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2020年08月08日00:34

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8月8日の日記

今日の出来事:1584年−蟹江城合戦、1588年−アルマダの海戦:スペイン無敵艦隊がイングランド艦隊に敗北、1911年−稗田山崩れ、1942年−フロリダ諸島の戦い:日本軍守備隊が玉砕、第一次ソロモン海戦、1945年−筑紫駅列車空襲事件、福山大空襲、八幡大空襲

今日は、蟹江城合戦です。蟹江城合戦は、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の間で行われた戦いです。「小牧・長久手の戦い」以降、尾張北部の戦線は防御陣地の構築により、膠着状態に陥りました。徳川家康は清洲城、織田信雄は桑名城、羽柴秀吉は大坂城に帰還していました。尾張北西部では、羽柴軍が美濃の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を大軍で囲み、「竹ヶ鼻城水攻め」などで順次攻略しましたが、徳川家康は清洲城から動きませんでした。尾張南西部では、羽柴秀吉が出家していた滝川一益と嫡子・一忠をそれぞれ3千石、1万2千石で起用し、諸城攻略を命じました。その頃、蟹江城主・佐久間正勝は織田信雄の命により伊勢国の萱生に砦を築くため、蟹江城の留守を前田城主・前田長定に預けていました。蟹江城は、清洲城から三里の場所に位置して三重の堀と、大野城・下市場城・前田城の3つの城と連携していました。当時、蟹江は海に面しており、熱田、津島と並ぶ尾張有数の港でした。前田長定は秀吉陣営の調略を受け入れて、同時に弟・長俊の下市場城と長男・長種の守る前田城も秀吉陣営となりました。大野城の山口重政は調略に応じなかった為、滝川一益と寝返った九鬼嘉隆は城攻めを行って陥落寸前まで追い込みました。蟹江城落城の報せを聞いた徳川家康、織田信雄は大軍を率いて蟹江城に急行しました。陸路を断たれた滝川一益軍は海上経由で蟹江城に、九鬼嘉隆軍は下市場城に逃れて籠城しました。徳川家康は大野城に入城しました。7月25日、下市場城が落城して前田長俊が討ち取られました。7月26日、「舟入の戦い」で九鬼嘉隆が敗北し、織田・徳川陣営による海上封鎖が完成しました。7月28日、羽柴秀吉が美濃から近江・佐和山城に移りました。7月29日、蟹江城を包囲し、南方から酒井忠次、北方から大須賀康高、西方から織田信雄、東方から服部正成が城を攻めました。7月30日、前田長種の守る前田城が落城しました。8月5日、和平交渉が開始されました。8月8日、和睦により織田・徳川軍が蟹江城を奪還し、退去中の前田長定が殺害されました。滝川一益は伊勢に逃れました。羽柴秀吉は、伊勢に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集めて尾張の西側から総攻撃を計画していましたが、間に合わずに中止となりました。羽柴秀吉は、「小牧・長久手の戦い」に続き、「蟹江城合戦」でも主戦力の投入に失敗し、これ以降攻勢にでませんでした。この戦いで、前田本家・尾張前田氏は城主と城を失いました。前田城を守っていた前田長種は、妻の実家である前田利家を頼り、二代目藩主・前田利常の養父となりました。

