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正教会の今後を語るコミュニティコミュの痛悔機密の重要さについて

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痛悔機密を未だ簡略化,時間短縮しているケースも見られる様です。領聖の喜びは大きいですが,聖体礼儀直前の領聖の為の痛悔という感じになると真の意味での領聖準備が出来ないのではないかと私は思います。痛悔は大事な機密であり,主と向かい合って心を開いて主にお話し出来る場で,立ち会ってというかその間を取り持ってくれる筈の司祭に悩み相談したり,アドバイスを受ける場所ではないと私は考えています。

皆さんの真摯なお考えをお聞きしたいと思います。

コメント(11)

私も日曜の聖体礼儀前の痛悔はかなり形骸化していると感じます。自分の後ろに人がたくさん並んでいるのをみると、とても自分の心を開いて主に向かい合うことはできません。ロシア正教会の伝統だと聞きましたが、ロシアの伝統を踏襲しているアメリカ正教会(OCA)では痛悔は義務ではありません。むしろ自分が心に何かを抱えているときに司祭に連絡して、臨機応変に対応してもらっています。時には1時間くらい話し込むこともあります。
痛悔は信仰生活にとって本当に大事なことだと思うので、現在の日本の状況を考えるとどうしても疑問を抱いてしまいます。
多少,誤解が生じる可能性もあるかと思いますので追記しますね.このトピは個人的な痛悔機密に対するお考えをお訊きしたいのであって,日本正教会の現状に疑問を抱くという展開を希望していません.こちらのコミュの主旨である「今後のあり方等 前向きな話し合いをしたい」という管理人さんのご希望に添うよう願います.

>ミホさん
日本正教会の現状を余り深くご存じないのかも知れませんが,日本人の司祭へもその旨お伝えすれば時間の長さに関わらず,お話しして下さる神品も居られます.但しそれが痛悔機密として行われるべき事なのかは私としては疑問です.神品も人間でありながら神の品物ですからその辺りを考慮して体調が思わしくない司祭に無理に立ち会って戴くのも,信徒としても思いやりに欠けてしまう可能性も大だと思います.
OCAに限らず,痛悔が義務ではないのは当然の事ですが,痛悔の場で司祭と話し込むという点では本来の痛悔とは方向性が違って来ますから,OCAがそれを行っているとすれば問題ですね.痛悔機密とカウンセリングを混同するのは如何なものかと思います.OCAは所詮アメリカですので日本人の微妙な心理を理解してのカウンセリング(痛悔とは別物と私は思います)を出来ると思えませんが.ミホさんと主の間での極めて個人的な内なる会話を重視して再度,納得の行く痛悔機密に望める良い機会になれば良いのですが...至聖三者の御名に因りて,より開放感溢れる痛悔機密に授かれる様お祈りしております(-人-)頑張って下さいd(゚ー゚*)ネッ!
>しいさん
少々日本正教会にとって批判的な文章になってしまったようで、スイマセンm(_ _)mOCAでは特にカウンセリング的なことは行われてないと思います。人々も痛悔をカウンセリングの一環として扱ってはいません(そういうものを求める人も少なからずいるかもしれませんが…)
痛悔をする際に、「端的に要領を得た内容」にしようと思うのですが、なかなか言葉がでてこないことが多々あります。痛悔の捉え方は人それぞれなのかもしれませんが、「正教的な痛悔」とはどういうものであるかを知る機会があればありがたいです。
日本にも痛悔専門の司祭がいればいいですが。。。

痛悔はいつでも受けることが出来るとありますけれど、
やはり平日などに伺って痛悔させて下さいとは言えないという遠慮が自分にもあります。(そんなことを思うようでは、ダメですね(>_<)

確かに主日の痛悔では多くの方が受けられますし、司祭が一人の場合は、痛悔が済まないと祈祷が始まらない訳で、そのため簡略化されてしまっているのは事実でしょう。(時間短縮というのもあるのかも知れません。)
また司祭に何も話さずに跪き、解罪をして頂いているケースもありますから、本来の痛悔が行われているとは言えないでしょう。

