mixiユーザー(id:809122)

2008年10月06日14:26

7 view

ガリレオ湯川は「天才」か?

先週土曜日に放送された、いまさらの『ガリレオΦ』 話だが、『容疑者Xの献身』も含めて「天才」という言葉が大盤振る舞いで使われているのに微苦笑を誘われた。
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2008/08-227.html
http://yougisha-x.com/

なぜ、微苦笑かといえば、「天才」についてのマイミクMurrariさんのこの日記を読んでいたからだ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=948982917&owner_id=1133361

ここで言う『天才バカボン』「ハジメちゃん」の「天才」性こそが、ガリレオ湯川にふさわしい「天才」の定義と見えるのだ。

そしてそれはおそらくは間違っていなく、原作者東野圭吾の設定の中でも、湯川はやはり「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人」の圏内に収まりそうな存在として想定されているんではないだろうかと想像される。


例えば『ガリレオΦ』では学生時代の「天才」湯川が登場するのだが、彼はそこで発生する事件を結局解決することは出来なかった。彼の「天才」性を示すのは、事象の可能性を提示したことだけだったのだが、物語上はそれで十分だったらしい。このあたりにガリレオ湯川の限界点がすでに露呈されている気がする。

ガリレオ湯川は、その後、本編ドラマにあっては、物理学准教授の地位にあって、数々の難事件をその分析力によって解決に導くのだが、では一体准教授としての彼の実力はどの程度なのかと想像すると、十数年間母校の准教授に納まっているところを見れば、斯界において大した実績を残しているわけではないことが想像できる。


折しも今日からノーベル賞の発表があるが、ノーベル賞受賞と言えば「天才」の代名詞。
中には講演の日時を忘れてしまう粗忽者もいるが、
http://www.sanspo.com/shakai/news/081005/sha0810051513013-n1.htm
とりあえず「天才」の比較対象として日本のノーベル物理学賞をとった人物をあげれば、湯川秀樹は大学卒業後5年で『中間子理論』を発表、その4年後京大教授になり、6年後には学士院恩賜賞受賞し、8年後には東大教授、さらにそこから3年後には文化勲章、そして40代前半にしてノーベル賞をとっている。
湯川秀樹と同期の朝永振一郎は、比較的晩成型としても35歳で教授になり、その2年後「超多時間理論」を完成、それから4年でノーベル賞の対象となる「くりこみ理論」を発表している。
江崎玲於奈は在野の研究者だが、東大卒業後10年でトンネルダイオード(エサキダイオード)を発明し、その後は本場アメリカで活動、ノーベル賞受賞に至る。
化学賞の方では、野依良治は20代で助教授、30歳でハーバードに行ってその後のノーベル賞に至る実績の地盤を形成し、その3年後には帰国、名古屋大で教授になっている。


科学者はその多くが、30代ですでにその代表する功績を残している。(ガリレオ湯川の設定は30半ばといったところ)
社会に出て10年後くらいというのは、実証を必要とする分野だからそれなりの研究機関に在籍する必要があったればであって、さらに純粋な思考学問の分野であればもっと若く、例えば理論物理学者のアインシュタインは26歳で特殊相対性理論を完成させている。同じく数学などは、ノーベル賞の対象外だが「天才」はむしろこの分野に多く輩出しており、その大多数が10代20代で輝かしい業績を残している。(というか、脳が硬化する年寄りに天才的数学者は現れない)

しかるに、母校の研究室にとどまり、十年以上さしたる変化なく過ごし、さらに言えば退屈紛れに自身の研究に関係ない犯罪事件の検証にかかずらわるガリレオ湯川准教授は、同列の数多いる准教授と大した差のない凡人と言えるように思う。

第一、ガリレオ湯川は自分の知識の引き出しで事足りる推理で事件を解決しているのであって、自然科学における新たな発見をしているわけでは決してない。
本当の天才的思考というのは「新たなる発見」を手探りの中で見つけ出すことではないだろうか。
であれば、ガリレオ湯川はただの「頭のいい人」に過ぎないと言っても差し支えないだろう。

いや無論、我らさらに凡俗なる一般人からすれば、学術の道に残るだけですでに「頭がいい」ことの証左であり、それを賞賛するにやぶさかではないが、そうした人たちが集まる世界にあっては、そこから抜きん出る「天才」を感じるにはガリレオ湯川はあまりに凡庸なのだ。


ガリレオ湯川は彫刻も創り、スカッシュやロッククライミングに長じ、料理もプロ並み、他にもどんなことであれ理論的に解析して卒なくこなしてしまう器用さを持っているらしい。
それらをして「天才」の印象を強くさせようとしているのだろうが、むしろそれらは「凡庸さの証」に過ぎないように見える。

つまり、どれひとつ「抜きん出る才」つまり「天才」を持ちえていないのだ。
それらは他の教授准教授とは違うという「差異」を示すためだけに設定されている「言い訳」のようなものに過ぎないだろう。


ガリレオ湯川をイメージするとき、どうも僕は推理小説家森博嗣を思い出すのだが、工学博士であり准教授であり(あった)売れっ子小説家でありイラストレーターでもある、マルチプレーヤーの彼にしても、どうも僕は筒井康隆の『文学部唯野教授』のような人物像を想像してしまって、けっして並外れた「天才」と感じることはない。
おそらく日本中の大学の教授准教授のたいていが、森博嗣のようなあるいは唯野教授のような人たちなのだろうなと思えてしまうのだ。

