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2024年04月30日07:38

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メインコンテンツ「哲学」の第一弾 → ジョン・スチュアート・ミル 47 三 ミルの価値観 ー 人間と価値 (二) 経済体制の価値

(2) 平等 2

 ただ、この平等基準にもとづく所有権の認定は、実は、その人の労働によって取得されたものをその人の所有として認める、ということを基本とするものであるので、たとえその結果として所有上のアンバランスが生じても、それが必ずしも、分配上の正義にもとることにはならない、という論理を成立せしめることになります。しかしこれは、あくまでも個的所有の形態にもとづく想定といえるでしょう。かりに共有形態のもとにおいてであると、このアンバランスは平等基準から生ずるというよりは、むしろ別の基準、たとえば効率基準によるもののように思われます。

 かくしてまた、この社会的価値としての平等基準の現実的適用の第二としては、所有形態の問題がみられてきます。「所有形態の観点から見れば、共有から発し、私有の諸形態をへて、共有に復帰する、という円環状をなす。こうした直線型の進歩史観と円環型の復古史観の統一の原理こそ、マルクスがヘーゲルから継承した『弁証法』に他ならなかった」と評する歴史観は、ほぼミルにおいてもみられたと言えるでしょう。たしかにミルは、『経済学原理』の第四編第七章「労働諸階級の将来の見通し」で示された所有形態は、少なくとも私有制から共有制を志向するものであります。すなわち、ミルにおいては、資本主義体制より高次の後続体制における所有は共有的形態となるものであることを示しています。では、この私有から共有への転化が、いうところの平等とどのように関連するものなのでしょうか。この点についての解答は、次のようなミルの一節のなかに読みとることができるでしょう。

「もしも、公共的精神、あるいは偏見のない感情、あるいは真の正義と平等とが要望されるかぎり、これらの美しい資質を育成する学校となるのは、利害の孤立ではなくして、その結合である。進歩向上の目的は、ひとり互いに他の人たちがいなくともやって行けるような状態に人間を置くばかりではなしに、また人間が従属関係を含まない関係において互いに他の人たちとともに、また他の人たちのために働きうるようにすることでもなければならぬ。今日までのところでは、自分の労働によって生活する人たちにとっては、各自自分だけのために労働するか、さもなくばある雇い主のために労働するほか途がなかった。しかしながら、集団の結成がもっているところの文明化し向上せしめる力と、大規模生産がもっている効率と節約とは、相反する利害と感情とを有する二つの党派に生産者たちを分裂させなくても、また労働に従事する多数の人たちを、資金を供給する一人の命令のもとに立ち、およぶかぎり少ない労働をもってその賃金をとるというほか、その企業にたいし何ら自分自身の利害関係をもっていないところの、単なる被使用人たらしめなくても、これを確保達成することができるであろう。……そして、雇主と労働者という関係が、ある場合には労働者と資本家との共同組織という形態、他の場合には……そしておそらく最後にはすべての場合において……労働者たち同志のあいだの共同組織という形態という、二つの形態の一方における組合営業によって取って代わられるようになるであろうということ、このことにはほとんど何の疑いもありえないのである」

 みられるように、ミルは、美しい資質として、公共精神、偏見のない感情、真の正義と平等をあげ、それらが育成されるのは利害の結合においてであり、その場合の仕方は従属関係を含まないことだとします。ここから共同組織形態を将来像として措定するわけでありますが、従属関係を含まない共同組織は、一方では私有の公有への移行をもたらし、他方では、そこで完全な平等を、すなわち完全な自由が成りたつことになるとみることができます。

 このように解釈すると、共同化を媒介に、私有から公有への移行と、真の平等とが表裏の関係をもつことなるのでしょう。しかも、従属関係を含まない共同組織化が進歩向上の目的であるいうところから、公有と平等を基調に形成された社会体制は、少なくともより高次の体制としてみることができるでしょう。

 こうした諸点からみて、社会的な価値としての平等の定立は、経済体制はもちろん、社会体制の評価と選択にとって第一義的な重要性をもつ、ということが認定されざるをえないのであります。