次に、アルマダの海戦:スペイン無敵艦隊がイングランド艦隊に敗北です。スペイン王フェリペ2世は侵攻を決意しました。無敵艦隊はリスボン港を出港して英仏海峡へ向かいました。艦隊は船130隻、水夫8000、兵士18000から成り、真鍮砲1500門、鉄製砲1000門を装備していました。艦隊は正規の軍艦を28隻含んでいました。更に小型船34隻が随伴していました。この作戦には合計55000の兵士が動員されました。迎え撃つ女王・エリザベス1世のイングランド艦隊は、王室所属船34隻と臨時に集めた163隻の武装商船で編成されていました。イングランド艦隊は攻撃を実行するために無敵艦隊の風上に針路を変えて、有利な位置を占めました。夜明けと共にイングランド艦隊が無敵艦隊の右翼後方から接近し、砲撃を加えました。その後、イングランド艦隊は左翼後方のビスケー湾船隊へ攻撃を加えました。船隊司令・リカルデ提督の乗艦サン・ファン号とエル・グラングリン号の2隻がイングランド艦隊の攻撃の矢面に立たされました。2時間ほど双方の砲撃の応酬の後に、メディナ=シドニア公の援軍が駆けつけたためハワードは後退を命じました(プリマス沖海戦)。戦闘後、スペインのガリオン船サン・サルバドル号が爆発事故を起こして炎上、続いてアンダルシア船隊司令ペドロ・デ・ヴァルデスの乗艦ヌエストラ・セニヨーラ・デル・ロサリオ号が衝突事故を起こして行動不能に陥りました。メディナ=シドニア公はやむなく両船を遺棄しました。サン・サルバドル号は主計総監と金庫を載せた会計艦であった為、その放棄はスペイン側の士気を甚だしく低下させました。イングランド船は優勢な速度と機動性を生かし、丸一日かけてスペイン船に追いつくため帆走しました。そして、イングランド艦隊は逆風の中で果敢に攻撃を敢行しました。ハワードの本隊と無敵艦隊が激しい砲撃を交わす中、北方へ突出したフロビッシャーの船隊と聖ヨハネ騎士団の騎士ウーゴ・デ・モンカーダが率いるガレアス船隊とが交戦し、フロビッシャーは巧みな操船で翻弄して大損害を与え、ガレアス船は帆船に敵わない事を証明しました。ハワードは苦戦しましたが、午後になって風向きが有利に変わるのを待っていたドレークが参戦して、イングランド艦隊は逆襲に転じました。激しい砲撃が交わされましたがスペイン船の砲撃は届かず、イングランド船のカルバリン砲は有効な打撃を与えられませんでした(ポートランド沖海戦)。東に移動した無敵艦隊は、パルマ公の軍隊からの知らせを待ちました。イングランド艦隊はフロビッシャー、ハワード、ホーキンスそしてドレークの4つの集団に分かれて、全面的な攻撃を仕掛けました。戦いは、フロビッシャー、ハワードが敵と砲撃を交わし、ホーキンスとドレークは風向きが有利になるのを待ってから側面攻撃を仕掛けました。この戦いでもスペイン側の砲撃は届かず、イングランド側の打撃力が不足している事が明らかになりました(ワイト島沖海戦)。無敵艦隊は密集態勢の半月陣形でカレー沖に投錨しました。イングランド艦隊は樹脂や硫黄、火薬そしてタールを満載した火船8隻を風下に位置し、密接して投錨している無敵艦隊へ向けて送り込みました。2隻は途中で捕らえられて曳航されましたが、残りは艦隊に突っ込みました。メディナ=シドニア公の旗艦と主な軍艦は位置を保ちましたが、残りの船は錨を切って混乱しながら分散してしまいました。ナポリ船隊司令ウーゴ・デ・モンカーダの乗るガレアス船サンロレンソは混乱の中で事故を起こして行動不能に陥ってカレーに座礁、ハワードのアークロイヤル号がこれを攻撃して乗組員や漕ぎ手奴隷との死闘の後に捕獲され、その残骸は最終的にイングランドとフランスが入手しました。炎上したスペイン船はありませんでしたが半月陣形は崩され、そこへイングランド艦隊が迫っていました。英仏海峡での小競り合いによって、イングランド人は無敵艦隊の戦力と弱点を学び、スペイン船のオーク材の船体を貫通するには近距離に近づく必要があると結論付けました。サン・マルチーニョ号には、まずドレークの船隊が攻撃しましたが、短い砲戦を交わしただけで針路を変えて去り、代わってフロービシャーの船隊が無敵艦隊の旗艦に襲いかかりました。サン・マルチーニョ号は集中砲火を浴びて大きく損傷しましたが、やがて他のスペイン船も救援に駆け付けて無敵艦隊は陣形を再編しながら戦闘に入りました。イングランド艦隊は優勢な機動性を用いて、無敵艦隊に射程距離外から発砲させて砲弾を消費させて砲弾が尽きたところで、イングランド艦隊は接近して繰り返し発砲して敵船に損害を与えました。これによって風上を維持する事ができ、傾いた無敵艦隊の船体は喫水線下を敵の攻撃にさらす事になりました。そして、無敵艦隊の陣形は崩れ始めてフランドル方面へ敗走しましたが、激しい土砂降りの嵐となり、イングランド艦隊は攻撃を取り止めました(グラヴリンヌ沖海戦)。スペインのガリオン船サン・マテオ号とサン・フェリペ号は沈みかけた状態で漂流し、浜に座礁してオランダ人に捕獲されました。ガレアス戦隊旗艦のサン・ロレンソ号も座礁して拿捕され、戦隊司令官のモンカーダ提督は戦死しました。更にキャラック船1隻がブランケンベルグ近郊に座礁しました。その他のスペイン船の多くも損害を受けており、一連の海戦によるスペイン船の損失は11隻でした。エリザベス1世は兵を鼓舞するためティルベリーへ赴き、最も有名になる演説「ティルベリー演説」を行いました。無敵艦隊はスペインへ帰還するため、大西洋のスコットランド、アイルランド周辺海域に入りました。食料と水は不足しており、軍馬は海に投げ込まれました。また、多くの船が艦隊に追従できずに脱落しました。リカルデ提督をはじめとする一部の船が水と食料の不足により、アイルランドへ向かいました。分離してアイルランドへ向かった集団や脱落した船には悲惨な運命が待っていました。無敵艦隊の航海士達はアイルランド周辺の海岸線について全く無知であり、多くの船がここで難破して沈没し、上陸した乗組員たちも土着民やイングランド兵によって虐殺されました。溺死や餓死そして虐殺された犠牲者は戦闘よりも多く、スペインに帰還できたのは無敵艦隊の半数でした。イングランドでは数年にわたり国威が高揚し、エリザベス伝説は彼女の死後も長く生き残り、そして成長しました。スペイン無敵艦隊に対する勝利と彼女の名は永遠に結び付けられ、英国史における最も偉大な勝利者として知られる事になりました。スペイン無敵艦隊の撃退はヨーロッパ中のプロテスタントに勇気を与え、神がプロテスタント信仰を加護しているという信念は記念メダルに刻印された「神は風を起こし、そして彼らは追い散らされた」という文言に現されました。

