と人間自身の崩壊と文明の崩壊に直面しています。
(これについて理解いただくため話すと、いま以上に長くなってしまうので、必要なだけ下に示すことにして、詳しくは私どもの日記「現代人の誰にでも問われている責任」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=718946881&owner_id=7769186   を参照ください。

人類が自然破壊・地球破壊と人間自身の崩壊と文明の崩壊に直面して、私たち現代人の一人一人に問われている「現代の人類史的課題と問題」は、

1、人類理性の危機(知の合一と三者の合一の問題)、学問と科学認識の危機、さらに国際的共通公理・公則を確立する問題と課題、その危機。
2、平和と大量核兵器・核利用の危機の問題(無秩序な核開発・核利用・廃棄物の投棄など) 
3、無秩序な自然開発による自然と地球破壊の危機の問題 
4、命と人権・民主主義の危機の問題(未知のウイルスによる世界同時蔓延と大量死の危機なども) 
5、技術開発の危機(ユビキタス時代の情報機器開発・情報操作・インターネット・遺伝子組み換え・臓器移植問題・バイオテクノロジー・戦争ロボット機械開発・独占的宇宙開発と利用などの問題)
6、世界的経済崩壊の危機(世界同時恐慌《金融暴走》問題・南北格差問題など)。

このような問題によって人類史的崩壊の危機に直面することになり、何とかそれらを解決しなければならない課題だということになっているのでしょう。

このような人の誰にでも問われている危機問題と課題があるため、それを知る者たちのうちでも僅かだが、その問題が抜き差しならない段階に達していることを自覚せざるを得ない者たちを生み出すことになっています。

しかしそのような僅かな者たちも、地球・自然破壊と人間と、その文明破壊をもたらした全体問題の真の原因を突き詰め、着き止める者はさらに僅かしかいないのでしょう。
さらにその真の解決方策を導き出せるものは、一段と僅かな者に限られることになるはずでしょう。

そこで、そのような自然・地球破壊と文明崩壊の問題を人間自身が言いながらも、その問題を着き止めず解決させないという中途半端な事実があることが、次のことを証明してもいるでしょう。

つまり、もしある者がその自然・地球破壊と文明崩壊の問題を解明し解説したとしても、その正誤正否を理解し判別できる者が皆無に等しい、ということを証明しているでしょう。

このような問題と密接な関係にある、また人類史的課題の第一番目の「知の合一」「三者の合一」などの課題について、ここでお話して整理したいと思うのです。

といってもこの「知の合一」「三者の合一」などの問題さえ、残念ながらその当事者責任をもつべき学者でさえ知らず自覚ない者が多くいるのが現状です。
従ってこの問題を理解している者は、特に学者のなかの真の学者のうち僅かな者たちに限られ、さらにそのうち30年近く研鑽を積んで自らの専門の学問に対し真剣に、責任を持って探求して、自身の死期を推測し始めた老齢な者で、

自分の学問人生を振り返り当事者責任について今現に苦しんでいる者だけが、つまり真面目でかつ理解力ある者が、それらを理解することができることになるのでしょう。

よって、自然・地球破壊の人類存亡の危機の問題と「知の合一」「三者の合一」などの問題を理解できる者はいない、と言うほうが正しいことが自明のこととなるのです。


しかし、そうとは言ってもいつかこれら人類存亡の危機問題で苦悩し命にかけて解答を探す方たちが、必ずここに提起する問題に到達せざるを得ないだろうから、そのときにご一考いただくためにここに記しておくことにするのです。


人類存亡の問題と「知の合一」「三者の合一」などの問題とその関係を、ある程度理解できている方は、我々のここまでの話しで、我々が当該問題の根源的な命題を指摘していること自体で、真に問題を理解しその解を得ているだろうことも推察いただけるでしょう。

さて「知の合一」「三者の合一」の問題のうち、まず「知の合一」とは何か、またその意味とはどのような問題や課題なのか、これらについて明らかにし、その関係として「三者の合一」などの問題へと話をすすめていくことにしましょう。


