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懐かしい物ふぁんくらぶ♪コミュの岡田有希子

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岡田有希子(おかだ ゆきこ、本名は佐藤佳代[さとう かよ]、1967年8月22日 - 1986年4月8日)は日本のアイドル歌手。愛知県名古屋市熱田区出身(出生は同県一宮市)。愛称は「ユッコ」。名古屋市立向陽高等学校→堀越高校卒業。身長155cm。体重42kg。スリーサイズはB86・W58・H84。血液型はO型。所属事務所はサンミュージック。当時キャッチフレーズは「ステキの国からやってきたリトル・プリンセス」。その後「いつまでも、一緒にいてね」と変わった。


概略
中学3年生の時にオーディション番組『スター誕生!』の第85代チャンピオンになり、芸能界入りする。1984年4月21日に『ファースト・デイト』でアイドル歌手としてデビュー。同年、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。ポスト松田聖子と評された典型的「清純派アイドル」の一人であり、その「ユッコスマイル」と呼ばれる愛らしい笑顔、笑顔に似合わぬグラビア受けする肢体で人気を博し、テレビ、ラジオ、CMと引っ張り凧になる。1986年1月、カネボウのキャンペーン・ソング『くちびるNetwork』が大ヒット。そのような人気絶頂の中、所属事務所ビルから投身自殺を図った。18歳という若さと、人気アイドルの不可解な突然の死はファンや芸能界のみならず、社会に大きな衝撃を与えた。わずか2年足らずの芸能活動にもかかわらず、“永遠のアイドル”として今なお多くの人に夭折を惜しまれ慕われている稀有な存在である。没後10数年過ぎた2002年においても、ファン投票によって収録曲を選んだベストアルバムが発売されたり、同年リリースのBOXアルバムは3万枚以上を売り上げるなど、今なお多くの人を魅了している事が窺える。


生涯

デビューする以前の出来事
1967年8月22日 愛知県一宮市で佐藤家の次女として誕生。2歳で、名古屋市熱田区に引越す。
1974年4月に名古屋市立高蔵小学校に入学する。
1980年3月に同小学校を卒業をする。
1980年4月に名古屋市立沢上中学校に入学する。
1982年、中学2年生の終わり頃、本人の芸能界入りを両親に大反対される。ただ本人も芸能界入りを強く希望していた為、中学3年生の時に両親より学校のテストで成績が学年で1番になること、中部統一テストで5位以内に入ること、第一志望の高校の試験に合格すること、と言う3つの条件を提示される。その3つの条件をクリアして、スター誕生のオーディションを受けることになった。ちなみに、アイドル誌(Dunk)に昔の成績表を公開する企画があった際、岡田自身のものは、5段階評価でほとんどが5であった。
1983年3月に芸能界入りするためのオーディションの『スター誕生!』が後楽園ホールに開催されその日に学校を無断欠席してまで故郷の名古屋から東京へ行き、そのオーディションに出場し第46代チャンピオンとなる。そしてこのオーディションの合格がきっかけでプロダクションのサンミュージック入りが決定する。この頃に中学校を卒業する。
1983年4月に名古屋市立向陽高等学校に入学する。
1983年8月、芸能界にデビューするために実家がある名古屋から東京の成城にあるプロダクションの社長宅に引越する。
1983年9月、堀越高等学校に転校する。
1983年
3月、日本テレビ系「スター誕生」第46回決勝大会優勝。 「サンミュージック」にスカウトされる。

芸能活動開始 1983年3月〜1985年12月

10月、毎日放送のラジオ番組『サトミ・ヒトミ・ユキコのなにかいいことないか子猫ちゃん』でレギュラーDJ。
1984年
4月、東海ラジオの『奈美子・有希子・小緒里のドキドキラジオ』レギュラーDJ。

歌手デビュー 以降 1984年3月〜1984年3月
1984年4月21日  キャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)から『ファースト・デイト』で歌手デビュー。
この年にいくつかの音楽最優秀新人賞をとったが、1985年の終わりまでは大きなヒットには恵まれなかった。その原因としては、竹内まりやと尾崎亜美がプロデュースしたシングル曲は有希子よりもやや先にデビューしたアイドル松田聖子・早見優・堀ちえみたちを意識したものであり、活発なイメージのある彼女たちと比べ、有希子は優等生のイメージがあり、彼女達の歌に比べて地味な歌であったとも言われ、必ずしも有希子の魅力を十分に発揮し得るものではなかった。
また、有希子がデビューした当時は、1980年デビュー組の松田聖子・田原俊彦・河合奈保子・岩崎良美・柏原芳恵、翌1981年デビューの近藤真彦、さらに「花の82年組」と呼ばれた中森明菜・小泉今日子・シブがき隊・堀ちえみ・早見優・松本伊代・石川秀美等の人気アイドル達が第一線で活躍していたので、1980年代半ば当時はアイドルの激戦期であった。しかし、新人賞レースにおいては、最有力候補であった菊池桃子がすべての賞を辞退し、同じく最有力候補であった吉川晃司も選ばれず、結果として有希子がFNS歌謡祭の最優秀新人賞に選ばれた。有希子は会場内にいた吉川晃司の女性ファンからバッシングを受けた。

