mixiユーザー(id:7796538)

2020年03月02日04:54

46 view

西殿塚古墳

中山町に所在する前方後円墳で、大和古墳群中では最大規模の古墳。
全長230m、後円部径145m、前方部幅130mを測る。
墳丘は東側で3段、西側で4段の段築により形成されていて、
墳丘の西側には張り出し状の地形があり、
これを加えると5段の段地区となる。
また、後円部および前方部の墳頂には方墳が存在する。

 遺物としては有段(ゆうだん)口(こう)縁(えん)が特徴の円筒埴輪など
多量の初期埴輪が出土し、
これまでの発掘した埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、
次に朝顔埴輪・鰭付(ひれつき)円筒(えんとう)埴輪・
鰭付(ひれつき)楕円(だえん)筒(とう)埴輪が出現する
東殿塚古墳が築造されたものと思われる。

 現在は「手白香皇女衾田稜(たしらかのひめみこ ふすまだのみささぎ)」
として宮内庁により治定されているが、
「手白香皇女」とは、
第24代仁賢天皇の皇女で、母は春日大娘皇女(第21代雄略天皇皇女)、
第25代武烈天皇の姉であり、第26代継体天皇の皇后となった。

 継体天皇は子のない武烈天皇の崩御により、
第15代応神天皇の5世孫として擁立されたが、
その天皇家としての血縁の薄さを補うために、
この手白香皇女を皇后に迎えたと言われる。
 それゆえ、継体天皇は大和に入る以前、
複数の后をもち沢山の子(安閑天皇・宣化天皇他)がいたにもかかわらず、
手白香皇女との間の皇子である欽明天皇を継承者としていた。

 但し、この西殿塚古墳は、古墳時代前期前半の3世紀後半ごろの築造と推定され、
箸墓古墳に後続する大和王権の大王墓と目され、
手白香皇女の6世紀頃という想定に合わず、
真の手白香皇女稜は西山塚古墳とする説が有力視され、
この稜の被葬者は卑弥呼の後継者で妹の「壱予」とする説などがあげられている。

    参考資料
     天理市教育委員会  天理の古墳100
     インターネット検索 

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する