mixiユーザー(id:48382454)

2020年08月09日00:22

16 view

8月9日の日記

今日の出来事:1173年−ピサの斜塔が着工される、1483年−システィーナ礼拝堂が開場、1523年−鏡山城の戦い、1646年−古田騒動、1864年−天狗党の乱:江戸幕府が諸藩に「天狗党」追討令を出して戦闘開始、1868年−北越戊辰戦争:福島・大黒の戦い、1945年−第二次世界大戦:大湊空襲、第2回釜石艦砲射撃、1945年−長崎市への原子爆弾投下、約7万4千人が死亡、1945年−第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦が満州・朝鮮・樺太の国境を突破

今日は、ピサの斜塔が着工です。1173年にドゥオーモ(大聖堂)の鐘楼として着工し、200年後の1372年に完成しました。高さは地上55m、階段は297段あります。傾斜が5.5度あり、一時傾斜の増大と倒壊の危惧がありました。1990年から2001年の間に行われた工事によって、現在は約3.99度に是正されました。後、300年は倒れる危険がないとの見解が示されました。現在は、世界遺産「ピサのドゥオモ広場」を構成する主要観光スポットとなりました。

次に、システィーナ礼拝堂が開場です。システィーナ礼拝堂はサン・ピエトロ大聖堂に隣接し、バチカン宮殿内に建てられた礼拝堂です。ミケランジェロが描いた「創世記」などの大天井画、「最後の審判」の壁画で有名です。教皇を選出するコンクラーヴェの会場としても知られています。シクストゥス4世の発願により、教皇礼拝堂として1475年に建設が始まりました。1481年に建物が完成後、ボッティチェリら初期ルネサンスの画家がモーゼ、イエス・キリストをテーマに壁画を描きました。1483年、シクストゥス4世による聖別が行われ、聖母被昇天に捧げられました。

その次に、鏡山城の戦いです。鏡山城は安芸西条(現・東広島市)にある山城で、安芸支配を目論む周防・長門の大内氏が築城し、安芸支配の拠点としていました。1522年、大内義興は陶隆房を総大将として安芸に派遣しました。5ヶ月間滞在して、新庄小幡(現・広島市西区新庄町)や大塚(現・広島市安佐南区沼田町大塚)を攻めましたが、安芸・武田軍の防戦により戦果はありませんでした。一方、安芸・備後に勢力を伸ばしていた出雲の尼子経久は、大内義興が九州北部へ出陣へしている隙を突いて、鏡山城を落とすため西条に進軍しました。尼子氏に臣従する安芸国人衆らと共に鏡山城の攻略を開始しました。この時、吉川氏は「有田中井手の戦い」の翌年に尼子氏の傘下に入り、毛利氏も尼子氏の傘下にありました。1523年7月25日、9歳の毛利家当主・毛利幸松丸の後見人を務める毛利元就は、吉川国経らと共に4000の軍勢で城攻めを開始しました。一方、大内方は蔵田房信とその副将として叔父・蔵田直信が鏡山城に入って、尼子軍を迎え撃ちました。蔵田房信は奮戦し、尼子軍を容易に城へ寄せ付けなかったため、戦線は膠着状態に陥りました。そこで毛利元就は一計を案じ、蔵田家の家督を継がせる事を条件に蔵田直信を寝返らせ、城内に尼子軍を手引きさせました。尼子軍の侵入を許した城内は大混乱をきたし、城将・蔵田房信は本丸に籠もって最後の防戦を続けましたが、8月9日に落城しました。蔵田房信は、妻子と城兵の助命を引き替えに自害しました。尼子経久は、蔵田房信の申し出に承認しましたが、蔵田直信については寝返りを非難して処刑を命じました。毛利元就は約束を反故とされて、戦功一番であったにもかかわらず恩賞が与えられませんでした。この攻城戦で、尼子経久は智勇優れた毛利元就を警戒し、毛利元就も尼子経久に不信感を抱く事になりました。毛利幸松丸は、毛利興元の嫡男として生まれましたが、2歳の時に父が病死したため家督を継ぎました。後見役として叔父・毛利元就と外祖父・高橋久光がその任に当たりました。当初は高橋久光の発言力が強かったのですが、高橋久光が討死した後に毛利元就が実権を握りました。この「鏡山城の戦い」かr帰国後の8月25日に病死しました。敵将の首実検を嫌がる幸松丸を家臣達が無理矢理立ち合わせ、生首を見て衝撃を受けたためと言われています。享年9歳でした。尼子経久はこの後、家臣・亀井秀綱を使って毛利家の家督相続問題に介入し、毛利元就の弟・相合元綱を擁立させようと画策しました。しかし、機先を制した毛利元就が相合元綱とその支持派を粛清した事で介入は失敗し、毛利元就が当主となりました。その後、毛利元就は尼子氏から離反して大内氏の傘下に入ります。毛利元就が尼子氏から離反したのは、この「鏡山城の戦い」での尼子経久の仕打ちが要因となりました。