1986年(1月〜3月)の活動時
1986年の初めに発売されたシングル曲『くちびるNetwork』は「カネボウ」が初の大ヒット。
この年の3月に堀越高等学校を卒業する。

自殺する1週間前以内での出来事(1986年4月1日〜4月7日)

4月4日
デビュー当時から住んでいた成城のプロダクションの社長宅から南青山のマンションの一室に引越し、一人暮らしを始める。
プロダクション社内で歌と振り付けのレッスンをする(このことが自殺後にテレビ放映される)。
歌謡ドッキリ大放送の収録に出演(この時に『くちびるNetwork』を歌う)した際、スタジオ内の客席で座って観ていた小学生の女の子に「岡田有希子さんは痩せていて体が小さいのにどうして胸が大きいのですか」と質問され困り果てた表情をしている映像が流れた。この番組は自殺後放送され、歌のあとにテロップが出た。

4月5日
友人であり当時アイドルであった南野陽子と都内某所で映画『女優フランシス』を鑑賞する。[1]
この日に渋谷公会堂の公演があり20曲を熱唱する。この内の17曲は自分の歌を歌い、後の3曲はビートルズの『Tell Me Why』、」杏里の『悲しみがとまらない』、早見優の『PASSION』をカバーした。

4月6日
名古屋で公演があるため新幹線で東京から名古屋へ向かうが、その新幹線の同車両内に当時無名であった落語家時代のタレントの伊集院光が乗っていて、有希子のことを目撃していたと言う。(伊集院光は有希子さんの歌は容易く聞くことが出来ないと言った。-[2])その帰りに名古屋にある実家に寄る。このときが家族との人生最後の対面となる。この日の20時53分の名古屋発新幹線で東京へ帰還。

4月7日
午後7時に渋谷の東急文化会館内にある「渋谷パンテオン」で『ロッキー4』の試写会に出席する。この時の試写会がマスコミ前での人生最後の姿となる。
↑ 「100万人が選ぶアイドルポップス 2002年、宝島社」にて掲載。
↑ 「100万人が選ぶアイドルポップス 2002年、宝島社」にて掲載。

自殺直前の出来事(1986年4月8日)
1986年4月8日午前10時頃、人気絶頂のさなか南青山にある自宅マンションの室内でガス自殺に加えリストカットによる自殺を図る。マンションの管理人がガスの臭いに気づき警視庁指令センターに110番通報し、同センターより東京消防庁赤坂消防署に連絡、これを受けて消防隊と救急隊が急行した。このガス自殺は未遂に終わったものの、救急車で港区の北青山病院に搬送され治療を受けた。病院からは所属事務所の福田時雄専務と溝口伸郎・山崎結美の両マネージャーが駆けつけた。当時、社長の相澤秀禎は都内の歯科病院で歯の治療を受けていたため、病院に駆けつけることが出来なかった。その後、北青山病院から所属事務所へ戻る車内で、自殺を図ったことで福田専務より説教を受け、有希子は泣いた。サンミュージック本社がある大木戸ビルに戻った後、有希子は福田専務に対して「ちょっとティッシュを・・・」と告げた後、ビルの螺旋階段で屋上へ上がり、午後0時15分に屋上から飛び降り自殺。享年18歳の若さであった。

死後の出来事

自殺直後の出来事(1986年4月8日)
遺体は警察の手で四谷警察署に運ばれた。検視の結果、自殺と確認された為、司法解剖は行われなかった。

自殺の原因
岡田有希子の自殺原因については複数存在するが、いずれも噂であり、正確な原因は現在も不明である。

俳優の峰岸徹に弄ばれた
この件について自殺後、峰岸は記者会見を開いたが、現在に至るまで明確には答えていない。また、パソコン通信上などで、俳優の神田正輝との恋の噂も出ていたため、当時中堅俳優に過ぎなかった峰岸徹が神田正輝の身代わりになったとも言われている。
恋の仲であると噂されていた神田正輝の子を妊娠していた
遺稿集「愛をください」にて有希子の母が自殺する2日前、名古屋の実家に帰った際に 生理用品を買っていたの目撃したと語り、妊娠説を否定した。
前日の4月7日に事故死したレーシングドライバーの萩原光の後を追った
1986年5月に『スケバン刑事』で女優としても活躍し、アイドル歌手としてデビューする予定だった遠藤康子(当時17歳)がビル(有希子のときと同じビル)から投身自殺したことに影響された。所属するプロダクションから以前から付き合っていた男性との交際を止めるように言われたとの説がある。(当時の週刊平凡に男性のインタビュー記事あり。訃報を聞いた有希子は胸を痛めていたという)。