痛悔は罪の告白ですね。
手短かに形式的な言い方をするとか要領よくまとめられたものは
心の深淵から許しを求めているものでしょうか。

人によっては告白が不器用で、前置きが長くなることもあるでしょう。
悩みを言ってしまう部分もあるかも知れません。
人間は思い悩みしているうちに、多くの罪を犯すもの。
それらの結果、このようなことで罪を犯した、と話すことは
何もおかしいものではないと思います。
まして「時間がないのに話し込んで、困った人だ」なんて思うことすら
既に心の中で罪を犯していますね。
「かくかくしかじか、どうしたらいいでしょうか?」というのは
痛悔ではなく相談ですから、やはり別な機会にするべきですね(^^;)

立って居られる司祭は、その権に基づき罪の許しを成す神の道具だけにあらず、
福音と使徒規則に基づいて、道義的な責任も負っています。
私たち信徒が生活の中で犯した罪から改心するよう、
また神の許しと恩寵が与えられて、
聖なる者へと導く義務も負っています。

告白の後、ただ聞いてくださるだけでなく、
福音や聖人の言葉で教示するとか、
共に祈ってくださるとか、
はたまた人生の先輩としてのアドバイスをしてくださるか
司祭の応答も様々です。

今一度、痛悔の意味をみんなで問い直す必要はあるでしょうが、
現状ではどうなるでしょうか。
私の教会では痛悔・領聖は参祷者のほぼ全員がしています。
告白をしなくても解罪をしてくださいます。
(皆、罪を告げずとも、心の中では罪を思い、
悔い改めの気持ちは十分に起こっているハズ。)

司祭のほうも斎をしてくれば、「痛悔出来ますよ。」と勧めますし、
「特になければどうぞ」と跪くことを促される場合もあります。
本来の意味から言ってあるまじきことなのでしょう。

告白しないならば痛悔しないという個人の意思表示も必要か。
(うーん、必要なんでしょうねぇ。)
でも、告白がないならあなたは下がりなさいと、
お断りする司祭もいないですよねぇ。

どうなっているんでしょう。
長くなったので別枠にしましたが、
私個人としては痛悔・領聖なくして今の生活あらずですね。
痛悔がなければ神様を離れ、家族を思いやることもなく、
自分勝手に生きていたことでしょう。

神様へ罪深き自分をさらけ出すことで、
こんな私でも生きていける。
神様の許しがなければ救われないと強く求めること、
涙を持って痛悔したことは多々あります。
それでも同じ罪を繰り返しているわけです。
正教会の痛悔のことが知りたいのであれば、聖ピーメンの人生とその教えを読んで見てはどうでしょうか。

私自身も今一度神父様と痛悔について伺う機会を持ってみようかと思います。

>ミホさん
最近はこのような機会を得て、たくさんの方と教会についても話し合うことが増えてきましたが、その反面、教会の実情をさらけ出し、批判する結果にも成りうる訳で、残念でもあり、自分も痛みを受けます。
今ある現状をどうするかも大事な問題ですが、
話せば話すほど、黙して祈りたくなるのが私の本音です。
とはいえ、今はどうも過渡期に入りつつあるような感が
ありますね。
教会でも各分野において話し合う機会も確かに増えてきています。
(これはいい傾向ではないでしょうか。)
日本正教会は世界においても、まだ若い教会なのですから、
前進的に行きましょう。
それにはまず根本を知ること。
私たちの元に渡されたものは、使徒時代から確かにつながる輝くもの。
日々修練することが私たちにも求められているんですよね。(^o^) ヤレヤレダー
>nikoyuriさん
痛悔専門の司祭って,,Σ(゚∀゚*)!!
確かに神品の中には得手不得手があるかも知れませんが,各々より精神性を高めて戴き,務めを果たせる様になって戴けることを期待しましょう.それと同時に私達も痛悔に因って準備をしてご聖体を受ける事が出来る様にしたいものです.

ただ本当に告白する事がない方も居られるかも知れません.それは私達には計り知れない極めて個人的な事になるので,それについて言及するのは,避けたいと思います.誰もが必ず罪を背負っている訳ではない筈ですから.