その次の次に、古田騒動です。1646年、江戸の藩邸で「古田騒動」が始まりました。浜田藩の第2代藩主・古田重恒は、40歳を過ぎても子に恵まれませんでした。跡継ぎが居ないために改易される事を恐れた江戸家老・加藤治兵衛と黒田作兵衛は、古田一族の古田左京の孫に当たる万吉を養子にしようと画策しました。その計画を打ち明けられた側近・富島五郎左衛門が古田重恒に伝えました。1646年8月9日、古田重恒は自分に無断で計画を立てた加藤治兵衛や古田左京らに対して激怒し、その一派全てを殺しました。その後、1648年8月4日に古田重恒は46歳で死去しました。跡継ぎが居ないため、古田氏は改易されました。

そのまた次に、天狗党の乱:江戸幕府が諸藩に「天狗党」追討令を出して戦闘開始です。北関東での「筑波勢」の横行に対し、幕府は将軍・徳川家茂が上洛して不在であった事で、水戸藩や諸藩に鎮撫を要請するのみで放置していました。水戸藩も「激派」が藩政を握っており、藩主・徳川慶篤は幕府が横浜鎖港を実行しない限り、筑波山に立て籠る挙兵勢力の鎮撫は出来ないと主張しました。1864年5月25日、参内した徳川家茂に対して朝廷は横浜鎖港を必ず実行するよう指示し、川越藩主・松平直克及び徳川慶篤がその実行者に指名されました。こうして、横浜鎖港は幕府にとっても受け入れざるを得ない情勢となりました。一方で、老中・板倉勝静、牧野忠恭らは徳川家茂の江戸復帰を機に、水戸藩に対して「筑波勢」追討を命じました。これに呼応し、市川三左衛門ら「諸生党」約600人余は江戸に上り、藩主・徳川慶篤のいる江戸小石川の水戸藩邸を掌握し、「激派」を藩執行部から更迭するクーデターに成功しました。これが、「筑波勢」追討を巡る幕閣内の抗争にも影響を与えました。一橋慶喜の意を汲んで横浜鎖港を主張し、「筑波勢」の鎮圧に反対していた松平直克が失脚しました。こうして、「筑波勢」の鎮圧方針が定まりました。1864年8月9日、若年寄で相良藩主・田沼意尊が追討軍総括に任命されました。筑波山で蜂起した「水戸天狗党」に対し、幕府は「筑波勢」追討令を出して常陸国・下野国の諸藩に出兵を命じ、直属の幕府陸軍なども動員しました。まず、諸藩連合軍と「筑波勢」との間で戦闘が始まりました。「筑波勢」は機先を制して下妻近くの多宝院で夜襲に成功し、士気の低い諸藩軍は敗走しました。水戸へ逃げ帰った市川三左衛門が率いる「諸生党」は、「筑波勢」に加わっている者の一族の屋敷に放火し、家人を投獄・銃殺するなどの報復を行いました。市川三左衛門は水戸における実権を掌握し、江戸にいる藩主・松平慶篤の意向と関わりなく藩政を動かす事が可能となりました。「諸生党」の報復に対して「筑波勢」の内部では動揺が起こり、藤田小四郎ら「筑波勢」本隊は攘夷の実行を優先する他藩出身者らと別れて水戸に向かいました。藤田小四郎らは水戸城下で「諸生党」と交戦しましたが敗退し、那珂湊(ひたちなか市)の近くまで退却しました。藤田小四郎ら本隊と別れて江戸へ向かって進撃した一派も鹿島付近で幕府軍に敗北しました。また「筑波勢」追討が開始されると、領民達が幕府軍に呼応して「筑波勢」に襲いかかりました。相良藩主・田沼意尊(若年寄)が彼らに対し、補償に代えて天狗党から分捕った戦利品を私財とする事を許可した事もあり、各地で尊攘激派やこれに同調していた村役人・豪農等への打ち壊しが行われました。江戸の水戸藩邸を掌握した「諸生党」に対し、激派・鎮派は領内の尊攘派士民を下総小金(千葉県松戸市)に大量動員し、藩主・松平慶篤に圧力をかけて交代したばかりの「諸生党」の重役の排斥を認めさせ、水戸藩邸を再び掌握しました。しかし、市川三左衛門らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還を図る事となりました。そこで、在府の松平慶篤の名代として支藩・宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向する事となり、執政・榊原新左衛門(鎮派)らとともに江戸を出発しました。これは「大発勢」と呼ばれます。これに「諸生党」により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して3000人に膨れ上がりました。「大発勢」は水戸城下に迫りましたが、その中に「尊攘派」が多数含まれているのを知った市川三左衛門らは、自派の失脚を恐れ、戦備を整えて一行の入城を拒絶しました。松平頼徳は市川三左衛門と交渉しましたが、水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥ります。「大発勢」はやむなく退き、水戸近郊の那珂湊に布陣しました。「筑波勢」もこれに接近し、「大発勢」に加勢する事になります。