岡田有希子の自殺騒動
青少年の連鎖的な後追い自殺が直後に発生した為、国内年間の自殺者数が前年度よりも急上昇、「有希子シンドローム」と称され、当時の国会でも取り上げられる程の社会問題にまで発展した。また当時の総理府の「青少年の自殺問題に関する懇話会」が報道機関に対し「人命を尊重した理念で(報道は)行われるべきである」との声明を発表し、日本自殺予防学会では新聞、テレビ、雑誌各社に報道の自制を求める緊急の要望書が出される事態にまでなった。こうした事態を重く見た報道機関の中で自殺報道を自粛する動きが出た。当時テレビ朝日系で放送されていた「ニュースステーション」ではキャスターの久米宏が番組の終わりに、「連鎖反応を起こす心配があるので、今日は自殺の報道を控えました」と発言、また女優で冒険家の和泉雅子が「あなた自身の“北極点”を持って!」と、更には先輩で“兄貴分”の森田健作が「おはようナイスデイ」で組まれた自殺防止特集で、早まらないよう呼びかけた事がこれを物語っている。
有希子の自殺から2日後の1986年4月10日、TBS系『ザ・ベストテン』(生放送)のエンディングで、黒柳徹子が落胆したファンを慰め、後追い自殺を戒めるコメントを出した。同日出演していた中森明菜や南野陽子そして荻野目洋子らも岡田の突然の訃報に涙した。いつもの『ザ・ベストテン』のエンディングの曲ではなく、『くちびるNetwork』をバックに流し、過去に出演した時の岡田有希子のコメント映像を放送しながら番組のエンドロールが流れ、この日の放送は終了した。6日後の4月13日に放送されたテレビ東京系「ヤンヤン歌うスタジオ」でも、司会のあのねのねがオープニングで有希子の夭折を惜しむコメントを述べ(通常の形式ではなく調整室で撮影)、デスクに立てられた遺影に献花した。
有希子が自殺した直後の写真映像が週刊誌Emma(1986年5月10日号)に公開され、その週刊誌の表紙にはドラマ『禁じられたマリコ』内での峰岸徹との2ショットが掲載され、中には有希子の人生を描いた写真や当時卒業したがばかりの堀越高等学校の卒業アルバム内の記念写真、そして有希子が描いた絵画などが掲載された。別のコーナーでは無名時代の山口智子・麻木久仁子・鈴木保奈美のグラビアが掲載されていた。

葬儀での出来事
有希子が自殺した翌日の4月9日夜、所属事務所の近くにある新宿区四谷の大宗寺でファン達のための通夜が営まれた。告別式は、通夜の翌日4月10日に堀越高校近くにある中野区の宝仙寺で社葬として行われた。告別式が終わった後、遺体は新宿区の落合斎場で荼毘に付された。その翌日4月11日、遺骨は故郷の名古屋に戻り、名古屋市中区の東本願寺名古屋別院でも告別式が行われた。東京での告別式は、所属プロダクション社長、相澤秀禎が、「お金はいくらかかってもいい」と言った程の盛大なものであった。葬儀には、遺族をはじめ、所属プロダクション相澤秀禎社長、プロダクションの大先輩である森田健作、桜田淳子、その他芸能関係者や『ザ・ベストテン』で共演した黒柳徹子、中森明菜、竹内まりやに加え、プライベートでも親しかった南野陽子に荻野目洋子、さらに吉川晃司と舘ひろしらが参列した。このとき、吉川と舘はサングラスを掛けたまま参列したため、ダン池田は著書『これでいいのか芸能界』の中で、2人がサングラスを掛けていた事を批判した。


遺書
現在もサンミュージック本社内の金庫の中に保管されている。 内容はごく近い血縁関係の遺族しか見ていないと言われ、所属していたサンミュージックプロダクションの相澤秀禎社長ですら、見ていたか否かは定かではない。遺書の中には自殺のきっかけとなったといわれるMの名前が書かれていると言う説かある。


有希子の自殺で幻となった企画
有希子の自殺で幻となった公演・シングル発売・ドラマ出演は以下のとおり。

1986年4月13日:鶴岡市民文化会館での「Heart Jack」中止。
1986年5月2日:大阪厚生年金会館での「Heart Jack」中止。
1986年5月5日:よみうりランドでのコンサート中止。
「花のイマージュ」:有希子の幻のシングル曲(1986年5月14日発売予定であった。ラジオ番組「夜遊びしナイト!」で発売前紹介が行なわれたのみでお蔵入り状態だったが、約12年10ヵ月後の1999年3月17日に発売された『有希子』のアルバム『メモリアルBOX』内に収録された。)
『ママ母vsママ子! 家出令嬢の課外授業』:1986年渡辺典子主演単発ドラマ。有希子の自殺で典子が代役になった作品である。
『素敵な休日』:堀ちえみのシングル曲(1986年10月21日発売)。有希子が歌う予定であったが有希子の自殺でちえみが代わりに歌ったとされている。

自殺後の出来事
有希子の自殺後、プロダクションは今後、岡田有希子をテレビや雑誌に登場させることを禁止し、一部のワイドショーを除いて有希子のことをテレビでは伝えなくなった。有希子の自殺から約10年10ヶ月後の1997年2月9日放送のテレビ朝日系列の特別番組、ザ・スーパーサンデー「完全保存版・臨終の瞬間!栄光の最後のメッセージ」で岡田有希子を取り上げた。当日の各新聞のテレビ欄にはトップで掲載され、しかも往年の石原裕次郎・松田優作・夏目雅子・逸見政孝等といった大物たちを凌いでの事だった。さらに放送の数日前にワイドショーやスポーツ紙でも特集されるほど有希子についてテレビで放送することは珍しいことであった。この放送以降、有希子についていくつかのテレビ番組や雑誌でも特集された。
1998年に有希子の13回忌にちなみ、新宿文化センターで「岡田有希子展」が4月6日から4月8日までの3日間開催された。
2000年7月19日に有希子の元マネージャーであった溝口伸郎がプロダクションがある大木戸ビルの5階のトイレ内で首吊り自殺した。その次の日のスポーツ紙・新聞の報道・テレビ欄には「酒井法子のマネージャーが自殺」と発表された。