まずは「知の合一」とは何か、またその個別の知としての各個別学問との関係を整理すると、「知の合一」や「知の統合」がいわれる訳は次のような理由と原因によっています。

人類は、自身が生きるために自分の眼の前に広がる「世界」(宇宙と地球・自然と人間およびその社会と、それらの歴史のこと)について知る必要があって、これまでそれら「世界」の観察を始め、考察を進めてきました。
それら「世界」に対する知識は、人類史が始まった当初から今ほどの知識量を得ていたのではなく、徐々に知識を蓄えてきて現代の水準に達したものです。

その人類の知の旅は、つまり人類の理性や学問の歴史は、おおよそギリシャの哲学(愛知)から始まり、徐々に知の旅を進め、現代でも進めて現代あるような知識を獲得してきた歴史だといえます。

「知の合一」というテーマを知る上で、この人類が知を蓄えてきた歴史経過の事実から、はっきり自覚しておかなければならないことがあります。つまり知っておかなければならないこと、さらに知(ち)というものの内容を自覚しておかなければならないことがあるのです。

一つに、人類の知識は今でも探求しているように未完で、それらの世界という知識対象を人類は知っているとか認識しているとは言えないのだということです。

さらに二つは、だが同時に人類は世界について探求を進め、知識を積み上げてきた現段階の分だけ、世界の諸々を知っているし認識していると言えるということです。

すなわち人類は世界という知識対象について知っているし、知らないのだということが、正解等であるということなのです。ましてや個人は、ある程度のことを知ることはできるのですが、全知全能の神のようにはなれないし、死ぬまで勉強するように(勉強するのは知らないからですから)、世界の多くを知ることは不可能であり、知っているようで知らないものなのです。
「知の合一」というテーマを知る上で、この事実をまずは押さえておき、次の話に進めます。


人類の知と学問の旅(歴史)は、それら人間の眼の前に広がる世界を細分化すること(つまり分析すること)で観察を進められることだから、宇宙と太陽と月と地球を分けて観察し、自然を大地と水に分け、

また命ないもの(地学的・無機的対象)と命あるもの(動植物学的・有機的対象)に分けて、人と社会の現象を医学や生活学・社会科学に分け、それらそれぞれの学問に分けて、世界全体のうちのそれぞれの各学問対象を分担して、観察して、理解を進められるようにしてきたのです。

人類は一つの世界を正しく見たり考えるために、哲学と数学と医学と家政学などを分け、さらに世界を宇宙と地球・自然と、人間およびその社会と歴史に分け、それぞれの対象に対応する学問を分け、そのそれぞれの学問別に分業化し分担化させ組織化することで観察と理解を進め、それぞれの知を発展させてきたし、またそうすることで発展できたのです。

つまり一つの世界の諸属性(多様な側面)について、それぞれを分担して探求し、それぞれが分析・分化することで、またそれに対応する言葉と意味概念を分化し細分化することで、学問と知を効率的に進め発展させることができた、そういった歴史としてあるわけです。

しかし21世紀の現代では、今あるとおり人類が学問と知の細分化を極限まで進ませてきた結果、それらの個別化した学問、つまり専門化し特殊化し細分化してしまった学問と知は、

そもそも一つの姿とあるはずの宇宙と地球自然と、人間およびその社会についての、その世界の姿を見失い、つまりあるがままの、全体と総和としてある、また全体関係としてある、しかもどこにも切れ目がない、現実の宇宙と地球自然と、人間およびその社会の姿を、それらの「世界」の真実の姿を見失うことになってしまったのです。

専門化と個別化を限りなく進め極限まで達したため、一つの世界としてある、ありのままの全体の姿を見られる者が誰一人いないという、そのような知の関係と学術関係や社会関係が出来上がってしまったのです。

(ここの文章で専門の言葉を使うと難しく分かり図らいのでなるべく避けたいが、多元化と一元化・多元論と一元論などのことでもある)

