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クリシュナムルティコミュのクリシュナムルティ理解の至難さ

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 最近になって、クリシュナムルティ理解の至難さに気づき始めております。


 クリシュナムルティ理解の至難な例を紹介します。

 『静けさの発見』 横山信英・藤仲孝司・内藤晃 共訳 p648(訳者の後書き)より引用


  (前略)
  翻訳の経緯について記しておくと、この本は当初、横山さんが取り組んだものです。横山さんは1990年代後半から2000年代前半に○○村に住み、Kの本を毎日少しずつ翻訳しました。以前からの相談もあって上記のK著作集に取り組み、横山さん単独で第1巻から第4巻を翻訳しました。その後、話し合って本格的な翻訳作業に入り、まず、1930年代初めの講話を集めた第1巻を選びました。横山さんが自らの翻訳を検討しなおし、それを藤仲(この「訳者の後書き」執筆者)が読み込んで加筆訂正し、ゲラの段階でも互いに詳しく検討し、2005年に『花のように生きる』になりました。
 (中略)
 横山さんは癌が進行し、手術を受けました。早期発見であり早く退院できたのですが、同時に鬱が進行し、原文との対校が3回半しかできませんでした。
 (後略)

 −−− 以上引用 −−−

 熱心に翻訳作業をコツコツと行っていた横山氏でさえ、未だ道半ばなのです。

 横山氏の共訳出版書をご紹介いたします。『花のように生きる』、『知恵からの創造』、『静けさの発見』。

 クリシュナムルティ理解は至難なのです。


 その至難さの理由を私なりに説明してみます。他のご意見等があれば教えて頂ければ幸いです。

 『静けさの発見』 p30より引用

 (前略)

 それは−−この不滅の宝は−−見つけられるべきです−−思考が情欲、悪意、無知から自由になるとき、思考が世俗性と、ありたいという私的渇望から自由になるとき、[見つけられるべきもの]です。それは、正しく考えることと瞑想を通して経験されるべきです。真実のこの内的な自由なしに、存在(生存)は痛みです。渇いた人が水を探し求めるように、私たちもまた探し求めなければなりません。真実のみが、非恒久性・無常の渇きを癒やせるのです。

 (後略)

 −−− 1945年6月3日 オーク・グローブ −−−

 上記記述の中に、次元の転換が含まれています。


 「この不滅の宝」の言葉には次元の転換があります。

 「痛みです」の言葉は次元の転換(内的な自由)が前提になって起こります。

 一回の次元の転換に留まらないのです。幾重にも次元の転換が重なります。

 すなわち、クリシュナムルティが講話の前置きに、よく述べる「言葉はそれが指し示すそのものではありません。」、あるいは「真理を言葉で述べることはできません。」の言質のまま、言語でそれを発信することはできても、それを説明できないのです。

 それは受信側に、一定の機能を前提にして発信しているのです。

 受信側の機能としては、主体的に取り組む。能動的にならない(その一つとして、期待して待たない)。はずみ。等々が求められます。

 私の勝手ながらの憶測として、クリシュナムルティを翻訳し続けたならば、精読し続けたならば、等々の期待があれば、それは無意識に待っていることになります。

 待っている限り(それがたとえ無意識的であっても)、はずみは起こりません。

 そこで、途方に暮れることがあったとしても不思議ではありません。

 そこから、クリシュナムルティから離れてゆく場合もあってしかりです。

 その時に、気づいて欲しいことは、クリシュナムルティ理解が不充分にも関わらず、クリシュナムルティ非難を行う、非難正当化を為している自我の存在です。

コメント(170)