岡田有希子に捧げられた曲
インディーズ時代のスピッツが1989年に『アイドル』と言う曲をアマチュアライブで披露(ボーカルの草野マサムネが「同じ年に生まれたけれど、もう歳を取らない岡田有希子さんにこの曲を捧げます」と当時のライブで発言)。
竹内まりやのアルバム『Quiet Life』(1992年発売)の歌詞カードでも、『ロンサム・シーズン』の部分に“Dedicade for memory of Yukiko Okada(岡田有希子さんの思い出に捧ぐ) ”の言葉が入れられている。
Rhymesterのアルバム『HEAT ISLAND』(2006年発売)の『LIFE GOES ON feat. Full Of Harmony』の中にある宇多丸のパートでは、全て岡田有希子について唄われており、そのパートの殆どが有希子を失った悲しみと怒りを具体的に表現した歌詞となっている。また命日の4月8日には大木戸ビル前広場に黙祷を捧げに行く。[1]

有希子の墓
岡田有希子の墓は成満寺(愛知県愛西市東篠町)にある。

成満寺の納骨堂には、数々の岡田有希子に関する品々が納められている。
納骨堂の他にも有希子の墓前にはファンたちによる有希子へのメッセージのメモ帳やファンからの品々が置いてあり有希子とは無関係の物は他のファンに取られたり寺関係の方たちに捨てられるケースがある。
有希子は星のイヤリングが好きであったためにファンの多くは星のイヤリングをお供えする。
有希子に関係する貴重な物(例えば遺品)は成満寺の倉庫に保管されている。
法名は「有楽院釈尼佳朋(ゆうぎょういんしゃくにかほう)」であるが、これは、有希子・音楽・佳代から一文字ずつ取り、“みんなに愛されたアイドル”を意味する朋の字を入れたものである。

ファンの主な活動
21世紀となった今でも、有希子のお墓参りで知り合ったファン同士で、全国各地の小会場で慰霊コンサート興行を行なったり、有希子をテーマにしたビデオを製作したりしている。
岡田有希子の死後、ファン達によって「岡田有希子記念館」を故郷の名古屋市中区内か有希子の墓(成満寺)がある愛知県愛西市内に建立をしようとしたが、マスコミが有希子を「自殺したアイドル」と強く印象づけるような報道をしてしまい地元の住民達に反対された。現在計画は全くというほど無い。

ファンが起こした出来事
1986年5月6日、21歳の男性ファンが有希子が投身自殺を図った大木戸ビルの隣のビルの屋上から投身自殺を図った。
2003年12月の上旬頃、四谷四丁目の大木戸ビル前の広場の花壇に有希子のファンの誰かが有希子の慰霊碑を東京都の無許可で建てた。しかしこの年の12月19日に東京都・新宿区・国土交通省・警視庁によって慰霊碑が撤去された。慰霊碑が撤去された変わりに「慰霊碑を無許可で建てていた・・・」と言う知らせの看板2003年の12月下旬頃から2004年の3月頃までの間に設置された。現在は記念館計画と共に計画はまったく無い。

著名人
お笑い芸人:坂本ちゃん‐有希子の坂本ちゃんへのメッセージ入りのサインを持っていて生涯一番好きなアイドルだと言われている。「100万人が選ぶアイドルポップス (2002年 宝島社)」 にて掲載
お笑い芸人:松村邦洋‐歌手の中森明菜の大ファンでありその次にアイドルであった斉藤由貴や有希子のファンであったと有希子のファンから伝えられている。有希子の主演ドラマであった『禁じられたマリコ』を視聴していたとプライベート上で松村本人が言っていた。また日本テレビ系列速報!歌の大辞テン(1999年11月24日放送)にゲストで出演し有希子の映像が流れる前に「有希子さんはねっ、僕と同い年なんですよっ、今生きていたら32歳(当時)なんですよっ。」と発言した。
漫画家・タレント:山咲トオル‐松田聖子の次に2番目に好きなアイドルだと言われている。命日に大木戸前広場へお参りに行ったともいわれている。
ミュージシャン:村上てつや(ゴスペラーズ)‐ラジオ番組で有希子のお墓参りに行ったことを告白した。
↑ 「100万人が選ぶアイドルポップス 2002年、宝島社」にて掲載。
↑ 「100万人が選ぶアイドルポップス 2002年、宝島社」にて掲載。

命日の出来事(4月8日)

