久々の日記である。
実は丁度、異動の時期でドタバタしているトコロ……と、云っても僕自身は昨年の今頃、福島から復帰したばかりで予定通りの異動にはならず。
それで結論から云えば、今年の異動で、長らく復帰できずにいた課に戻ることとなったので、そっちの準備でドタバタしている。
ただウチの会社では珍しく、自身の希望する課に復帰できるというだけで万々歳なのだ。
よって、多少忙しいのは気にならぬ、と云ったところである。
それで先日書いたとおり、シンエヴァを見てきたので感想を書き残しておこうと思う。
周辺やネット等でも感想解禁しているみたいだし、先日はNHKで庵野監督特集とかもしていたので丁度良かろうかとも思う。
とは云え、ネタバレ迷惑の人も居るかも知れないので、一応、行数を開けておこうと思う。
それで結論から云えば、面白かったと思うし、多くの感想と同じ感情として、終劇の二文字に安心と納得を得たクチである。
個人評点としては70点、オススメ度は相手次第かと、今までエヴァを見てきた人は見るべきだと思うし、コレ単体ではナンの価値も無いからナァ。
劇場版のみを視聴している人で、最低でも興味を失っていないのなら見ても構わないという程度。
その上で詳細な感想。
ぶっちゃけキャラクターにまつわる問題点については概ね解決されていると思う。
ただ物語の根幹に関わる世界の謎についてはまったく説明されていないのも事実なんだけど、そこはそういうモノだ、頭を殴られたら痛い、火薬に火を付ければ爆発する、シンジが頑張ったらなんか世界が救われた、これらは全て同質で誰もが知っている当然の現実である、と納得しなければいけない。
まぁ、25年も付き合っているので、エヴァの世界はそういうモノとして、細かいトコロは考察出来る人に任せることにしている。
それで今回の物語の流れについて、基本的には主人公は成長を遂げて輝かしい未来を歩き出す、世界も絶望に満ちた気持ちの悪いモノから、最低でも訳のわからない使徒という存在のいない常識的な世界に落ち着く。
世界が脱皮を果たした、使徒やらエヴァやら救済やらといった異様から抜け出す事のできた理由は、主人公シンジを含めて、仲間達やその周囲を取り囲む大人達が、世界の中心を貫く理不尽に対して立ち向かっていった結果である。
と、抽象的に描けばこれだけの話しであり、あとは細かい設定や見せ方に差異がある程度で、エヴァンゲリオンがこうであってはならない!! と猛烈に思う人達にすれば裏切りの物語にしかならないとは思った。
実際、否定派のコメントを残している人達からすれば、今までやってきたことの繰り返しであり、古い価値観の反映である、監督は還暦まできて丸くなった……色々と指摘をされている。
確かに、物議を醸したテレビ版の終わり方、あの展開については未だに議論があり、当時は打ち切りの結果であるかの様に云われていた。
この後、1~2クールの物語があったかのように書かれていた媒体もあったのを覚えている。
これについて調べたところ最初から全26話だった、という指摘もあるのだが……監督の性格を考えた場合は語られる事のない物語……真実は藪の中と思っている。
ただテレビ版は26話の真ん中辺りに総集編が入っており、これが打ち切りだったとすれば位置が不自然であると当時から思っていたワケで、本来からして26話だったとすれば納得のいく構図になる。
だとすれば、本来のテレビ版25・26話は、人間によるネルフ襲撃、エヴァで反撃、ゲンドウの裏切りで人類補完計画が進むも、シンジが前向きになることで世界を本来あるべき現実世界に収束させることになる。
という展開になる内容だったのだろうと考えられる。
実際、当時の旧劇場版はテレビ版の25・26話と展開がリンクしており、内面世界のみを描いたテレビ版と、表面世界を描いた劇場版という表裏の物語として受け止められた。
ただテレビ版以上に劇場版にも問題のある表現が用いられており、最終的には期待され求められていた終結を意図して描かなかった。
当時、テレビ版から劇場版を見た人達は様々な声を挙げた。
書店には考察本が溢れていたし、著名な作家、漫画家達が所属する会社も違うのに単行本の中で様々な感想を堂々と残していたのを覚えている。
その中で私が未だに覚えているのは、確か、和月伸宏氏だったか……この人(監督)は自分のキャラクターが嫌いなのだろうと思った……みたいな事を残していた気がする。
当時学生だった立場からすれば、キツい感想だ、とは思ったのみで共感はしなかったのだが、それから25年も過ぎればナニを云いたいのか理解できる程度にはなった。