参考文献

 『ミル自伝 大人の本棚』
   ジョン・スチュアート・ミル(著) 村井章子(訳) みすず書房
 『新装版 人と思想 18 J・S・ミル』 著者・編者 菊川忠夫 清水書院
 『J・S・ミル 自由を探究した思想家』 関口正司(著) 中央公論社
 『世界の名著38 ベンサム/ミル』 早坂忠(訳)  中央公論社
 『J・S・ミル 自由を探究した思想家』 関口正司(著) 中公新書

 『福祉国家を越えて――福祉国家での経済計画とその国際的意味関連』
    カール・グンナー・ミュルダール(著) 北川一雄(訳) ダイヤモンド社
 『社会科学と価値判断』
    カール・グンナー・ミュルダール(著) 丸尾直美(訳) 竹内書店

https://www.youtube.com/watch?v=eiKBDCP6ojk
   【10分で解説】『功利主義』まとめ(ベンサム、JSミル)


 次回は「(3) 効率」




参照のために前回の分 ↓

 分配の平等問題については、まずもって、この平等が社会的価値として選定されるにいたる経緯を考察してまいります。

 平等をひとつの社会的価値として選択する見地は、けっして一様的なものではありません。しかし、ミルの平等観は、すでに述べたように、ベンサムの原子論的な社会把握ないし方法論的な個人主義の立場にあるものとして、それ独自のものということができます。そこでは、各個人は数量的な一として数えられ、社会はそれらの総計量として把握されるのです。したがって、そこでは、人間的価値における平等化が前提となって、社会的価値の定立が可能とされることになるのであります。

 つまりミルは、「功利」または「幸福」をもって、人間行動の指導準則(the directive rule)とみなし、「功利主義の基準は、行為者自身の最大幸福ではなく、すべての幸福の総計の最大である」として、幸福の総計が最大になるよう個人の幸福が考慮されるべきことを説いています。そして、いうところの個人の幸福がどうあるかについては、さらにこういっています。「何が正しい行為かの功利主義的基準となる幸福は、行為者自身の幸福ではなくして、関係する人すべての幸福である」。つまり、この行為者のみでなく、それをも含めた関係者全体の幸福という発想は、幸福の質料的側面を問わず、各人にとっての幸福が同等であるときに、総計としての幸福が最大であるとみなされなければならない、ということになるでしょう。しかし、この幸福の同等性は、ベンサムのように快楽と苦痛という二要因で一元化して、計量的把握においての同等性と解することによるのではないのです。この点は、若き頃のミルが、ベンサム批判のなかで、人間の行為ないし性格は三つの相において把握されるべきことを主張しています。すなわち、それは「道徳的な相」(its moral aspect)、「審美的な相」(its aesthetic aspect)および「共感的な相」(its sympathetic aspect)であります。したがって、人間の性格なり行為が、この三つの相において構成されるものであるならば、それは必ずしも軽量化しうるとはいえませんし、この点からしても、幸福すなわち価値の最大化は、たんに概念的にのみ把握されるにすぎないことになります。そしてそれが現実的に把握しうるのは、各人にとっての幸福すなわち価値が同等のものとされたときにしてはじめて可能である、ということができるでしょう。

 こうして、ミルが究極価値として「最大幸福」を設定するとき、それを達成するものとしての第二次的な一つの社会的価値として、「平等」を定立するにいたった経緯が理解されるのです。ところで、経済的領域において、この社会的価値としての平等基準の現実的適用としては、第一に、動産的所有としての私有財産権や不動産的所有としての土地私有権に向けられるのであります。まず、動産的所有については、各人の自らの労働によって取得したもの、合理的な契約ないし取引によって取得したものは、その人の占有や自由処分を認めるというものであります。これを所有の基本形態とされました。そしてまた、限定条件をふすことによって、平等基準にもとらない所有として、遺贈、贈与および相続権と、土地所有権が認定されるとしたのです。とりわけ、そのなかでも、相続権は経済ストックの世代間の分配問題として、分配の正義(公的価値)についての特異の視覚をもつものとして注意されるべきであり、また土地にしても、それがもともと自然的産物を特定の個人や集団に排他的に所有させるということを認めるという意味において、その所有権の論拠は十分に説得的でなければなりません。この意味からすれば、ミルの平等基準とその適用は、今日でもなお再評価されるに値するものであると考えます。
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