大木戸ビル前広場
2006年以前の命日:有希子が自殺した大木戸ビル前の広場に午前11時頃から毎年30人ぐらいのファンたちが集まり、それぞれ花束・線香などを持って来て広場の隅っこで立っている。その理由は、近所の住民達や他の歩行者達の迷惑にならないため。また演奏のパフォーマンスは特に迷惑になるためタブーとしている。その日の広場周辺には春の全国交通安全運動のテントが設置されている。ファンの一部は地方からも新幹線や飛行機でやって来てくる。有希子が大木戸ビルの屋上から投身自殺をした時刻である12時15分に一斉に花束を有希子が自殺した場所に供えてお参りをして、それから1時間ほどその場を離れずにいる。13時30分頃にファン達は有希子が自殺した場所を後にする。警察官が見回りに来て受動調査される事がしばしばある。以前は命日にサンミュージックの相澤秀禎社長がファン達を自宅に招いてパーティーを行っていたが、ここ数年はパーティーを行っていない。
2006年の命日:休日であったためかいつもの年よりも2倍近い、100人程のファンがやって来て、それぞれ花束を持って有希子が自殺した場所辺りにお供えをした。12時15分になると前年までは行われていなかったファンの代表者の音頭による黙祷が居合わせたファン大半で行われた。12時頃から大雨に見舞われたが、雨は12時50分頃に上がり快晴となった。13時30分頃にファン有志がお供えをした花束を持って成城にある相澤会長の自宅へ向かい、大木戸ビル前を後にした。

音楽

シングル
ファースト・デイト(1984年4月21日)
作詞作曲:竹内まりや 編曲:萩田光雄
リトル プリンセス(1984年7月18日)
作詞作曲:竹内まりや 編曲:大村雅朗
-Dreaming Girl- 恋、はじめまして(1984年9月21日)
作詞作曲:竹内まりや 編曲:萩田光雄
二人だけのセレモニー(1985年1月16日)
作詞:夏目純 作曲:尾崎亜美 編曲:松任谷正隆
Summer Beach(1985年4月17日)
作詞作曲:尾崎亜美 編曲:松任谷正隆
哀しい予感(1985年7月17日)
作詞作曲:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
Love Fair(1985年10月5日)※東芝「パソピアIQ」CM曲
作詞作曲:かしぶち哲郎 編曲:松任谷正隆
くちびるNetwork(1986年1月29日)※'86カネボウ春のキャンペーンCM曲
作詞:Seiko 作曲:坂本龍一 編曲:かしぶち哲郎
花のイマージュ(1986年5月14日、発売中止)
作詞作曲編曲:かしぶち哲郎
Believe In You(2002 Strings Version)(2002年12月4日)
作詞:吉沢久美子 作曲:梅垣達志 編曲:服部隆之

アルバム
シンデレラ(1984年9月5日)
さよなら・夏休み
作曲作詞:竹内まりや 編曲:清水信之
リトル プリンセス(シングル曲)
彼はハリケーン
作曲:EPO 作詞編曲:清水信之
丘の上のハイスクール
作曲:康珍化 作詞編曲:萩田光雄
潮風のラブ・レター
作曲:康珍化 作詞:白井良朗 編曲:清水信之
風の中のカフェテラス
作曲:三浦徳子 作詞:岡田徹 編曲:清水信之
憧れ
作曲作詞:竹内まりや 編曲:萩田光雄
Plastic Girl
作曲作詞:山口美央子編曲: 萩田光雄
ソネット
作曲:吉沢久美子 作詞:梅垣達志 編曲:萩田光雄
ファースト・デイト(シングル曲)
贈りもの(1984年11月28日、ベストアルバム):レコード発売、単独でのCD発売はされていない。
ファースト・デイト(シングル曲)
そよ風はペパーミント
作曲:大村雅朗 作詞:田口俊 編曲:大村雅朗
リトル プリンセスシングル曲)
―Dreaming Girl― 恋、はじめまして(シングル曲)
気まぐれTeenage Love
作曲作詞竹内まりや 編曲:萩田光雄
恋のダブルス
作曲:萩田光雄 作詞:康珍化 編曲:萩田光雄
Believe In You
作曲:吉沢久美子 作詞:梅垣達志 編曲:萩田光雄
FAIRY(1985年3月21日)
風の魔法で
作曲:夏目純 作詞:尾崎亜美 編曲:松任谷正隆
Walking In The Moonlight
作曲:尾崎亜美 作詞:堀川まゆみ 編曲:松任谷正隆
目をさまして、Darling
作曲:康珍化 作詞:馬飼野康二 編曲:松任谷正隆
二人だけのセレモニー(Album Version)
作曲:夏目純 作詞:尾崎亜美 編曲:松任谷正隆
森のフェアリー
作曲:かしぶち哲郎 作詞編曲:松任谷正隆
おしゃれな雨音
作曲:吉沢久美子 作詞編曲:松任谷正隆
ストライプのジェラシー
作曲:三浦徳子 作詞:馬飼野康二 編曲:松任谷正隆
Lady Joker
作曲:吉沢久美子 作詞:堀川まゆみ 編曲:松任谷正隆
あなたを忘れる魔法があれば
作曲:康珍化 作詞編曲:松任谷正隆
ポップ・アップ・リセエンヌ
作曲:かしぶち哲郎 作詞編曲:松任谷正隆
十月の人魚(1985年9月18日)
Sweet Planet
作曲:小室哲哉 作詞:三浦徳子 編曲:松任谷正隆
みずうみ
作曲:財津和夫 作詞:三浦徳子 編曲:松任谷正隆
花鳥図
作曲:財津和夫 作詞:高橋修 編曲:松任谷正隆
哀しい予感(シングル曲)
ロンサム・シーズン
作曲作詞:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
流星の高原
作曲:松任谷正隆 作詞:高橋修 編曲:松任谷正隆
Bien
作曲:馬飼野康二 作詞:三浦徳子 編曲:松任谷正隆
ペナルティ
作曲:杉真理 作詞:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
十月の人魚
作曲編曲:松任谷正隆 作詞:高橋修
水色プリンセス ―水の精―
作曲:小室哲哉、作詞:三浦徳子、編曲:松任谷正隆
贈りものII(1985年12月5日、ベストアルバム)
二人だけのセレモニー(シングル曲)
Summer Beach(シングル曲)
哀しい予感(シングル曲)
Love Fair(シングル曲)
PRIVATE RED
作曲:山川恵津子 作詞:売野雅勇 編曲:大村雅朗
星と夜と恋人たち
作曲:MAYUMI 作詞:吉沢久美子 編曲:松任谷正隆
恋人たちのカレンダー
作曲作詞:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
二人のブルー・トレイン
作曲:杉真理 作詞:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
子羊NOTE
作曲:山川恵津子 作詞:康珍化 編曲:大村雅朗
ヴィーナス誕生(1986年3月21日)
WONDER TRIP LOVER
作曲:坂本龍一、作詞:EPO、編曲:かしぶち哲郎
愛…illusion
作曲:飛澤宏元 作詞:松田聖子 編曲:かしぶち哲郎
ヴィーナス誕生
作曲:木下伸司 作詞:前川由佳 編曲:かしぶち哲郎
Spring Accident
作曲:大貫妙子 作詞:EPO 編曲:かしぶち哲郎
銀河のバカンス
作曲:三井一正 作詞:高橋修 編曲:かしぶち哲郎
ジュピター
作曲作詞編曲:かしぶち哲郎
くちびるNetwork(シングル曲)
眠れぬ夜のAQUARIUS
作曲:坂本龍一 作詞:麻生圭子 編曲:かしぶち哲郎
水晶の家
作曲:かしぶち哲郎 作詞:高橋修 編曲:かしぶち哲郎
愛のコロニー
作曲作詞編曲:かしぶち哲郎

