中山町に所在する前方後円墳で、大和古墳群中では最大規模の古墳。
全長230m、後円部径145m、前方部幅130mを測る。
墳丘は東側で3段、西側で4段の段築により形成されていて、
墳丘の西側には張り出し状の地形があり、
これを加えると5段の段地区となる。
また、後円部および前方部の墳頂には方墳が存在する。
遺物としては有段(ゆうだん)口(こう)縁(えん)が特徴の円筒埴輪など
多量の初期埴輪が出土し、
これまでの発掘した埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、
次に朝顔埴輪・鰭付(ひれつき)円筒(えんとう)埴輪・
鰭付(ひれつき)楕円(だえん)筒(とう)埴輪が出現する
東殿塚古墳が築造されたものと思われる。
現在は「手白香皇女衾田稜(たしらかのひめみこ ふすまだのみささぎ)」
として宮内庁により治定されているが、
「手白香皇女」とは、
第24代仁賢天皇の皇女で、母は春日大娘皇女(第21代雄略天皇皇女)、
第25代武烈天皇の姉であり、第26代継体天皇の皇后となった。
継体天皇は子のない武烈天皇の崩御により、
第15代応神天皇の5世孫として擁立されたが、
その天皇家としての血縁の薄さを補うために、
この手白香皇女を皇后に迎えたと言われる。
それゆえ、継体天皇は大和に入る以前、
複数の后をもち沢山の子(安閑天皇・宣化天皇他)がいたにもかかわらず、
手白香皇女との間の皇子である欽明天皇を継承者としていた。
但し、この西殿塚古墳は、古墳時代前期前半の3世紀後半ごろの築造と推定され、
箸墓古墳に後続する大和王権の大王墓と目され、
手白香皇女の6世紀頃という想定に合わず、
真の手白香皇女稜は西山塚古墳とする説が有力視され、
この稜の被葬者は卑弥呼の後継者で妹の「壱予」とする説などがあげられている。
参考資料
天理市教育委員会 天理の古墳100
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