告白にした内容に,指針となる様な福音の一文や聖人伝を引用して下さる神品の方も居られますね.それは後に大きな支えとなるでしょうし,次の生活に繋がる糧となるでしょう.告白に対して,共に泣いて下さり,共に祈りましょうとだけ言って下さった神品には心から感謝して痛悔機密を終える事が出来た事もあります.しかしそれは矢張り主日前の痛悔でした.

諸教会で話し合う機会を設けて戴ける事は有り難い事です、頑張ってくださいヽ(´ー`)ノ

……とか言ってると何処かから,再び
「お前がやれ」という声が聞こえて来そうです(;゜∀゜)
ごめんなさい(-人-)
痛悔機密の重要さについて

一般的には痛悔機密と呼ばれていますが、聖事経では告解礼儀でした

現在、痛悔機密と領聖が一体となっているので 本来の痛悔機密が見えずらくなっている気がします

告解礼儀の祈祷文を改めて見ました
祈祷文の教戒に

爾今より一切此を慎むべし、ハリストスの教会の機密を以て
第二の洗を領くるが故なり、爾は是より神の助に因りて善き始を立てよ……

とあります
つまり、授洗後 神を離れ 再び 御元に帰るとき 受けるのが 本来の痛悔機密だと思います
放蕩息子が帰ってきたときのように

だから 領聖前に受ける痛悔機密という視点で考えると本来の痛悔機密が見えなくなってしまうように思います
痛悔機密はいつでも受けることのできる機密です
日々の出来事の相談ではなく、人生の大転換・回心等の時受ける機密ではないかと思います

私たちは日常生活で主の意志とは反する行い、思いが多々ありますが、罪人である 罪人である という生活よりも
主の教えに基づいて この世でどのように生きるのか それぞれに与えられたタラントを活かすのか の視点が大切と考えています

本来の痛悔機密 歴史を見て、世界の正教会の痛悔機密を見ると理解の手がかりがありそうな気がします

私は飛行機に乗れないので、世界の正教会の実情がわかりません。体験した方は教えて下さい。

★皆さんと このようなことについて 意見交換ができるのはすばらしいことと思います
聖書の中における悔い改めと赦しのお話としては
神の国と披露宴の話、ファリセイと取税人、エジプトの聖マリア、放蕩息子や100頭の羊のたとえがそうでしょう。

また痛悔すなわち告悔機密というのは、
歴史の中で起こった出来事に関連しても発達してきたようです。

ご存じのように3〜4世紀のキリスト教迫害時に信仰を捨てた者や、異教に従う者などが続出したことは歴史的背景からもわかります。。
教会、信徒は苦しい時代を耐え、国教としてようやく認められた後、再び教会へと戻ってきた者たちに対して、何らかの機会や決まり事を用意しなくてはなりませんでした。

信仰を貫き通した者の内にも、離れていった者たちを再び受け入れるか否か、また受け入れるとしても第2の洗礼のようなものを用意するべきとの議論も行われてきました。
結果的には教会に背を向けたことを改心して、
再び神の元に戻るとして痛悔の祈祷が設けられました。

そして時代の流れと共に、全信徒の生活の中に、
自らの犯した罪を認め許しを求めるというものが
祈祷の中に組み込まれてきました。

古代教会では告悔機密の際、全聖詠が読まれました。
現在、50聖詠が読まれるのはその名残だとされています。

>しいさん
>痛悔専門の司祭って,,Σ(゚∀゚*)!!
教会史によると古代でも痛悔司祭がいなかったことの対処として、近隣の修道院長にその任が託されていました。
16世紀あたりにもなると長老的な司祭がこの役目をおいましたが、単独的な痛悔は修道院以外ではなかなか普及されるのが困難だったようです。(古代教会では、痛悔はしばしば公衆的に行われ、個々の痛悔を行うことは論争ともなり、
現在の形に収まるまで長い時間がかかりました。
公衆的ということは、背教者が全信徒の前で罪の告白をして、聴衆がその者が再び神と教会へ戻ってきたことの証人になったというものです。)

現在でも痛悔司祭としての役割をになう司祭がいますが、
主に修道司祭により行われています。
長い期間専属としてというよりも、修道の中で様々な役割を割り当てられるというもののようです。

現在の祈祷は18世紀の省略編纂されたものとか。
手持ちの資料などから、提示させていただきました。
機密の歴史的形成の背景を知ることもいいのではないかと
思います。

