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2015年05月16日07:20

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『桃次郎』阪田寛夫2

 阪田寛夫のもう一冊の『桃次郎』はこちら。
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 『桃次郎』阪田寛夫(昭和五十年四月二十五日インタナル出版社)、装幀織茂恭子。阪田のラジオドラマや合唱曲などを集めた作品集で、「桃次郎の冒険」は「昭和四十八年劇団四季による日生名作劇場十周年記念公演(子供のためのミュージカル・プレイ)」の上演台本である。内容は昨日紹介した「桃次郎・考」をもとに書かれている。
 この本のあとがきを阪田は「桃次郎と私」と題して書いている。
≪姉には、青い顔をしてひとりこっそり角を削るようなかわいげのない男の子なんか、何の同情心も起こらなかったに違いない。
 ところが私の頭の中には、その時から桃次郎が住みついてしまった。気はやさしくて力持ち、戦えば勝ち、親にはおみやげを車に積んで持って帰るという桃太郎のような人間になりたくてもなれない私は、自分によく似た、蔭でこそこそするような、頭の鉢だけ大きいような発育不全の少年が、いやだけれども気になったのだろう。
 私の両親は熱心なキリスト教徒で、明るい表側ばかりみたいな生活をしていた。兄も姉もその明るさの中に生きているように見えるのに較べて、私は「どうしてぼくはこんなにスケベエなのだろう」と悩んでいた。自分の卑しさやずるさが目について、それをまた隠したりわざと露したり、色々やっている自分が、我ながらいやだった。
 それから四十年間に、私が綴り方だの、詩・小説まがいのもので書いて来た自画像は、おおむねこの桃次郎であったと思われる。(「桃次郎」そのものを書いたことも二度や三度できかない)小説に限っていうと、どの作品もひどくてこずって、息苦しいものになった。その上悪いことに、どの作品も同じ「おれは駄目」という歌になるのである。小説の数を年数で割ると、およそ一年に一回ずつ、同じところをぐるぐる廻った跡を、三、四十枚の原稿に書き残してきたような気がする。≫
≪「しかし、あんたは歌なんか、ずいぶんぬけぬけと書いてるよ。小説もあれでいったらどうです?」
 ある時知人から言われてびっくりした。
 その頃は、勤めていた会社をやめて、子供の歌・合唱曲・ラジオドラマ・テレビドラマ・ミュージカルなどを書いて生活していたが、言われてみるとその通りで、こういうジャンルでは、私は強いて自分の内側の桃次郎にはとらわれず、平気で外側のことを見て書いているのであった。
 よく考えてみると、小説というジャンルに限って、私は自分のまっくらなお腹の中をのぞこうと四苦八苦して、見えたか見えないか定かでないものを、「見えた見えた」「汚い汚い」と叫んでいたようだ。
 他の形で物を書く時には、少なくとも自分の腸を覗かねばならぬという固定観念からは自由になれた。自分では気づかなかったけれども、ここに集めた作品は、いわば桃次郎の目で外側を見てきた無意識のレポートみたいなものだ。≫
 これを読んで思い出したのは、『大和通信第百号』に中尾務さんが書いた「阪田寛夫、富士正晴、小沼丹」で、中尾さんはこう書いている。
≪一九六二年二月、〈このたび文学の勉強に専念するため、朝日放送を退社いたしました〉との挨拶文を活版印刷して知友に送付、筆一本の生活にはいる。この頃、阪田は音楽・放送関係で次々と受賞しているが、〈専心〉しようと思った方では、さっぱり。富士正晴への書簡でも〈小説は本当に書けません。うたでカネをいただいている次第〉(一九六四賀状)など、かこつこと、しきり。
 阪田の転機になったのは、「自分のことよりも周りの人のことを書いたほうがおもしろい」という〈先輩〉の言。だれがそういったのか。帝塚山学院小学部でも朝日放送でも〈先輩〉だった庄野潤三の名が思い浮かぶが、裏打ち資料はみつかっていない。気になるところだけれど、ともかくその教示のさきに「土の器」生れていることはまちがいない。≫
 「しかし、あんたは歌なんか、ずいぶんぬけぬけと書いてるよ。小説もあれでいったらどうです?」と言った知人と「自分のことよりも周りの人のことを書いたほうがおもしろい」と言った先輩が同じ人かどうかわからないが、どちらも阪田の「転機」を引き出した言葉であったのだろう。

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