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2019年05月19日06:56

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工藤正一同志を偲んで

石原莞爾平和思想研究会で運営委員を務めて頂いた工藤正一同志が死去しました。『晩年をゆく』から一部抜粋します。

それから一年、私はあるきっかけから、偉大なる世界的歴史と出会うことになる。石原莞爾の「最終戦争論」である。この年、重ね、山形西山の将軍石原の門下に入り直接師事した遠野在住の元陸軍少佐の工藤睦夫氏との出会いは、奇遇というほかない。

翌昭和61年2月のある日、山形県飽海郡遊佐町吹浦の西山にある小高い残雪の松林の丘、将軍石原莞爾の眠る墓前に詣で、まだ経験したことのない感激に浴した。爾来、私は将軍石原莞爾の信奉者となる。昭和64年1月7日、昭和天皇崩御。

早朝午前6時33分、すでにその時刻を過ぎた7時、放映するテレビに合掌、厳粛なるその時に冥福を祈った。昭和、今終る。と同時に私の昭和も終った。平成3年3月初め、わが師工藤睦夫氏突如の病魔に倒れる。県立中央病院での奥様の手厚い看病も空しく、同6月15日世を去った。74歳であった。

昭和63年以来、石原莞爾思想について師事、遠野地区から岩手支部を組織、その指導に献身の努力を尽したときであった。私にとっても限りなく悲しいことである。告別の式の司会を命ぜられた私は、謹んで参列者を前に、元陸軍少佐工藤睦夫氏の前歴を報告、悲しみの限りを述べた。

明治建軍以来の希才、優れた軍略家であった石原莞爾将軍は、また軍事学者であり思想信仰の篤い軍人である。その原点は、将軍独自の戦争史観と世界唯一の戦争論、「最終戦争論」にある。

戦争進化の法則性の発見と前代未聞の戦争論は、正に世界的であり、イギリスの生んだ世界的歴史学者、トインビー氏の比較文明論と対比しても余りあるものと私は信じている。昭和22年、極東軍事裁判酒田臨時法廷で証言する石原将軍の弁舌に、海外の記者団は、どうして日本はこの人を起用しなかったのか、不思議がったという。

昭和24年7月、死の一ヶ月前、連合軍最高司令官宛「新日本の進路」と題する建白書を提出する。その受付の通知のあった8月15日未明、同志の唱和する「南無妙法蓮華経」に自らも正座し合掌,そのまま旅立たれた。波瀾60年の生涯、そして静かにして輝かしい最期であった。
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