その次に、稗田山崩れです。「稗田山崩れ」は、長野県小谷村にある稗田山が崩壊した災害です。1707年に静岡県で起きた「大谷崩れ」、1858年に富山県で起きた「鳶山崩れ」と共に「日本三大崩れ」の一つです。1911年8月8日未明、山頂北側斜面が突如として大崩壊し、土砂が直下の谷を埋めました。死者26名の被害を出しました。土砂は渓谷であった浦川を埋めるだけに留まらず、姫川の合流点で堆積して「長瀬湖」という天然ダムを形成しました。このダムが湛水した事から急遽、地元住民らの手で排水路の設置による災害対策を行いましたが功を奏さず、一部が決壊しました。大量の土砂が流出し、糸魚川市の河口にまで被害が及び、姫川沿いの多くの家々が居住不能となり、田畑は耕作不能となり、周辺の海域では魚の大量死が発生しました。この結果、集団移転する集落や一家離散する家々が相次ぎました。崩壊土砂量は1億立方メートルに及び、日本での20世紀最大級の土砂災害となりました。翌1912年の梅雨期にも天然ダムが再決壊した他、稗田山の再度の崩壊もあり、復旧途上にあった地域経済に止めを刺しました。現在、崩壊が生じなかった稗田山の南側斜面の一部は、白馬乗鞍スキー場の滑走斜面となっています。