そこにある知の問題として、分かりやすく説明すると。またそのありのままの世界全体の姿というものと、その真理の構造と錯誤の構造を、分かりやすく説明すると。

例えば人間の足の爪を見て、また爪を指差してこれが人間の爪だというのは真実であり真理でしょう。

それは真実なのだが、だがそれは爪であり人間そのモノではないのだから、人間そのものを観察し説明し理解し知ったことではなく、爪というもの一般(他の動物にも爪はあり、そのような一般的な爪を)を説明しただけの真実であり、それを知った認識したというだけのことなのです。

これと同じように、人間の爪だけでなく、髪の毛や顔や鼻、耳目や足やヘソだとかDNAだとかの人の一部分を解明し説明しても、あるいは心や精神や脳(特に強調しますが精神科医・心理学者・臨床心理士、脳学者などがいう、その心や精神や脳のことである)といった人の部分を説明しても、

さらに男や女だとか子供・老人・性や愛や理性や誠意、職業や民族の別などなどの、人の一側面や部分(細部)や一瞬を説明しても、

しかも全体から切り離した瞬間と部分を(写真のように)説明しても、人間を説明し理解し知ったことではなく、それらの部分と硬直したそれぞれの「一般」を説明しただけの真実と真理なのです。

さらにこれと同じように、人間社会も、例えば経済だけ説明して、それが卓越した真実の説明であっても、それが客観的科学的な真理であっても、ノーベル賞を貰っても、それは社会そのモノではなく様々な細部・側面・属性をもった社会の一つの、経済というものの細部であり、経済的な真実だから、そのことで人間社会を説明したり理解して知ったことではないし、その記述は真実を述べたことではないのです。

それも社会の一部には政治というモノもあります。

少し脇道にはいるようですが、世間の誤解として「すべての問題が起こる原因は、物質的な姿としてある経済と政治のあり方に起因するのだ」というような考えがあるのですが、

また「政治の優位性」などという命題もあるのだが、このような意見が大きな間違いであることを上の説明が証明しているのです(ただし各学問の主要末節関係や主従関係や階梯的関係はあり、それを否定しているのではありません)。

社会の属性には法律というモノもあります。教育もあります。企業経営・会社・家庭・宗教・男社会、女社会、子供社会、芸術・文化・芸能・スポ−ツなどなどというモノもあります。

社会を取り巻いて切れ目や接続口もないほど世界とも自然とも宇宙とも歴史とも繋がってもいます。

そのように社会と人があり全体としてあり、しかも写真のように止まり硬直したものではなく有機的に常に動いているものなのです。 さらにそのようにして、人類は人や社会や世界の真理を理解できないでいるのです。

ところで、真理判断の一つに「二律背反」という原理がありますが、上の学問の全体的関係の説明で明らかとなるのは、一つの専門学科(学問)の真理は、他の諸学の真理に背反関係となることによって、「他律総背反」となるのだということです。

いかなる個別専門学科が示す真理は、本当の真理でないことを、他の全部の学科(学問)のそれぞれの個別真理が証明する関係にあるということなのです。各個別専門学科が示す真理が真理であればあるほど、他の多くの学問の真理は太刀打ちできず、反対に他の多くの学問が示す真理が真理であればあるほど、一つの学科が示す真理は嘘でしかないのです。

法学関係者や裁判官や弁護士などは、法的知識や法的価値観で人と社会を知り真実を知り裁決できるのだとして、賠償責任があるだとか有罪だとか死刑だとか断定しているのですが、法学と法曹の真理基準や真理判断の手法で、社会そのものも説明や諸問題の解答を出せないし、人間の生理も精神も真理も、それら一切を説明することはできないのです。

その法学の理論で、物理も化学も経済も政治の問題も解明もできないし、芸術の新しい価値を創造することもできないし、それら一切の学問的対象を解明し、説明し、判断を下しそれらの個別真理を法学や法活動が明らかにすることはできないのです。

そのことは政治学も同じことで、政治学で社会と世界を説明し理解して、そのつもりになっていても、政治学ではない他の一切の学問と学問対象は政治学では(例えば法学と法現象)説明できず、解明できず、使い物にならないのです。政治学で社会と人を知ったつもりになっていても、その知が「偽」であることを他の一切の学問が証明しているのです。