アルバム(BOX版・メモリアル版)
メモリアルBOX(1999年3月17日)
贈りもの
贈りものII

ヴィーナス誕生
花のイマージュ
作曲作詞編曲:かしぶち哲郎
秘密のシンフォニー
作曲:大貫妙子 作詞:麻生圭子 編曲:かしぶち哲郎
ALL SONGS REQUEST(2002年5月15日、ベストアルバム)
さよなら・夏休み
作曲作詞:竹内まりや 編曲:清水信之
リトル プリンセス(シングル曲)
憧れ
作曲作詞:竹内まりや 編曲:萩田光雄
ソネット
作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
ファースト・デイト(シングル曲)
―Dreaming Girl― 恋、はじめまして(シングル曲)
二人だけのセレモニー(シングル曲)
あなたを忘れる魔法があれば
作曲編曲:松任谷正隆 作詞:康珍化
Sweet Planet
作曲:小室哲哉 作詞:三浦徳子 編曲:松任谷正隆
ロンサム・シーズン
作曲作詞:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
水色プリンセス ―水の精―
作曲:小室哲哉 作詞:三浦徳子 編曲:松任谷正隆
Summer Beach(シングル曲)
Love Fair(シングル曲)
くちびるNetwork(シングル曲)
花のイマージュ
作曲作詞編曲:かしぶち哲郎
Believe In You
作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
贈りものIII〜岡田有希子CD/DVD-BOX(2002年12月18日)
シンデレラ + α
FAIRY + α
十月の人魚 + α
ヴィーナス誕生 + α
「OTAKARA マキシシングル」Believe In You(2003 Strings Version)
作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
Fly Up! Angel
作曲作詞編曲:
二人だけのセレモニー(Single Version)
Believe In You(2003 Present-Mix Version)
作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
「All Songs Request オリジナルカラオケ」(+ 哀しい予感)
「YUKKO PV & CM COLLECTION」

カバーしたミュージシャン
竹内まりや:「ロンサム・シーズン」
中嶋美智代:「ロンサム・シーズン」
酒井法子:「恋人たちのカレンダー」
中谷美紀:「WONDER TRIP LOVER」(中谷美紀版では曲名が「クロニック・ラヴ」となっており、曲は同じだが歌詞はまったく別である。)

ビデオ
Yukiko in SWISS(1985年8月21日)
Memories of Switzerland(1985年12月5日)

DVD
Memories in Swiss(2002年12月18日―上記テープ2巻を1枚のDVDに収めた物)

出演

テレビドラマ
中学生日記:歌手としてデビューする前、脇役ではあったがレギュラー出演していた。
真田太平記(1985年、NHK総合)
かぐや姫・とんで初体験!?(1985年、フジテレビ):「月曜ドラマランド」にて放送された単発ドラマ。ライバルであったおニャン子クラブのメンバーである福永恵規との共演。
禁じられたマリコ(1985年-1986年、TBS):峰岸徹と共演、これがきっかけで交際との噂があった。自殺後、再放送はされていない。再放送の予定はあったが、“事件に便乗した視聴率稼ぎと思われるのは心外”との局側方針から無期延期が決まった。

ラジオ
何かいいことないか仔猫ちゃん(毎日放送)
奈美子・有希子・小緒里のドキドキラジオ(1984年4月〜1985年10月7日、東海ラジオ他)
ちょっとおあずけ(1984年10月8日〜1985年10月7日、ニッポン放送)
夜遊びしナイト!(1985年10月13日〜1986年4月6日、ニッポン放送系)