コメントよろしいでしょうか?
 人が何かに出会いそれを理解しようと試みるとき、そこに理解があるでしょうか?そこに真の理解がありますか?もし、私はそれを理解したと言えば、それは真の理解でしょうか?恐らくその理解はその人自身の理解であって、真の理解ではありません、違いますか?理解、真の理解は生じるものです、その人の内ではなくその外側に、真のものは決して真でないものの内にはおこりません。不完全は決して完全にはなりません。不完全が出来ることは唯一、己が不完全であるという事実を見ること、そして、その不完全が試みるあらゆることはより一層の混乱、苦闘、それ故悲しみをもたらすだけであるという事実に気づきそれを明確に見て、それと共に生きることができるだけではないでしょうか?
「理解する」という言葉も
クリシュナムルティが言っている
「理解する」
と私が知っている「理解する」と
いう意味と同じなのか、それすらよく分からない

クリシュナムルティが使う「理解する」
はどんな意味があるのだろうか?

日常使っている「理解する」で考えておけば、良いのだろうか?
彼の理解の困難は思考を越えた処に生じるもので、それに出会うために人は、自分自身がどれ程思考に条件付けられているかを自己、自分自身の中に、次々と生じる思考に気づきその全てを見て、それと共に生きる時、その理解がその人の外側に起こるのであって、決してその人の中に起こるのではありません。それで人は自分自身の中に生じる反応、思考、感情、そういった全てに気づかねばなりません。そして、それと共に生きることは極端に難しい、というのは、人間はとてもひどく思考を基盤に生きることを条件づけられているからです。
 この私のコメントに同意したり、非難したりせず、試してみていただけたら、よろしいのですが、、、
非難も同意もないですけど。

意識を持ってしまった事が失敗なのだと思います。
例えば命があるって考え方も
思考や感情があってのもので。

命

これ自体が存在しない。

本当は何の価値も意味もないことに対して価値や意味を見いだそうとしている事自体が無駄

反応、思考、感情

そんなものも存在しないし。
草木が枯れて種を残す
川が流れて海になる
ただそこに在るだけ
在るのか無いのかもわからない。

わかるわからないも思考感情を交えているから。

本来人は思考感情無しで存在できる物質。
人殺しは違反
お尻の匂いを嗅ぐのも違反
落ちてるうんこの匂いを嗅ぐのも違反
これも本来は無い。

思考感情を最終的には無くして
野生に還るのが人類の目的。
進化による退化をかさねて。
思考感情を捨て去り
野に咲く彼岸花のようにただよい
揺れる事がゴールだとおもいます。
>>[134]
 人生に、生きることに目的が存在するのでしょうか?あなたのコメントに異を唱えているのではありません、が、生きることに目的があるのだろうか?と、問いかけているのです。それで、もし、目的地、到達点があるとすれば、きっと始まりもあるはずです、すると人生は�坩貭樟�の動きということになります。すると、それは時間内の動きということになりませんか、つまり限界がある、ということです。そこに自由があるでしょうか?それで、人生に目標を求め、追求することによって見いだせるものは束縛の中、限定されたものではないでしょうか?又、達成の中に自由があるという観念は思考が製作した想像であり、事実ではないのではありませんか?どう思われますか?
生きる意味や目標を持つという事に意味はないと思います。
ダーウィンの進化論を軸に考えて。
微生物から順々に進化をしてきて
20万年前のホモサピエンス誕生。
ここで意識を持つようになった。

そこまでは獣と同じく意識を持たずに存在していたのだと思っています。

水や草が存在しているのと同じで
蟻やミミズ、猿、人も存在しているだけ
砂が落ちているのと何ら変わりなく。
人も存在しているだけだと思っています。

生きていることに目的は無いです
前段の通り命があるというのも
人の勝手な価値観であり、宗教だと思います。
人類全体の目的とすれば
楽をすること合理化する事。
井戸が水道に変わっていくように
馬が車に変わっていくように

利便性、合理性のみを求めて進化をしてきているのだと思っています。
それは思考を放棄する事と繋がっていて。
突拍子もない話かも知れませんが。
脳内を読み取れる装置が完成したとして。
喉が乾く前にのみたい飲みものが出てくる
お腹がすく前に食べたい食べ物がでてくる
行きたいところがあれば、五感に直接働きかけて幻想を見せてくれる。