つまりある特定の、個別の、専門の、特殊の、特別な学科・学問は、他の一切の学問(全体)を代理したり代替することはできないのだということなのです。

これが世界と人と社会の、真理中の真理のない、細部(専門)と動きのない(死んだ)真実を導き出し、その微細な真理が、しかも様々な個別学問が一緒になって大嘘となっている学問の全体構造なのです。

つまり話を換言すれば、その全部と全体から見ないと、真理中の真理はつかむことは出来ず、更に個々細部の真実を全部見て理解しないと、その全体と全部を見たことにはならないのです。

だから、真理中の真理はつかむことは出来ないのです。また各学問を各研究者が真剣に探求すればするほど、真剣になればなるほど、嘘の付き合い、騙し合いとなっているのです。

すなわち、それら諸学の知を合一しなければ、あるいは統合しえる知を持たなければ、現実の一つの世界・人を理解し認識できず、人の知に対応せず、真理中の真理を掴むことができず、学問は発展できず、知は知にならないのです。これが、知の合一というテーマの意味内容なのです。

ここで脇道に入り補足しますが、上まで学問について説明してきたのですが、世界を観察して知ろうとするうち、その世界には学問や言葉や記述では言い表すいことが不可能なモノがあるため、文芸や音楽や美術・演劇・舞踊・映画・写真など、芸術的に言い表そうとしている活動があるのでしょう。

科学哲学を言う学者や人々は、科学と芸術は違うとしたり、またスポーツと科学は違うものだとして、知の合一のテーマに含めなかったりする場合もあるようですが、上に説明したようにそれらは錯誤なのでしょう。

さて、翻ってそのように知の全体(細部)関係をみれば、また知の合一命題を理解するなら、そこから、その真実と知を得ることは絶対的に不可能であることが証明されたことでもあるのでしょう。

さらにまた、しかしそれは同時に、真理中の真理(最高段階の真理)へ到達するための、おおよその真理関係と原理(全体の姿)は説明でき理解できたことも意味しているのでしょう。

なぜ「真実を得ることは絶対的に不可能である」といえるのか、その答えの一つは、学問というものは次々と狭くなる隘路を進むだけだという絶対的な本性を持つからです。

各学問は、それぞれの専門・個別・特殊・細部の問題に向かって微細化し下降するだけで、その対極の上昇し上向してある「大きな、一つの世界には到達しない」「全体的真理、真理中の真理は絶対的につかめない」ということを意味するからです。

二つ目は、各科学学問の固有の対象は、写真や言葉や文字のように一瞬を止めてあるのではなく常に移り変わり、終わりがないため、その学問専門対象の、しかも細部をその都度分化・分析し微細化して抽捨象して、微細真理を次々に追い求めるから、完結したり満足に到達することは永遠にないのです。

さらに三つ目は、それらのそれが全部の科学学問で繰り広げられるため、全面的認識には到達することはないから「真実を得ることは絶対的に不可能である」わけです。

しかしそのことは同時に、そのような知と真理の、しかも嘘となる逆理の構造と原理は解き明かされたことでもあり、これが真理を得るための「真理論」の重要な命題でもあるということを証明したことであり、それらを知り認識したことでもあるのです。

こうして人類と人々が真理を掴むために、また人類が誤った活動を改めて救われるためには、そのよう真理の原理と構造を明らかにし、学び、示す学問が必要であることが明らかとなったわけです。

これが「知の合一」の意味内容であり、それをいう必要性であり、問題であり、「知の合一」の課題と命題なのです。

そのような真理中の真理を求める要の学問が必要だと言うことについては、すでに宗教はそのような真理について凡そは説明しているのですが、しかし宗教の真理では人々と人類を救う真理を示すことはできないのですし、宗教では科学の真理を示すこともできないのです。

というのも、各宗教は各民族や国家の個別宗教であり、それぞれ各宗教ごとの真理を示し導いてはいるのですが、しかし例えばキリスト教はその信者であるキリスト教徒だけに真理を示し導いて救うものであり、仏教徒やイスラム教徒などは導けないというキリスト教という一部の、細部の、真理でしかないのです。