ロシアの古い聖事経や奉事経など読めるといいんですが〜。
詳しくお知りの方がいれば是非。

痛悔の機会については、
領聖感謝祝文においてはこのようにありますけれども。

「主宰ハリストスや神万世の王万世の造者や、およそ我に賜いし所の諸善、かつ至浄なる生命を施すの汝の機密を領けさせ給いしを汝に感謝す。
また汝に祈る、至善にして人を愛するの主や我を汝が庇いの下に汝が翼の蔭に護り、我に呼吸の絶えんとするに至るまで潔き良心をもって当然に汝の聖体聖血を領け、もって罪の赦しと永世を得るをいたさせ給え。
けだし汝は生命の糧、聖をなすの泉、諸善を賜うの主なり。我ら汝と父と聖神に光栄を帰す、今も何時も世々に。」「アミン」(第二祝文 聖大ワシリイの原文)
>仙人師

>私たちは日常生活で主の意志とは反する行い、思いが多々ありま>すが、罪人である 罪人である という生活よりも 主の教えに基づいて この世でどのように生きるのか それぞれに与えられたタラントを活かすのか の視点が大切と考えています

同感です.これが正教会の基本であり素晴らしさであると思います.但し、それをどういう形で表すかという事も課題になると思います.そこに至る過程においても痛悔機密は重要な機密だと思うのです.これをおろそかにしてしまうと聖体礼儀自体が危うい方向に行ってしまいそうな気がして怖いです.

>nikoyuriさん
ご説明、ありがとうございます.日本では限りなく無理に近いという意味だったんですが;

そういえば修道司祭が行っているかどうかという点では世界総主教庁での晩祷や聖体礼儀は修道院が併設されている場所で行われる事が多かったのでそうなのかも知れませんが現状がそうであるかどうかは不明です.そのお話からするとそうなのかも知れませんが,実際に修道院が併設されている教会での祈祷時は修道士修道女はかなり隔離された場所にいたので、痛悔も一般の信徒とは別な対応になっていたのかも知れません.領聖も又別な場所で行われている様でした.見てはならない,近づいてはならないという雰囲気を感じていましたから詳しくは判りませんが.,,
そこでは領聖する一般信徒さんは限りなく少ないです.普段いつでも受けられると思っていた痛悔機密及び領聖に対して、改めて重要さを感じ、極めて厳粛なものである事,更なる喜びに繋がる事を再認識しました.仙人師が書かれている,告解礼儀の祈祷文の教戒に通じるものを感じた次第です.

個人的な話になりますが、私には身体的障害があって,痛悔機密だけを受ける機会が多く領聖に至る迄の道が遠いのです.その為に痛悔機密は私にとってはかなり重要度が高いものとなりますのでこの様なトピを立てさせて戴きました.貴重なコメント有り難うございました.
今日始めてこのコミュに来て一気に読んで久々に安心をしました。
私が感じている日々の事に光が見えた感じです。

痛悔機密。
ロンドンのロシア正教会(エニスモアガーデンズ)では聖体礼儀とは別に考えている様です。
痛悔を受けていなくても御聖体は受けられます。
特に聖歌隊は2階のバルコニーで歌っていますので下に降りて御聖体を受けるのは全員と言うわけにはいかないのです。
また御聖体を受ける聖歌隊員はすぐに一番前のほうに送られて御聖体を受けられます。
また痛悔機密も申し出れば時間を作って下さいます。
言葉の壁が大きくてまた私自身だんなの病気という大きな問題を抱えているので痛悔をしたいのですが未だにこの教会では出来ていません。
・・そうして5年が経ってしまいました。
その間日本にいる機会も多くありましたのでその際山盛りの痛悔をしてきました。
・・・感謝でした。
でもやっとその踏ん切りがつきそうです。
痛悔をしてこようと思います。
ここに生きているのですから。

感謝!!
こんにちは
聖体礼儀のない晩祈祷のような奉神礼のときに痛悔機密をお願いすることはしばしばあります。
そのときは予め司祭に連絡してますが。
教会から距離のあるところにお住まいの信者さんは、聖体礼儀と分けた痛悔を希にされているみたいです。

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