そのまた次の次に、北越戊辰戦争:福島・大黒の戦いです。先日の列藩同盟軍の攻撃が失敗したのは、列藩同盟軍総督・千坂高雅の作戦が「何の工夫も無い平攻めだったから」と判断した長岡藩総督の河井継之助は、会津藩の佐川官兵衛を伴い、見附の千坂高雅の本陣を訪れ、自らの作戦を提案しました。まず別働隊を夜間に八丁沖内を迂回させ、新政府軍の最前線である大黒村の背後に位置する福島村を奪取します。福島村を奪取後に合図の火の手を挙げて、この合図を受けて福井村から大黒村を攻め、福井村からの部隊と福島からの部隊で大黒村を正面と背後から挟撃し、新政府軍の有力な拠点である大黒村も奪取するという作戦でした。こうして、河井継之助・佐川官兵衛・千坂高雅の軍議の元、列藩同盟軍は布陣を開始しました。まずは、迂回部隊が進発しました。当時、長岡の北東に広がっていた広大な湿地帯である八丁沖ですが、場所によっては底無し沼の箇所も在りましたが、通行可能な場所もありました。その八丁沖内で漁をして生計を立てていた長岡藩の下級藩士を案内にして、迂回部隊は通行可能な部分を進軍し、大黒村の横を通り抜けて後方の福島村に迫りました。福島村は、富山藩が守っていましたが、これを攻撃して敗走させました。福島村を奪取した列藩同盟軍の迂回部隊は、合図の火の手を上げました。列藩同盟軍は一斉に攻撃を開始しました。主攻撃部隊は、福井村を出発して大黒村を目指して攻撃しました。大黒村を守っていたのは高田藩兵でしたが、長岡藩兵・会津藩兵を主力とした主攻撃部隊は猛攻の末に大黒村を攻め落とし、見事に新政府軍の戦線に楔を打ち込む事に成功しました。大黒村奪回の為に薩摩藩兵と松代藩兵が急行してきました。新政府軍を率いる山県有朋は、大黒村に「奇兵隊」ら長州藩兵を援軍に向かわせると攻守が逆転し、列藩同盟軍の主攻撃部隊と迂回部隊が新政府軍に包囲される状況になりました。こうして、大黒村で新政府軍と列藩同盟軍の死闘が再び行なわれ、新政府軍・列藩同盟軍を問わず多くの将兵が倒れました。しかし、最終的には兵力的に有利な新政府軍が列藩同盟軍を包囲して、列藩同盟軍は包囲殲滅の危機に陥りました。この危機は長岡藩の三間市之進と会津藩の佐川官兵衛が指揮下の兵を突撃させ、新政府軍の包囲網を突き破った事により離脱に成功しましたが、福島村と大黒村を新政府軍に奪回されました。

さらに次に、第二次世界大戦:大湊空襲、第2回釜石艦砲射撃です。
大湊空襲:青森県大湊町(現・むつ市)の大湊湾には日本海軍の大湊警備府があり、「常磐」を旗艦とする機雷敷設艦部隊の「高栄丸」、「千歳丸」や海軍特設輸送艦「浮島丸」が停泊していました。また、芦崎湾には損傷中の駆逐艦「柳」などが停泊しており、総数20隻でした。8月9日から10日にかけて、アメリカ海軍第3艦隊の第38任務部隊などの空母搭載機が、北日本一帯を空襲しました。9日早朝6時に大湊町に空襲警報が発令されました。数時間後には2回目の空襲警報が発令され、大湊湾にアメリカ軍の空母艦載機が襲来しました。碇泊中の艦艇や陸上砲台から応戦しましたが、「常磐」、「柳」が大破しました。「常磐」は浸水が激しく芦崎湾に擱座して、辛うじて沈没を免れました。死者129名(「常磐」の乗組員が109名、「柳」の乗組員が20名)、負傷者は300名以上でした。「常磐」以下の敷設部隊は、北海道方面で敷設する予定の機雷を多数を搭載していましたが、誘爆した場合には大湊の町に甚大な被害を及ぼすと判断し、空襲警報発令後に全ての機雷を海中へ投棄しました。そのため、誘爆による市街地への被害は避けられました。事実上、これが大日本帝国海軍の艦艇による最後の海戦となりました。
第2回釜石艦砲射撃:1945年8月9日、アメリカ海軍・イギリス海軍の合同部隊が行いました。参加したのは、前回と同じアメリカ海軍第34.8.1任務隊の他、イギリス海軍第37.1.8任務隊(軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻)でした。最初は、山側から順に海側に射撃しました。その結果、平地にあぶり出された人達を待っていたのは戦闘機による機銃攻撃でした。この攻撃で、日本側は一般市民271人の死者を出しました。逆に山側に逃げた人は、一命を取り留めました。