それで当時の監督は色々と追い詰められていたとか、様々云われているがこの辺りも藪の中も話しで私には真偽を見極める術を持たない。
旧劇場版のラストは、人類補完計画を企図したゼーレや、それを利用しようとしたゲンドウの願いとは裏腹に、最も他人とのコンタクトに不安を持っていた主人公シンジが、他人とのコンタクトが必要な世界を望むという展開である。
これだって肯定的に見ればイニシエーション(成人式)を経て社会に出るという儀式に該当する展開であり、これをくぐり抜けたからこそテレビ版のラストで主人公は「おめでとう」と祝福されているのである。
主人公は内面世界での葛藤を乗り越えたのだから、表面世界、つまり旧劇場版でのラストで彼は彼自身を肯定していないといけない筈である。
にも関わらず、崩壊したままの世界で隣に寝転ぶアスカの首を絞める。
この行為について当時から云われていたのは、人との境界が復活した世界で生きるのが可哀想だから終わらせようとしてあげた、というものである。
つまり主人公自身が、主人公自身の望んだ世界を、即座に否定しているわけだ。
当時はコレがどうしても納得いかなかった。
まぁ、今からすれば、内面的に納得がいったところで、自身の行動に100%フィードバックする事がないのは判っているし、現実世界に躓きながら何とかやっていくしかない、という監督の態度だったのか……、くらいには……正解か否かの自信はないものの……考えられるようにはなった。
ただテレビ版で本来の映像が作れないとなり、あの25・26話になったという精神状態から、結果として物語の注目度が上がって劇場版作成に至ったとしたら。
あの狂騒の中で「じゃあ作ってやった」のが旧劇場版だったのだろう。
そして旧劇場版は、本来の物語の骨子を歪めることなく、もの凄く丁寧に生み出された忌み子であり、最後に華々しく蹂躙されることで、惨禍に塗れた芸術品に成り果ててしまったのだと解釈している。
それでは劇場版で監督の立ち位置は変わったのか、と云われると否である。
そもそもテレビ版の時点で、内面世界ではあるが、主人公シンジは様々な葛藤を乗り越えて、全ての関係者から祝福を受けている。
今回の物語を安易なハッピーエンドに逃げたかのように指摘しているが、主人公が長々と苦しい目に遭い絶望に塗れるも、最後は人の可能性を信じて他者の存在を肯定して世界に対して前向きになる、というコンセプトはまったくぶれていない。
問題は旧劇場版の、その後の絶望的な描き方であり、もしもエヴァの呪いというモノがあるとすれば、ただひたすらにあそこで産み落とされて蹂躙された忌み子の存在につきると思う。
監督自身は多く指摘されている様に、比較的明確な価値基準を持っていると思う。
ナディアでもエヴァでも、科学技術の発展を前向きに捉えているし、人との絆について常に啓蒙的である。
特にナディアの公式キャラクターソングでは、
人は一人で生きていけない、
自分の信じた道を進むのが大事、
さぁ、勇気を出して。
という歌詞が存在する(30年くらい前の歌詞だからうろだけど)。
物語上でもサンソンが……人は一人では生きていけないからな……とか云っている。
そう考えると、今回の物語は最初に描いたコンセプトを監督が正面から真摯に取り組んだ結果そのものであり、前回の劇場版が蹂躙されるために生み出された忌み子であったとすれば、今作は祝福されるべくして生み出された御子であると受け止めることができる(そして本来のテレビ版で描かれる筈であった結末だったと考えている)。
実際、物語を正面から肯定的に受け止めた人の感想は、謎やらナンやらは兎も角、納得しているのが判る。
逆に忌み子の蹂躙がエヴァの監督の本質と捉えている人達からすれば、爽やかな成長物語は裏切りであり、悪魔の仕業という事になるのかも知れない。
25年を過ぎてようやく、本来のテレビ版、最初の本編で描くべき点に収束した物語、それが今回の映画の本質であると思う。
今回の映画の副題に、音楽記号で元の位置に戻る、というものが用いられているらしいのだが、僕はこれについて、25年の遠回りを続けて、最初に描こうとした本来の終結点に戻る事を意味しているのではないかと受け止めている。
まぁ、肯定的に描いているが、3作目のQはそれでも非道かったと思うし、まだまだ云いたい事は山ほどあるのだが、それでも納得は得られた、それは間違いない。
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