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2016年11月04日19:39

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東京巡り(1)

今年は 例年よりも多く 東京に出掛けた。

3月、5月、9月、10月、そして、この11月2日〜3日の5回も 東京に出掛けた年は これまで無かった。

10月には、大学の同窓会があり、今回は 同窓会に出席しなかった友人との集まりもあった。

子供も大きくなって子育てもひと段落して、これからは 自分の人生を楽しんで良いような年齢になってきたということだろうか。

せっかく東京に行くなら、いろいろ観ようと思って、今回の東京へのお出かけも 頑張って観た。

10月には、ダリ展、鈴木其一展(後期展示)、クラーナハ展、野間記念館に出かけたが、今回は 少し違う雰囲気の展覧会を観ようと思った。


再び 午前7時の新幹線に乗り、渋谷のコインロッカーに荷物を預けて、向かったのは駒込だった。

駒込には、六義園がある。

六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。
「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する[1]。六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢が、この「六義」を『古今和歌集』にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとしたもので、紀州の和歌浦を中心とした美しい歌枕の風景を写して、庭園を造ろうと思い立った。[2]その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。
1702年(元禄15年)に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。その回数は記録されているものだけでも実に58回もあり、吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える[3]。
甲斐国・甲府藩主であった柳沢家は、吉保子息の吉里期の享保9年(1724年)に大和郡山に転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用された。時代が下るにつれ徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の火災で類焼することもなく明治を迎えた。
明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に整備が施され、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、1938年(昭和13年)には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった(有料)。東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日に生き延びた六義園は、1953年(昭和28年)に特別名勝に指定されている。(ウィキペディアによる)

午前7時の新幹線で 東京に着いたら、駒込には 9時40分くらいだった。

10時までには 時間があるので、何十年振りに 六義園に行くことにした。

入口を行くと、まず目に入ってきたのは 桜で、その時期になったら 人が大勢詰めかけるのだろうと思ったが、11月2日には 人は少なかった。

一回りして、10時15分くらいだった。デジカメで 写しながら、30分くらいで出口まで戻って来た。

思ったよりも コンパクトな庭園だった。





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