最後に、長崎市への原子爆弾投下です。8月6日の広島原爆投下作戦で観測機B−29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB−29「エノラ・ゲイ」の機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われるので、その指揮を執ること、目標は第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市である事を告げられました。出撃機は合計6機でした。先行していた「エノラ・ゲイ」からは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、「ラッギン・ドラゴン」からは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲は10分の2であるとの報告がありました。午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達しました。しかし、爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が目視による投下目標確認に失敗しました。その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返しましたが再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行いましたが、これも失敗しました。その間に天候が悪化し、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきた事が確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃に小倉市上空を離脱しました。「ボックスカー」は小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入しました。午前10時50分頃、「ボックスカー」が長崎上空に接近した際には、高度1800mから2400mの間が、80〜90%の積雲で覆われていました。照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みました。スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばなりませんでしたが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促しました。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点でしたが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗きました。ビーハンは大声で叫びました。「街が見える!」「tally ho! 雲の切れ間に第2目標発見!」 スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えて、ビーハンに操縦を渡しました。工業地帯を臨機目標として、高度9000mからmk−3核爆弾「ファットマン」を手動投下しました。「ファットマン」は放物線を描きながら落下、約1分後の午前11時2分、長崎市街中心部から約3kmもそれた別荘のテニスコート上空、高度503mで炸裂しました。長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾でした。このプルトニウム原爆はインプロージョン方式で起爆しました。長崎原爆「ファットマン」は広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」の1.5倍の威力でした。さて、原爆が投下された長崎ですが、原爆は浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させました。なお長崎の中心地は爆心地から3kmと離れていて、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微でした。浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物でした。浦上教会(浦上天主堂)では原爆投下時に「ゆるしの秘跡(告解)」を行っていましたが、司祭の西田三郎・玉屋房吉を初め、数十名の信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになって全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となりました。長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士(主に英軍・蘭軍兵士)の死傷者も大勢出ました。広島で被爆後、親戚を頼って長崎へ疎開していた人物が再び長崎で被爆したり、出張等で広島を訪れていた人物が被爆し、実家のある長崎で再び被爆したと云う事例(二重被爆)も確認されています。実戦で使われた二発目の核兵器、この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人のうち約14万9千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊しました。

今日の誕生日:アメデオ・アボガドロ、黒田清輝、宇垣一成、トーベ・ヤンソン、磯村尚徳、黒柳徹子、吉行和子、石橋蓮司、佐藤蛾次郎、池上彰、田山涼成、桜井洋子、ホイットニー・ヒューストン、フィリッポ・インザーギ、千野志麻、G.G.佐藤、松尾由美子、タイソン・ゲイ、加藤沙耶香(元アイドリング!!!1号)、木南晴夏、藤田菜七子

今日の記念日:長崎原爆忌・ ながさき平和の日・長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典、世界の先住民の国際デー、ムーミンの日、野球の日、はり・きゅう・マッサージの日、パークの日、パクチーの日、薬草の日、かばんの日、ハンバーグの日、ハグの日、ソフトウェアバグの日

今日の「今日訓」:まずは、長崎に黙祷! 本日は、1945年8月9日午前11時2分に、米軍のB−29爆撃機「ボックスカー」により、プルトニウム原子爆弾「ファットマン」が長崎市に投下されました。約7万人の人々が死亡し、市街は壊滅しました。この事から「長崎原爆忌」、「 ながさき平和の日」、「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」となりました。1992年に、「国連人権促進保護小委員会先住民作業部会」の第1回会合が開かれた事を記念して「世界の先住民の国際デー」、作者であるトーベ・ヤンソンの誕生日である事から「ムーミンの日」、「8(や)9(きゅう)」の語呂合わせで「野球の日」、「8(はり)9(きゅう)」の語呂合わせで「はり・きゅう・マッサージの日」、「8(パー)9(ク)」の語呂合わせで「パークの日(駐車場の日)」、「8(パ)9(クチー)」の語呂合わせで「パクチーの日」、「8(や)9(く)そう」の語呂合わせで「薬草の日」、「8(バッ)9(グ)」の語呂合わせで「かばんの日」、「8(ハンバー)9(グ)」の語呂合わせで「ハンバーグの日」、「8(ハ)9(グ)」の語呂合わせで「ハグの日」、「8(バ)9(グ)」の語呂合わせで「ソフトウェアバグの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する