その次の次に、ソロモン諸島の戦い:フロリダ諸島の戦いです。フロリダ諸島の戦いは、フロリダ諸島内のツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島(現・ソロモン諸島)で行われた日本軍守備隊と米軍との間の戦闘です。ラバウルから異常電波傍受の報せを受けた横浜海軍航空隊は、大艇の発進時間を繰り上げて発進準備にかかりました。8月7日午前4時10分、発進準備を終えた大艇は離水を開始しました。しかし、その瞬間に米艦載機約10機が来襲し、泊地の大艇は全滅し、フロリダ島の水上戦闘機隊も全滅しました。午前7時過ぎに第二波の空襲を行った米軍は、午前9時に上陸用舟艇約100隻をフロリダ島の湾に向けて発進させましたが、途中で引き返して午前10時にガブツの東岸に上陸しました。ガブツの守備隊には武器がなく、タナンボゴからの援護を受けたものの、占領されました。午後9時、米軍はタナンボゴの北側から6隻の上陸用舟艇で進撃を開始しました。しかし、進撃の途中に陸岸から50m程先にあるリーフに先頭艇が座礁、日本軍守備隊はこの舟艇を襲撃しました。この攻撃に驚いた米兵は慌てて後続艇に乗り移り、撤退しました。この攻撃により、米兵10数名が戦死し、日本軍は舟艇に置き去りにされた機銃を鹵獲しました。翌8日午後3時、米軍はガブツとタナンボゴを繋ぐ土手に進撃を開始しました。米軍は日本軍陣地の200m手前まで進撃しましたが、日本軍の抵抗にあって後退しました。午後4時、米軍は兵員輸送用の水陸両用車輛(LVT)二両を以ってタナンボゴに上陸を試みました。日本軍守備隊約50名は、LVTに駆け寄ると、転輪とキャタピラの間に鉄棒や棍棒を入れて動きを止め、ガソリンをかけてトラクターに火を放ちました。これにより二輛のLVTは炎上しましたが、ガブツからの機銃弾により日本兵42名が戦死しました。午後5時、米軍はタナンボゴ島の前面500mの至近距離に軽巡洋艦1隻、駆逐艦3隻を進出させました。3隻は一列に並んで左砲戦の隊形をとると、タナンボゴ島に対して艦砲射撃を開始しました。この砲撃により日本軍守備隊は3名を残して全員玉砕し、司令の宮崎重敏海軍大佐は壕内で自決しました。この砲撃の後、米軍は同島に上陸し、無血占領を果たしました。日本軍の戦死者は1100名(ほぼ全員)、生存者3名、米軍の戦死者は122名でした。

そのまた次に、第一次ソロモン海戦です。アメリカは、「ミッドウェー海戦」の勝ちに乗じて、日本への反攻作戦を計画しました。そして、ガタルカナルを空襲して上陸しました。ラバウルから台南空の零式艦上戦闘機(零戦)17機、第二十五航戦の一式陸上攻撃機(一式陸攻)27機、第二航空隊の九九式艦上爆撃機9機が出撃しました。しかし、ツラギ上空にはブーゲンビル島監視員からの報告を受けた米軍戦闘機約60機が待ち受けていました。日本軍第一次攻撃隊は駆逐艦一隻を小破し、戦闘機11機・艦爆1機を撃墜したものの、陸攻5機、零戦2機を喪失する損害を受けました。また、この戦闘で坂井三郎一飛曹が被弾して重傷を負い、辛うじてラバウルに帰投しました。進撃していた第八艦隊(重巡:「鳥海」、「青葉」、「衣笠」、「加古」、「古鷹」、軽巡:「天龍」、「夕張」、駆逐艦:「夕凪」)はブーゲンビル島東方海面で待機しました。その後、第八艦隊はサボ島南方水道に突入を始めました。サボ島南方に到達した午後11時30分頃、三川軍一中将により「全軍突撃せよ」が下令されて、全艦一斉に襲撃運動に入りました。先頭艦の豪重巡「キャンベラ」に向けて午後11時47分、距離3700mで魚雷を4本発射、2本の命中を確認後、主砲10門による射撃を開始しました。本格的な夜戦が始まり、日本艦隊は主砲に加えて高角砲と25mm銃の水平射撃を行って「キャンベラ」と「シカゴ」を圧倒しました。「パターソン」は軽巡「天龍」の探照灯射撃を受け、艦橋、第3、4砲塔に命中弾を受けました。艦長が戦死し、中破して戦列を離脱しました。「キャンベラ」は「鳥海」が放った魚雷2本が命中、僅か3分間で2本の魚雷と28発の20センチ砲弾を浴びて航行不能に陥り、搭載航空機も炎上しました。艦長は致命傷を負いましたが、治療を断って部下の救助を優先させました。こうして連合軍南方部隊は壊滅し、第八艦隊はツラギ港外に向かいました。「パターソン」が第八艦隊を発見してから戦闘が終了するまでの僅か6分、第八艦隊は「天龍」と軽巡「夕張」が被弾した以外は全く被弾せず、一方的な攻撃に終始しました。「鳥海」は「キャンベラ」に対して雷撃を終えた直後、艦首左方向に全く別の敵部隊がいるのを発見しました。この部隊は、米重巡「ヴィンセンス」艦長リーフコール大佐が率いる連合軍北方部隊でした。午後11時53分、「鳥海」は一番近い北方部隊3番艦の米重巡「アストリア」に主砲を斉射、命中弾を得ました。「鳥海」は2番艦米重巡「クインシー」にも砲撃し、艦中央部の艦載機に直撃弾を与えて炎上させました。そこに、「古鷹」以下3隻が左舷方向から突入してきました。「古鷹」隊は「鳥海」が照射した敵艦隊を認めて突入して来たのでした。北方部隊は右舷側から「鳥海」隊に、左舷側から「古鷹」隊に挟撃される形となりました。「クインシー」は被弾・被雷しつつも「鳥海」目掛けて砲撃をして突撃しましたが、艦載機が炎上しました。これが好目標となって砲弾が集中して午前0時35分、左に転覆して沈没しました。残った一番艦「ヴィンセンス」は第八艦隊の砲撃を浴びて、艦載機が炎上しました。「鳥海」隊から発射された魚雷が3本左舷に立て続けに命中、さらに「夕張」が発射した魚雷の1本が命中し、日付変更直後に航行不能に陥りました。「ヴィンセンス」はこの後も更に砲撃を浴び、「青葉」の発射した20cm砲弾が艦橋と艦首脳を吹き飛ばしました。「ヴィンセンス」は午前0時50分に転覆沈没しました。こうして海戦は日本軍の大勝利に終わりました。

