(記紀の神々の時代はイザナギ、イザナミの時代、アマテラス、スサノオ、ツクヨミの時代、ニギニギノミコトとオオクニヌヌシの時代に大きく分かれ、最初のイザナギ、イザナミの時代は縄文時代に当たり、アマテラスらの時代は弥生時代前半、ニニギノミコトらの時代は弥生後期から古墳時代に当たる)
天照大神の孫の「ニギニギノミコト」が降り立ったとされる天孫降臨の地として知られる高千穂。「霧島神宮」は、その高千穂峰と火常(御鉢)峰の間に社殿が造られたのが始まりとされる、ニギニギノミコトを祀るお社。
創建が6世紀という古い歴史を誇るが、度重なる噴火による火災により、高千穂峰山頂から西の中腹、高千穂河原へと移り、江戸時代中期の正徳5年(1715年)、現在の場所に島津家21代目の島津吉(よし)貴(たか)の奉納により再建された。
さて、ニギニギノミコトの降臨地については、宮崎県北部の臼杵郡郡高千穂町なのか、
霧島連峰の高千穂峰なのか、本居宣長から始まった問題は未だ決着がついていない。
そして、天孫降臨はなぜ日向だったのか?
7世紀、律令時代初期の日向は、のちの大隅、薩摩を含む南九州全体を指していたと考えられ、もとはまつろわぬクマソがいた国で、その領域がこれほど大きいといいうことは、当時ヤマトの支配が行き届いていなかったことをうかがわせる。
そんな辺境の土地になぜ天孫ニギニギノミコトは天下っていったのか?
これは辺境だったからこそ。辺境から中央へと進んでいくのが、
王の移動のひとつの儀式であった。
雄大な風景を背にした壮大な神社によって、明治維新をおこした薩摩隼人の剛健な気風が養われたのではないだろうか。
薩摩が勤王軍の中心として活躍したのは、その領内に霧島神宮のような天皇家の祖先を祀る神社があったからではないか。
「かく二峰東西に対し、そびえたるゆえに、昔より高千穂の二上獄という。神書にいうところの山これなり。別に近世の人の高千穂の峰という山、この国にあれど、事のほか小さな山にして、神書に記せる山にあらず。高千穂の峰というは、この霧島山なること種々の証拠あり。
この山に登るものはおのずから知るべし。
これは、橘南谿(なんけい)による「西遊記」の一節であるが、
これはまさに勤王の志士たちの共通の信念であった。
彼らにとって、この霧島こそまさにニギニギノミコト降臨の山なのである。
天孫降臨の山が西臼杵の高千穂の小さな峰々では困るのである。
霧島のような巨大な山のような気概で、日本の国を外国から守り、世界に雄飛させる。
それが薩摩の勤王の志士の気持ちであったのである。
参考資料
天皇家のふるさと日向をゆく 梅原猛
古事記 神々と神社 日本歴史探求会
古事記 日本の風景を求めて 梅原猛、上田正昭、三浦祐介、上野誠
古事記 神話を旅する 三浦祐介
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