究極の利便性合理性を考えるとそこにたどり着くと思っていて。

そうなると生きる意味ってなんなんでしょう。
個人の人生の目標の話であれば十人十色だと思います。
達成感や追及、人生の意味を見出だす事と散々してきましたが。
拗らせ過ぎてこうなりました。

思考を放棄する事が人類の目標で今がその通過点なのであれば
存在する事にも何も意味がない
そう感じてしまいます。

いや。でも普通に仕事して子育てして
生活してますからね?
小学校も中学校もろくすっぽいってない中卒の適当な考えで申し訳ありません。
誤字脱字、筋の通らない乱文失礼しました。

>>[136]
 自分が書かれたこのコメントを冷静にあたかも他の人のコメントのような気持ちで再読することをお勧めします。そして何故人はこのように考え、その推論から結論を引き出すのか?その空想に基づいた結論になんの意味があるのでしょう。この混乱し、どうにも修復しようもないように思える社会、全く抜け出す出口もないような社会、それでも人はそこでしか生きていくしかありません、そんな状態にうんざりした結果がこの発言に繋がっているのでしょうか?それとも他に原因があるのでしょうか?人が何故、他人の書いた本,自分の知識、経験等をもとに結論を持ち、それを保持するのか?それに気づき、はっきりと見ること、それを始めにすることが重要です。自分自身を知ること、自分自身の基盤をはっきりとしなければ、何をしようと全く無意味なのではありませんか?いや、それどころかより一層の混乱に導くでしょう。
>>[137]

いや。ただ本が好きなので
色々な本を読んで自分なりに解釈した結果だと思います。

状況にうんざりとか混乱、空想に基づいてるつもりはありませんよ。
感情論は無駄でしかないと思ってます。
人類が感情や思考を持ちその中でもがき苦しみながら文化を作り上げてきた。
それ自体が空想だと思います。

人類と草
人類と空気

全てがイコールで
違いがない。そこが結論だと思ってます。
人とチューリップの明確な違いってありますか?

思考全てが空想であると思います。
>>[138]

お話されていることは何も間違っていませんし
クリシュナムルティが言っていることと
特に離れていないと思います


その事実をただ話しても
クリシュナムルティの本をただ読んでも
同じことかと思います

花のように生きられると良いですね
現実、今、生きているこの状態があります。それは、全くの混乱です。ですが、私たちはこれが、この状態が普通の生だと思っています。しかし、も少し良くならないか、も少し上手く生きられないかと思っています。あるいは満足している人たちはこのまま、わらずにいたいと思っています。それで、そこに混乱が生じます。ですが、問題があると、人は当然それを解消しようとします。事実、私たちは、そうしてきました。その結果が現在です。ですから、何がいけなかったのでしょう、これが問題です。関心があれば、この問題を熟考してみて下さい。
歴史の長いスパンで見ると生活がよくなっているという思い込みの話でしょうか
混乱とはエントロピー増大の話なのか
どこかに焦点を当てないとわからないですね

人は問題を解決しようとしてしたのではなく
全ての方向へ行動をして、その中で生き残った思想が合意コストが低く多くの合意を得やすい

その合意とは全体の思想である為に、そこに人類の意識による採択は一度も行われていない
その結果が現在である

これをエントロピーの増大で混乱状態であり
これをどうにかしないといけないって事なのでしょうかね
どうあがいても因子は増えていくしかないようにも思えますし

人は問題を解決しようとしてきた
これも問題に対して、それを問題だと思わずに問題が過ぎ去った結果、歴史を振り返り
人類は成功した
人類は間違えていた
これを結果として捉えているだけではないょうか
>>[140]
こんばんは

>何がいけなかったか

解消しようとしたからではないのでしょうか?