最後に、筑紫駅列車空襲事件、福山大空襲、八幡大空襲です。
筑紫駅列車空襲事件:西日本鉄道(西鉄)大牟田線、福岡9時40分発の大牟田行き下り普通列車は途中、入営者を中心に200人近い客を載せ、ほぼ満員状態でした。途中、空襲警報発令のために1時間停車、筑紫駅には午前11時頃に差し掛かりました。同じ頃、久留米方面から福岡方面へ向かう上り列車も筑紫駅に差し掛かっていました。この2列車が、米軍のP−51戦闘機による機銃掃射を受けました。筑紫駅周辺は田園地帯であり、航空機による攻撃に対して無防備でした。両列車、合わせて死者は64名、負傷者は100余名という甚大な被害を受けました。
福山大空襲:22時頃、マリアナ諸島テニアン島の基地より発進した米軍の「B−29」爆撃機91機により、広島県福山市が空襲を受けました。8月1日に、日本全国の都市に米軍による空襲予告のビラが投下され、そのビラには「福山」の文字もありました。焼夷集束弾や普通爆弾などにより、まず陸軍射撃場のあった北本庄地区などの市周辺部、次に市中心部が無差別爆撃を受けました。この逃げ道を火の海にして退路を塞ぐ攻撃法は、日本本土空襲におけるアメリカ軍の常套手段でした。当時の福山市にあった日本火薬(現・福山日本化薬)、三菱航空機(現・三菱電機福山製作所)、帝国染料などの軍需工場、帝国陸軍歩兵第41連隊司令部及びその付属施設、帝国海軍福山海軍航空隊が主要な目標とされました。この福山を襲った編隊の1機が帰路に岡山県浅口郡北木島村(現・笠岡市北木島町)へ爆弾を投棄し、死者が出ました。犠牲者は死者354人、重軽傷者864人、焼失家屋数10179戸、被災者数47326人(当時の福山市民の81%が被災)、国宝であった福山城天守などの貴重な文化財も焼け落ちました。空襲の犠牲者の慰霊碑は福山中央公園に建立されています。この慰霊碑は「追憶」と命名されており、空襲から逃げ惑う母子3人の銅像です。この像のモデルは翌日に田んぼで火に撒かれ絶命していた母子3人(氏名も判明しており、市内の主婦と彼女の2名の子供)で、彼女らを慰霊する主旨となっています。毎年空襲の慰霊祭は、この像の前の広場で行われています。空襲の慰霊碑の隣には広島原爆の慰霊碑も建立されていますが、これは8月6日の広島市への原爆投下の救援のために福山市駐留の部隊や勤労奉仕の市民が向かったため、入市被爆の犠牲になった者が少なくなかったためです。
八幡大空襲:1945年8月8日、米軍マリアナ基地から出撃した「B−29」221機が、午前9時過ぎから約2時間にわたり、福岡県八幡市(現・八幡東・西区)に45万発の焼夷弾を投下しました。八幡は火の海となり、市街地の21%が壊滅しました。小伊藤山の横山防空壕(現・JR八幡駅前付近)では、避難した市民約2000人が窒息死、焼死するなど、この空襲で約2900人が犠牲となり、焼失家屋数14380戸の被害を出しました。壕から搬出された遺体は野焼きにされました。翌日の小倉への原爆投下が長崎へ変更されたのは、八幡の街で燃える煙が小倉上空まで達し、目視による原爆投下が出来なかったためと言われています。この空襲から65年後の2009年4月5日、小倉北区の永照寺に「旧小倉陸軍造兵廠空襲犠牲者之碑」が建立されました。