つまり豊かな才能を感じることはあっても、「天才」を感じることはないのだ。



思い起こすに推理小説の探偵役は、ある種の類型に集約される。
その代表格はシャーロック・ホームズを祖形とする「天才型」だ。

快刀乱麻の推理によって事件を解決させる「天才型」は、読者のカタルシスを満足させる便利な設定だ。
明智小五郎も法水麟太郎も、御手洗潔、中禅寺秋彦、犀川創平、矢吹駆にしても、どれも気難しい理論家の博覧強記な男性ばかりで、ガリレオ湯川もまさしくこの系列と言える。

彼らは決まって自らの頭脳をもてあましていて、犯罪捜査の片棒を担ぐことでそれを浪費している。
彼らは「天才」の素養があるのかもしれないが、不幸なことにそれを望むべき分野に発揮することが適わず、(本人にとっては)無駄に犯罪事件に浪費しているにすぎない。
つまり、「天賦の才」は現れてはいないのだ。

「天賦の才」を表す物語を作ったら、それは論文か伝記になってしまって犯罪推理小説にはならないだろう。
つまり、彼らがミステリーの主人公である限り、彼らは決して「天才」なんかではないと言える。


何かを成しえた者こそが「天才」の称号を授かるに相応しい者であり、成しえる以前は単なる「頭のいい人」に過ぎない。
その事実に向き合って、ガリレオ湯川は自らの成しえる可能性を見定めたのかもしれない。
自分は物理学においては天才ではないから、その思考力を犯罪捜査に活用して、せめてその分野で「天才的」の称号を得ようと、おそらくは「無意識の内に」願望しているのではないだろうか。


『ガリレオΦ』には真性の「天才」が登場している。蟹江敬三扮する犯人である。
彼は中学卒ながら独学で金属工学を学び、高度な論文を発表、「金属の神様」だか「巨匠」だかと呼ばれる人物となる。
そして彼はその知識を犯罪に利用するアイデアを創出する。

その「創出」こそが「天才」の証しだ。

ここでガリレオ湯川は「天才」の作ったパズルを解答するだけの、言わば一消費者に過ぎない。
最初に原作者自身、ガリレオ湯川を本当の「天才」と設定してはいないだろうと言ったが、それはこの『ガリレオΦ』の副題からも読み取れる。
『操縦る』と書いて「あやつる」と読ませるらしいこの副題が表すのは、凡人ガリレオ湯川が天才蟹江にいいように利用される構図だ。

同じ構図は『容疑者xの献身』にも見られる。
大学時代ガリレオ湯川がただ一人「天才」を感じた友人が登場するこの物語は、そんな「天才」が社会で何の功績もたてずに燻っていること、さらにその抜群の思考能力を犯罪において発揮するしかなかった悲劇を描く。
そしてそこでもガリレオ湯川は、犯行を練り上げた友人の知能を畏敬する。

ガリレオ湯川は犯人こそが本当の「天才」であって、自分はそうではない事を実感するのだ。
その思いがあるからこそ、自分のゼミ学生の長澤まさみが自身の進路に、研究室に残らず警察の分析官を選ぶ事を祝福したのだろう。

使われない頭脳は何の能力とも成りえない。
象牙の塔に残って無為な時間を過ごすより、その思考力を社会のために使った方がいいのだ。


いや、もう一歩突き詰めて考えれば、社会に役立てられた時(それが犯罪のような負としてでも)はじめて「天才」は顕現すると言えるだろう。

ここで再びマイミクMurrariさんの日記を引用する。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=949979516&owner_id=1133361

>天才とは発見される物であり、それ自体としてはどこにも存在していない。
天才を見出す側にこそ天才は存する。

この命題を僕はスタニスワフ・レムの『完全なる真空』の中で読んだことがある。

短編集『完全なる真空』の中の(たしか)『イサカのオデュッセウス』で主人公は、人類の歴史は一握りの「天才」によって作られるのだが、「天才」は凡人にはなかなか見極められないものゆえ、歴史の中で見過ごされてしまった「天才」を再発掘しなければならないとの使命感に燃える。

だが、それは失敗に終る。
なぜなら発見されなかった「天才」は、社会からどんどん遠ざかっていく性質を持つものだからだ。


主人公はその発掘で真性の天才的所業と呼べるものを発見する。それは現在の数学とはまったく違った思考で展開する計算法だった。
その独自性はまさしく「天才」的なものと言えるが、あまりに独自であるため現在の数学が築き上げたような広がりがない。一方数学は、連綿たる「天才」達の功績によって、不完全なものではありながら、人類のとって不可欠な財産となっているのだ。

発見された計算法が例え数学より優れたものだったとしても、もはや数学にとって変わる事はありえない。
かように「天才」は、発見されなければその価値を他の「天才」によって漸次的に減少させてしまうものなのだ。

そこでイサカのオデュッセウスたる主人公ははたと気付く。
その発掘行で発見された「天才」は、他でもない、発見する側の自分自身であったことを。


「天才」とは単なる「構成」に過ぎない。
それを利用する側、その発意と結果にこそ「天才」性が存するのだ。
例えれば、数学の定理はそれがどれだけ独創高度なものでも、それだけでは何の意味もない。その定理を使って何かを計算した時に価値が生まれる。この計算にその定理が使える事を見極め、利用する事こそが肝要なのだ。
同じように「天才」は利用されてはじめて「頭のいい人」から「天才」ヘと転換されるのだ。


そうしてみると、『ガリレオ』の中に登場する「天才」とは、湯川准教授ではなくて、柴咲コウ演じる新米女刑事と言う事になるのかもしれない。




ところで話は違うが、『容疑者Xの献身』で柴咲コウが歌う挿入歌『最愛』は、サビの部分が絢香の『月』にそっくりすぎやしないか。まねるにしてももうちょっと昔の曲にすればいいのに。
福山雅治は「天才」じゃないな。

まぁ、どうでもいいんだけど。
0 9

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する