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切磋短歌コミュの歌人の出発1 穂村 弘

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穂村 弘の出発
                  

1962年生まれの穂村弘は、1990年に処女歌集「シンジケート」を上梓している。28歳のときである。この歌集によって、前衛短歌の次に来る、現代短歌の若き旗手と嘱望されて、今日に至っている。

さて、嘱望されてとは、誰かにということである。では、それは誰か? 

歌壇の主流は昭和以降の伝統短歌とその系統であって、前衛短歌も現代短歌も依然として傍流である。しかし、塚本邦雄が切り開いたサンボリズムと呼ばれる暗喩・象徴を駆使した前衛短歌が、個人のレベルで昭和の短歌に深く楔を打ち込んだ。そこに岡井隆が現代詩のエッセンスと通底した感覚を導入して、前衛短歌の裾野を大きく広げた。岡井隆の短歌の懐は、アララギから塚本の歌まで、極めて広い。というより、岡井隆にはそれは短歌と言う場合、自明のことであるのだろう。

さて、横道にそれたが、この前衛短歌の昭和の巨人たち、そしてその影響を、主に個のレベルで重く受け止めてきた歌人たちが、嘱望をしたのだ。それは、短歌の既成の枠組みを、メリットであると同時に孫悟空の頭頂の輪っかとして、つねに二律背反的に意識してきた歌人たち、と言い換えてもいいかもしれない。

しかし、わたしの見るところ「シンジケート」の穂村弘が、燭光のように光ったというのではない。待ち人たちは、待ちくたびれていたのだ。

俺にも考えがあるぞと冷蔵庫のドアを開け放てば凍ったキムコ

塚本邦雄のような屹立する難解さはない。とても分りやすい口語で、穂村は冷蔵庫のドアを開けるのだ。俺にも考えがあるぞ、と啖呵を来ったその先に、凍ったキムコを置くところがなんともユニークだ。この活力のある短歌の啖呵、そして啖呵の結末としてのキムコ、このナンセンスな、しかししゃれた(と感じさせてくれる)組み合わせに、喝采を送ったとも言える。

 サバンナの象のうんこよ聞いてくれるだるいせつないこわいさみしい

うんこ話しは、大概の場合早く持ち出したほうが勝ちだ。2番煎じの効果を無に帰してしまう、(いろんな意味での)二面性をうんこは持っているから。穂村弘は早く持ち出した。彼の平衡感覚というものが、割合うんこを非現実的なものにして、うんこ自体をリアリティーで捉えるのではなく、ある象徴として持ち出している。かれは、3割ほど悪ぶっているというのが、わたしの見方であるが、(年齢によって、それがどんどん減ってきているし)この歌も相当潔癖だ。サバンナという乾いた、それも日本人のしらない、地球の果ての象のうんこ。どう考えても、不潔にはならず、ぱりぱりの乾いてすぐ燃料になりそうな物体だ。

そんなうんこを持ち出しているのに、この歌の持つ不思議なリアルさは、実はうんこの大きさに由来している。聞いてくれる、と頼んでいる、そこにあるうんこの大きさは、頼む主体と同じくらいの大きさなのだ。

感情語は、短歌には最も不向きであると古くから教えられてきた短歌道にとって、この歌の下の句は掟破りもはなはだしい。つまり、歌として感動のもっとも伝わりにくい語法であるはずだ。しかし、ドアの向こうに凍ったキムコを見つける作者が言うから、これらの感情語は、むしろ支持される。「ああ、きみも普通の感情 あるんじゃない。」という、安心にも似た認知。

感情語とサバンナの象のうんことの、妙にしっくりくる、アンバランス。これが、穂村弘が詠った、現代短歌への序曲であった。
(続く)

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