それは他の宗教にもいえることで、互いが上に説明した「他律総背反」の関係を作り、その個別の宗教的真理は偽であることを、また自身の信徒以外は導けず救うことができないことを、互いが証明し合っているのです。

つまり、宗教の真理も各専門ごとの学問真理も、本当の真理、真理中の真理を掴むことはできないのです。

宗教や民族国家ごとの真理とは別な、人類共通の、全ての人に福利をもたらす学問としての本当の真理が、世界的社会的に成立していないため、人類と各国の誰でもが信じざるを得ない真実とはなりえていないのです。そうして人々が自らの真理や真実を知らず錯誤を改めなくなっているからこそ、「知の合一」の課題を言うのです。


さてそこで、人類はどうしたら科学的学問的な「知の合一の課題」を達成できるのだろうかということが、次に示される人類の課題ということになります。

実はその答えも、この文章冒頭に暗示されているのです。人類は、ギリシャ時代から人間が世界を見つつ実は見えていない問題について、つまり認識問題について、そのナゾを解き明かす研究活動を進め、現代まで続けてきているのです。

というのも人類は世界を正しく認識することは未だ実現してはいないからです。つまり全体を見ることも細部を見ることもできていないし、実現していないし、何よりも現代の人々でも、現代人類でも、未だ一つの世界の全体を(地球が幾つもあるのではない一つだけの世界)、正しく見て、考え、判断し、行為し活動し実践する方法を獲得していないのです。

人類がそうして正しく見えないし考えられず、正しく行為し活動し実践できずに、地球を破壊し自らの文明も崩壊させてしまい人類存亡の危機とさせているのです。

さらにそう自身で危機だと言っていながら、そうなった原因も示せず、従って解決策も見出せない(様々な「解決策」と「真の解決策」は示されるのだが、それは実は錯誤と嘘となっている)でいることが、人と人類が世界・物事を正しく見られていないことを実証しているのです。

ただ現代人類はそれと自覚せず、自分たちは目の前に展開している世界が、正しく見え、考えられ、判断でき、行為・実践できるのだと錯覚しているのです。
それも現代人が世界を正しく見ることが出来ないからこそ、それを正しく自覚できず、そう錯覚することになる、それらの証拠でもあるのです。(この人の当為については私どもの日記の「当為とは、どういうもの」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=305435546&owner_id=7769186を参照ください。)

そのように確かに現代人は世界を正しく見られないのだが、しかし一面では、細部は正しく見えてもいるわけです。それも冒頭に実証しました。

そうして実は、人類はそこにある世界を見えて、見られていない問題について、つまり認識問題について、そのナゾを解き明かす活動をギリシャ時代から進め、現代まで続けてきているのです。

その人間が正しく認識を進められない問題として、世界と人間の関係を解明してきた学問としての哲学を、さらに人間の考え話し弁じる方法を解明してきた学問としての論理学を、さらにその二つを結ぶ学問としても、弁証法(の学)を進めてきたのです。

従って人類とその知の学問は、これらを「三者の合一」といっているわけです。その三者を合一できるなら、人間は世界を正しく認識でき実践することもでき、真理と愛と幸せ平和を得られるだろうとしているのです。

つまり知の合一という課題は、三者の合一をもって解が得られるのだというところまで、すでに解明が進んでいるのです。

現代人類はそこまで知の旅を続けてきたし、すでに「知の合一」と「三者の合一」と言われ示されているものの関係がそのように示されているわけです。

数ある科学と学問の認識と真理、芸術的認識と真理、宗教の認識と真理、哲学の認識と真理、論理学の認識と真理、弁証法の認識と真理、それらを合一し統一し、統合したところに、人類の真理があるのです。

それら中心にある三者の合一を得ることで、たった一つの地球の、一つの世界を、人間という一つの像を、一つの学科を、正しく認識することができるわけです。従って人類の現代課題は、三者の合一にあるのです。

下へ続く

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上からの続き

人類の危機を前にして論理実証主義や分析哲学など心理学主義の学者たちは、それぞれの理論で「知の合一」や「知の統合」を言ったり、あるいは宗教者は「西洋と東洋の合一」などといっています。芸術家は芸術と科学の合体を知の合一の課題かのようにいったりもしています。