>少し良くならないか、も少し上手く生きられないかと思っています。
>あるいは満足している人たちはこのまま、わらずにいたいと思っています。

この程度の苦痛なら、熟考できる程の関心は持てないのではないでしょうか?
私は、私たちは苦しみの根元を見ていないということを言っているのです。それで、そのような行動をしている。部分的、表面的に少し修正することで上手く生きられると考え、そうしてきたと言っているのです。この程度だからまあ、いいやと言って真剣にとらえようとしてこなかった、それが今現在です。そして、それがずっと続いているということを言っているのです。そしてよそで起こっている危機にたいして、それがどれほど悲惨であろうと、私たちは客観的な反応しかしません、切実感はありません。しかし、それは人類に、それゆえ私たちに起こっていることなのです。
>>[143]
苦しみの根元を見ないことが
「いけなかったこと」
で、本当に合っていますか?
切実感は
「どのように」
気づけるでしょうか
これは「方法」ではありません
>>[145]

どのように、と問う時、それはそれを知りたいという気持ちが働いています。それは意識、つまり頭脳が捕らえたいということです。そして、それは方法ではないという、それも意識の働きです。私たちが何かをしょうとする時、この意識が働きます。何故なら、そのように条件づけられてきたからです、そしてその条件付けを受け入れているからです。これが事実であるということ、そして、その条件付けが今という現在のあらゆる様態をもたらした、という事実を私が明確にその全存在でとらえるとき、そのとき、人は直接その現在に出会うことができ、そこに、意識、思考が関与しない気づきが生じるのです。ですから人は自分自身の条件付けの全てにまず気づかなければなりません。この気づきは意識して起こると思いますが、この気づきが意識して起こったもので自然に起こった全体の気づきではないということを見て下さい。ただ、見て下さい、そこから離れずにただ、見ることが出来れば、その時、その気づきがその質を変えます、それは自然に起こります。するとその時、そこに全てがあります。ですが、これは極端に難しい。途方もない忍耐力、注意力、そしてしなやかさを必要とするからです。何故なら、人は楽を好むからです、とても性急だからです。ですが、これが唯一の生なのです。
>>[146]
「どのように」
と書きました
「どうやって」
ではありません

意味がおわかりですか?
どのように
これは方法ではありません
>>[146]
「見るとは、どのような状態か」
なら
わかりますか?
>>[145]
切実感は気づくものではありません。それは起こるものです。人が現実、あるがままのものに気づき、それを十分に見ることが出来れば、それと共に生きることが出来ればそこに、生じます。もし、あなたがそうすることが出来れば、それが事実だとわかると思います。
>>[149]
では
切実感は
どのような状態で
起こるでしょうか?

また
あるがままのものに気づいている
とは
どのような状態でしょうか?
ちなみに
ご存知かと思いますが
クリシュナムルティはそれについて
もう少し言葉を重ねて
話していますよね?
切実感は気づき、見ること。十分に見ることに起こるものです。ですが残念なことに私達は客観的に見ることに慣れてしまっています。ドキュメンタリーを見るように。すると、そこに思考、考えが浮かび、そこから行動しようとします。それで、そこにあるのは直接ではなく、思考を基盤とした行動です。それは上手く、都合よく、無難にが含まれます。これが実際に私達がしていることではありませんか?その事実に気づき、それを見ること。それがあるとこその状態が訪れます。それはあなたが実行するときその状態がわかります。それは言葉で描写出来ないものです。
端的に言うと生きていると意識した瞬間から死や苦しみが発生する、こういう事でしょうかね

その生きてると意識した瞬間と言うのが
言葉を覚えた時だと思うのですが
これも端的に言えば
生命も言葉でしかなく本来は生きていると言う現象は起きていない、言葉によってのみ生きていると言う現象があるかのように思わされている

この場合、動物の鳴き声と言葉の境い目をはっきりさせないと「生きている」と思っているかどうかの判断が出来ませんよね?
言語と鳴き声は同一線上にあるものなので
動物も危険や安全を鳴き声で知らせますし
虫や草花も揮発性ガスのような物質でコンタクトをとっている
風も流れる向きは温度湿度で決まる