CM
江崎グリコ セシルチョコレート
グリコ乳業 カフェゼリー
東芝 パソピアIQ、パーソナルテレビU-30、Let's Chat、つくばEXPO'85東芝館(名誉館長)
初代ヤングイメージキャラクター。(2代目は西村知美)
牛乳石鹸共進社 ラブジュ シャンプー&リンス
旺文社 中一時代、ハイトップ
エスエス製薬 エスタック顆粒、ブロン液W
尾崎商事 カンコー学生服、カンコー女子通学服
月星化成 ベンチャートランザム、ベンチャーΣ
郵政省 電子郵便

ポスター
神田警察署(年末年始防犯広報)
防衛庁(自衛官募集)
消防庁(火災予防運動)

書籍

有希子をテーマにした書籍
アイドルコミックス・実録まんが岡田有希子(1984年、学研)
瞳はヒミツ色(1985年、ワニブックス)
岡田有希子はなぜ死んだか(上之郷利昭 1986年、 新森書房)
愛をください(遺稿集 1987年、朝日出版社)

有希子について掲載されている書籍(又は参考文献)
清純少女歌手の研究 ―アイドル文化論(竹内義和 1987年、プラザ)
レコード・コレクターズ増刊 遺作 ―ミュージシャンの死とラスト・アルバム(1998年、ミュージック・マガジン社)
夭折の系譜 (2001年、 アートブックの森)
100万人が選ぶアイドルポップス(2002年、 宝島社)
歌謡曲という快楽 (宝泉薫 ファッシネイション 2002年、 彩流社)
音楽誌が書かないJポップの批評(尾崎豊) (2003年、 宝島社)
「おたく」の精神史―1980年代論 (大塚英志 2004年、講談社現代新書)
蘇る!夭折のスター達 (2005年、 セントラルSOG)
昭和・平成の「怪死」事件史 (2006年、 宝島社)

写真集
岡田有希子special(1984年、近代映画社)
岡田有希子写真集・あなたとふたりきり…(1985年、近代映画社)
もっと逢いたい…有希子(1985年、講談社)
SWEET LOVE DREAM(写真 武藤義 1985年、音楽専科社)
ヴィーナス誕生(1986年、扶桑社)
さよなら…有希子(1986年、シーズ)
SWEET LOVE DREAM(2002年・復刻版、音楽専科社)
ヴィーナス誕生(2002年・復刻版、扶桑社)

受賞歴
1984年:第3回メガロポリス歌謡祭最優秀新人ダイヤモンド賞
1984年:第17回日本歌謡大賞最優秀放送音楽新人賞
1984年:日本レコード大賞最優秀新人賞
1984年:第11回FNS歌謡祭最優秀新人賞
1984年:日本テレビ音楽祭新人賞
1984年:あなたが選ぶ全日本音楽歌謡祭最優秀新人賞
1985年:ゴールデンアロー賞
1985年:あなたが選ぶ全日本音楽歌謡祭金賞
1985年:第12回FNS歌謡祭優秀歌唱音楽賞
1985年:日本テレビ音楽祭金の鳩賞

その他

交流関係
有希子の交流関係には同時期にデビューしたアイドルで親友である田中久美や荻野目洋子・南野陽子・高部知子などがいた。

お宝関係
デビュー前の1981年(中学2年生の時)に「ニコン・フレッシュギャルコンテスト」で優勝。写真家・立木義浩が撮影した雑誌広告がある(選出されたフレッシュギャル達のポートレートを月刊「太陽」で連載)。
写真集「ヴィ−ナス誕生」:有希子が自殺する4日前の1986年4月4日に発売された。有希子が自殺した次の日の4月9日に発売中止・絶版となってしまい、都合5日間しか発売されず「幻の写真集」と言われていて、その後は全国の各古本屋(特に神田神保町の本屋街)では2万〜3万円台で売られていた。約16年8ヵ月後の2002年12月4日に復刻版で再販された。その後古本屋で売られていた旧写真集の値段が一気に下がり、再発売された復刻版・写真集の値段に降下した(3500円ぐらい)。復刻版には2003年のカレンダーが新たについていた。
写真集「SWEET LOVE DREAM」:1985年に旧版が発売。復刻版が2002年12月4日に写真集「ヴィーナス誕生」の復刻版と同年月日された。旧版と復刻版の違いは旧版はカバーなしで表紙の右上に「アイドルNo.1」と言うロゴが小さく書いており、復刻版はカバーつきで表紙に前文のロゴが書いていない。
ポスターは全国のアイドルショップ(特に神田神保町の荒魂書店)では1万円〜6万円の値段で売られている。
サインの色紙は最低で3万円、最高で300万円の価額がついている。

幻の未来像
岡田有希子は生前雑誌でよく23歳(1990年)で結婚引退宣言をしていた。

関連項目

関連用語
愛知県出身の有名人一覧
熱田区
ウェルテル効果
カリスマ
旧人類
女性アイドル
名古屋市
1985年
地下アイドル
名古屋市
名古屋市立向陽高等学校
日本現代芸能史
堀越高等学校
夭折

関連人物
尾崎亜美
坂本龍一
竹内まりや
田中久美
新田恵利
萩田光雄
萩原光
松任谷正隆



岡田有希子はなぜ死んだか
あの自殺は失恋なんかが原因じゃない!
関係者への綿密な取材で浮び上がった少女
タレントの孤独の相貌。それは薄汚れた世間
の常識を打ち破って、18歳の無垢な青春の
死と真実を白日のもとに晒す!