今日の誕生日:堀河天皇(第73代天皇)、徳川家継(江戸幕府第7代将軍)、寺内寿一、土肥原賢二、ダスティン・ホフマン、前田美波里、押井守、池畑慎之介☆(ピーター)、織田無道、ナイジェル・マンセル、松本匡史、北天佑勝彦、DJ KOO(TRF)、田中要次、天海祐希、東野幸治、フェイ・ウォン、多田健二(COWCOW)、山下徹大、猫ひろし、新垣寿子(元スーパーモンキーズ)、白石美帆、コカドケンタロウ(ロッチ)、飯田圭織(元モーニング娘。)、金原ひとみ、橋本マナミ、FUJI(WANIMA)、夏未エレナ、森友哉、松岡菜摘(HKT48)、遼花(元キグルミ)、賀喜遥香(乃木坂46)、坂本金八

今日の記念日:関ジャニ∞の日、鍵盤の日、地球歌の日、笑いの日、スマイル記念日、まるはちの日、ちょうちょうの日、親孝行の日、パパの日、おばあさんの日、子ども会の日、歯並びの日、イキイキワークワークの日、山の日、プチプチの日、パパウォッシュの日 、ひょうたんの日、そろばんの日、ぱちんこの日、ひげの日、屋根の日、かわらの日、夢ケーキの日、白玉の日、洋食の日、発酵食品の日、醤油豆の日、たこ焼の日、ベーグルの日、マルちゃん焼そばの日、ブルーベリーの日、パパイヤの日、葉っぱの日、デブの日、フジテレビの日、がま口の日、ひとり暮らしの日、ドット(水玉模様)の日、球磨焼酎の日、米米CLUBの日

今日の「今日訓」:本日は、グループ名から「関ジャニ∞の日」、ピアノの鍵盤の数が88鍵である事から「鍵盤の日」、広島が被爆した8月6日と長崎が被爆した8月9日の間で平和への願いを込める意味と、丸を重ねた形の数字の8が二つ続く日から丸い地球をイメージして「地球歌の日」、1907年に尾張徳川家が合印として使っていた「まるはち印(○に八)」を名古屋市の市章に決定、その88年後の1996年に制定した「まるはちの日」、8の字を横にすると蝶々の姿に似ている事から「ちょうちょうの日」、8の形が似ている事から「ひょうたんの日」、弾くと「パチパチ」と音がする事から「そろばんの日」、「ぱちんこの日」、「がま口の日」、漢字の「八」が似ている事から「山の日」、「ひげの日」、「屋根の日」、「かわらの日」、米の字を崩すと「八」、「十」、「八」になる事から「球磨焼酎の日」、「白玉の日」、3月3日の「ひな祭り」と5月5日の「端午の節句」を足した日が8月8日となる事から「子ども会の日」、8が「プチプチ」を連想させる事から「プチプチの日」、笑い声「ハ(8)ハ(8)ハ」で「笑いの日」、「スマイル記念日」、「ハハ」、「パパ」、「ばあば」で「パパの日」、「親孝行の日」、「パパウォッシュの日」、「パパイヤの日」、「葉っぱの日」、「おばあさんの日」、8と8で歯(8)並びで「歯並びの日」、8と8で「ワクワク」で「イキイキワークワークの日」、ハヤシライスの「ハ(8)ヤ(8)」で「洋食の日」、8(ハチ)で「発酵食品の日」、「マルちゃん焼そばの日」、「フジテレビの日」、その由来が「四国八十八カ所巡り」である事から「醤油豆の日」、たこの足が8本である事と焼を8と読んで「たこ焼の日」、数字の無限大を示す∞の形で「ベーグルの日」、BlueBerryのBBが88で「ブルーベリーの日」、8のふくよかなイメージで「デブの日」、米の文字が八十八を組み合わせた漢字である事から「米米CLUBの日」となりました。
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