ここに意識や意思はないのでしょうか
これらを完全に無視して人だけが思考していると決めつけるのは難しいのかなと思います

森羅万象の一環であると気付き森羅と接続出来るようになる
これが思考の前にあるのか後にあるのか
それとも、今現在進行形で森羅万象の一部としての役割が今の人類の立ち位置であるのか
ならば苦しみからは逃れられないし
記憶や過去に苦しむのも必要な現象なのではないでしょうか

あるがままなのが現在であり
生きていると信奉していなければこの世界で存在できない状態である

これと草花との境界線がないのであれば
人は現時点で草花とかわらないし
草花と人は同列である

逆に言えば人は生きていないし思考していない
こうなりませんか?

>>[153]
「十分に見ること」

客観視とは違うこの体感を
別の言葉で
表すことはできますか?
「どうやって」
ではなく
「どのように」
見るのでしょうか?
ちなみにご存知かと思いますが
クリシュナムルティは
もっと別な言葉で描写していますよ?
全存在で気づく

と、言う時
例えば
目も、リアルの視覚も使っています
全存在で気づく

と、言う時
例えば
耳も、リアルの聴覚も使われています
全存在で気づく

と、言う時
例えば
鼻も、リアルの嗅覚も使われています
全存在で気づく

と、言う時
例えば
皮膚も、リアルの触覚も使われています

>>[141]
人は社会の中に混乱を見るとき、それをどうにかしたい、変えたいと考えます。そして、それをし続けてきました。それは歴史を見れば容易に分かります。その結果が現在です。つまり良くしようとしてすることは単に混乱を増やしただけでなく複雑にして来ました。これが事実です。それで、変えようとする前に、まず自分自身を知ることが必要ではないのか?と私は言いたいのです。と言うのも、自分の能力、構造、性質を知らずに無闇にただ変えようとすることは適切な行動を産み出すはずがないと確信するからです。ですから、これが最初になされなければなりません。そして、これが唯一の行動です。これが事実ではありませんか?
全存在で気づく

と、言う時
例えば
思考も使われています

全存在で気づく

と、言う時
例えば
手指や足、歯の技術も使われています
全存在で気づく

と、言う時
例えば
視界の全ても使われています
それは目と視覚と一繋がりで離れていません
>>[162]

私の知る限りの歴史の中では、人類が社会に問題を見つけて改善をしてきたと思っていません
数々起きてきた革命や改革は後世から観測して転換点と分かりやすく、解説しやすくタイトルをつけているだけで
前後何百年という長い年月をかけてじんわり変化しているだけだと思っています
人が関知できる変化は気付かないうちに起きているものだと思います

自分自身とは一体何をさして自分だと信じていますか?
自分という存在が実際にあると盲信していませんか?
それも自分という存在を定義付けて仮定しているだけですよね
自分という存在が思考しているのは
自分の知識からでしょうか
自分の知識というのはどこにあるんでしょうか

歴史を見れば容易にわかるのは
自分という存在は歴史の中の一部分であり社会と契約をして社会の一部となり生きていく事
契約する相手が神やエネルギーという存在なのであればそれは宗教と呼ばれる
何かと契約して個人と認められなければ
「個」自体が存在し得ない

エントロピーの増大も観測点をどこに置くかだと思います
ホッブスの話しになりますが
自然状態では財産を守る為に人は暴力を行使する自由がある
社会状態に突入すると暴力は禁止されるが複雑な社会ルールにより財産が社会により守られる
これを単純になったと考えるか、複雑になったと考えるのか
またどこまでを自然状態とするのかではないでしょうか
全存在で気づく

と、言う時
例えば
聞こえている聞こえてくる音の全ても使われています
それは耳、聴覚と一繋がりで離れていません

全存在で気づく

と、言う時
例えば
触れている全ても使われています
それは肌、触覚と一繋がりで離れていません
全存在で気づく

と、言う時
例えば
記憶の全ても使われています
それは今と一繋がりで離れていません

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