ま え が き

 この世に正視できないものがふたつある。それは太陽と死だ……フランスの箴言家、ラ・ロ
シュフーコーの言葉である。
 死の前ではたしかに人は沈黙を守る意外にない。いかなる言葉も死という厳粛な事実の前で
は無力である。
 にもかかわらず、私はこれからある少女の青春と死について語ろうと思う。
 少女の名前は、佐藤佳代。世間では岡田有希子という名で知られるアイドル歌手である。
 彼女は昭和六十一年四月八日、東京四谷のビルの屋上から飛び降りてみずからの生命を断っ
た。
 その衝撃は全国の茶の間を襲った。後追い自殺に走る者さえ現れて、大きな社会問題にもなっ
たことは読者もご承知だろう。
 死を前にして何を語ることがあると言われればそれまでである。だが、この少女の生きた十
八年のあまりに短い人生にはなお多くのかくされた真実があるような気がしたのである。
 とくに、自殺の理由については、事件直後から二十歳以上も年上の俳優との失恋など、さま
ざまな憶測が取沙汰された。
 だが、私にはそれらはみなあまりにもデキ過ぎた話のように思えた。若い娘が何か事件を起
こせば、かならず、男……の問題がささやかれる。それが世間である。
 しかし、人間には、色恋だけではない、もっと別の真実というものもある。彼女にももっと
別の彼女らしい青春の真実というものがあったのではないだろうか。
 それをいくらかでも掘り起こしたい、というのが本書を書く気になった動機である。
 取材を進め、資料をあたっていくうちに、案の定、岡田有希子という少女の特異で個性的な
相貌がつぎからつぎと浮び上ってきた。
 そのひとつひとつが、みな重要な彼女の死の理由であり、青春の真実である。
 そこで、私はあえてあまり論評を加えることなく、私の見た岡田有希子という少女タレント
のありのままを読者に伝えたいと思う。
 それぞれの読者が、ここから岡田有希子という少女の生きた真実、青春の息づかいというも
のを感じてくれたら幸いである。
 最後に取材に協力して下さった皆さんに心からお礼を述べる。

                                    上之郷利昭


続きはこちらを
http://www.geocities.co.jp/MusicStar/5988/naze-old.htm


自己紹介
http://www.youtube.com/watch?v=PCZbF_VsYxg

くちびるNetwork (The lip's network)
http://www.youtube.com/watch?v=76LPY4vgH2g&eurl=

yukiko okada summer beach
http://www.youtube.com/watch?v=7BNOXVkwElM

Yukiko Okada - First Date
http://www.youtube.com/watch?v=R0PWYtzvRtA

岡田有希子 「リトル・プリンセス」 水着(青)
http://www.youtube.com/watch?v=fJFRKdvEF2A

yukiko okada little princess PV
http://www.youtube.com/watch?v=ElTF-f6g4YU
Okada Yukiko - Futaridakeno Ceremony
http://www.youtube.com/watch?v=zJ072rrPlCs

CM-GLICO-CECIL-CHOCOLATE-Yukiko-Okada-岡田有希子
http://www.youtube.com/watch?v=k8gEolqFkaU

有希子危ない!! 
http://www.youtube.com/watch?v=n0uHSYuI-a0

ドラマ かぐや姫CM
http://www.youtube.com/watch?v=z-1N8mn7Kn0

yukiko okada short interview
http://www.youtube.com/watch?v=zv78vILTKbo

岡田有希子自殺現場
http://www.youtube.com/watch?v=DeIwgh5N94g

岡田有希子飛び降り自殺ニュース映像
http://www.youtube.com/watch?v=k5on967-hVE

岡田有希子飛び降り自殺直後の峰岸徹記者会見
http://www.youtube.com/watch?v=RmL9a2tm9GQ

コメント(8)

あぁ〜芸能オタクの友達と四ッ谷駅から歩いて
サンミュージックの現場に見に行ったことがあります。

懐かしい思い出です。
今から約21年前の話ですね
シゲパパさん書き込みありがとう^^
すごく清純なイメージの人でした。
「恋、はじめまして」が好きでした。
テレビを見ていた時に
ニュース速報でテロップになったことを
覚えています。
高校を卒業したばかりの頃でした。
結構好きだったので、当時受けたショックは今でも鮮明に残ってます。
りさをさん
頭から落ちたらしく脳みその断片が飛び散ってたそうですよ
悲しい終わり方でしたね
この後しばらく自殺ブームでした・・・

まっしゅさん
私の場合死んでからその存在に気付きましたw
ファンだった他校の先輩は、3ヶ月なにも出来なかったと語ってました。
(私は、横須賀昌美さん、友人はハ・マ・ダ・ジュ・リ、年が判かっちゃいますね。)

わたしの宝箱の中には、今でも優等生風、彼女の写真カードが入ってますね。
以上  
じっくりと読んでしまいました。胸が痛みます。

同い年だったのに。。。有希子さんのご冥福をお祈りします。

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