文化人なども「西洋文化と東洋文化の合一」などともいっているし、自然科学者や産業界・政界などからは「官・産・学の合一」が言われ、スポーツと科学も同じように言っているのです。

しかしそれらはある程度のことは云い得ているのですが、上に説明したようにそれらは近からず遠い命題や課題であって、やはり錯誤が深く、その命題や課題を探求してもいつまでも解答には到達しない設問なのです。

また、それら近からず遠い視点からすると、ここでの私たちの理論に批判や「疑問」が様々あるだろうし、また出されることになるのですが、冒頭に述べたように、そのことについて私どもが説明したり解説しても、そのような方たちには理解できないことは自明なことなのです。

(たとえをいえば、論理実証主義、とくに数学論理主義は特殊学問である数学と論理学を合わせているわけですが、いくら数学と論理学を合わせても芸術的真理(例えば芸術学)は解明できなし創造することもできないのです。更にそれらは特殊な学問であり、

すでに上に説明したように細部化を追究しても真理中の真理には絶対的に到達し得ないものなのです。さらに現代は全ての人が携わっているその仕事が分業化し分担化して、さらにそれを細分化し微細化しているため、人の経験と知識や意識が微細化し(矮小化し偏在化し)畸形化せざるをえないために、数学と論理学を合わせた専門家は全体的姿としてある世界と人の真理を理解することはできないのです。)

以上がおおよその説明だが、何度もいうように、それを理解する者は有り得ないほど難しいことを説明したことでもあり、それを承知で敢えて記しておけば、私どもの日記などで展開している認識論が、その三者を合一した認識論であり、その認識論から知を合一するための学を獲得するには、人類には二つの学問が欠落しているだろうことが導き出されることを記しておきましょう。

さらに、人類の認識は、それら二つの学問が獲得されないかぎり、それは認識の正誤を計る定規(基準)を持たないことだから、まして人個人の認識は、正しく認識することはできず、その活動は錯誤したものでしかないのです。

従って、錯誤の人間活動によって起きている地球と自然の破壊と、文明を崩壊させる人間活動をやめさせたり正すことはできず、地球と人類を救うことはできないのです。

さらにこのまま、「三者の合一」と理論問題をおいて、その理論と問題を差し置いて、人類の理想の国家(天皇制封建国家・資本主義・暗黒の王国・社会主義・共産主義・神の王国・理性・人倫・自由の王国などなど、各自や各主義が理想とする国家)を社会改革や革命などで現実主義的・実践主義的に作ったとしても、それは錯誤した人々とその国家でしかなく、やはり地球崩壊と人類崩壊を救うことはできないのです。

つまり「三者の合一」の課題が、人類の第一義的な課題なのです。

特に人々の錯誤活動(自分の活動が正しいと錯覚している活動)によって、社会不条理と矛盾が起き、またその被害を受けて多くの方たちが苦悩することにもなっているのだが、それら人が起こし提起する一切の問題は、もう一度示しておくが「人が起こし提起する一切の問題」(このコミュで話し合われている問題も)と、人と人々を質し正すためには、またそうして解放されるためには、「三者の合一」の課題を獲得することが第一義的に必要なのでしょう

ヒト個人が世界や物事を正しく見られず、考えられず、判断・行動できない原因については、ここで明らかにした「三者の合一」が未確立だからという理由だけでなく、沢山の原因がありますので、私どもの日記のアチコチで検討し示していますので参考にしてください。
「汝自身を知れ」を自分個人を見ることなく、自分個人の赤裸々な姿から目を背け、〈人類〉の問題へと焦点を移してしまうたぐいの防衛も、ぼくたちはしばしば行なってしまいますね
失礼ですが一言。
議論が長すぎるので要約するべきだと思います。
ソクラテスは長々と弁舌を振るうのではなく、質問をして、それに対して手短な答えをすべきと言っていましたし。ほかの哲学コミュならまだしも、ギリシャ哲学のコミュニティー内ですし…。

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