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2024年01月21日05:55

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[(^O^)の興味]2023.10.22 「不死の科学」は残酷な噓 まったくその通り

23/10後半の新聞を読み倒そうかな

と思って、ページをあけたとたん

このシェリー教授の直言にだいぶ絆されて

つい、コピペをしてしまった(^O^)


私自身は『私とは脳である』と考える

これは(^O^)も全くその通りと考える

というのも、だいたいは自分が思っていることが

脳を通じて現実化されている、

この事実に少しも抗うことが出来ないと

昨今、よく思っているからだ


ひとは目でみた現実しか、そう顕在化した事実しか

実際に認識することが出来ない


で、ほぼ思っている通りのことが

事実現実となって、生活となって

いまの自分にあるということ


なので、仮に不死の科学が現実化して

自分のクローンが出来たとしても

おそらく、そのクローンがひととしての

認識を持った途端、それはまた別個の脳を持った自分以外の

ひととして、生活を始めるに違いない

なので、シェリーさんが言っている通り

ひととしての脳を認識した瞬間、

自分と思っているクローンはすでに自分ではなくなっているに違いない

そうなれば、「ひとのクローン」というのは基本的に成り立たないことになる

やっぱ、タブーというのはあるのかもしれない


『あなたは実はクローンだ』と知らされても、その事実を簡単に受け入れることはできないだろう

これまたその通りだと思う

クローンでも、母体から生まれたひとでも、ひとたび脳をもって稼働を開始すれば

もうそれは一個の人間なのだろう

だから、やはりその個体が日々の経験を通して

現実というものに「生きる」

そうして、脳の背後にあるこころにアクセスすることに

よって積み重なっていく人生

これでこそ、ひとは生きているといえるのではないか


「現実でこそ心は満ちる」

その通り、やっぱひとのクローン成り立たない

心が満ちるのはクローンでも人間でも何ら変わらない

おそらくクローンにも人権はあるのだろう

いや、当然のこと

それが受け入れないようでは

(^O^) ぢゃない


ああっ、何時の間にかシェリーさんに触発されて

こーんなに持論をぶちかましてしまった


さぁ、すこしクールダウンして

改めてシェリーさんの記事を

読み直してみようか(^^♪

スマイルにこにこスマイル


〈直言×テクノ新世〉「不死の科学」は残酷な噓 シェリー・ケーガン氏
米エール大教授

2023年10月22日 2:00

人間の意識をデジタル保存し、クローン技術で死んだ生命をよみがえらせ、仮想現実の中に故人を呼び出す――。近年注目を集める「不老不死」のテクノロジー。それは私たちの人生と社会をどう変えるのか。「『死』とは何か」などの著書で知られる米エール大学の哲学者、シェリー・ケーガン教授の考察を聞いた。


 人類は古来、永遠の命を夢見てきた。だが「老いない」「死なない」ことははたして本当に幸福なのか。そう問うとき、テクノロジーの問題が哲学に突き当たる。
――先端医療やIT(情報技術)の革新によって不老不死が可能になるという見方もある。米テック企業の創業者らがそうした企業に出資しているとも報じられている。

「現在80歳くらいにまで延びた寿命が今後、20年、30年、40年と延長する可能性はある。だが人間が死を乗り越えられるというにはほど遠い」

「長寿と不死は違う。医学の進歩によって人間の寿命が仮に500歳になったとしても、そこで命が尽きるのならそれは不死ではない。人間が死の宿命に終止符を打つことはない」

――そもそも超長寿化の恩恵を、誰もが平等に得られるだろうか。

「裕福な人間がお金で健康な肉体を維持し、プラス80年の人生を気ままに旅行して過ごすのは結構なことだ。だが、それがかなわない人はどう思うか。いま既に富裕層と労働者階級の間には緊張がある。技術革新によって生命の格差が大きくなっていけば、おそらく革命が起こるだろう」

――人間の意識を電子的に保存する「マインドアップロード」(意識の移植)の可能性を探る研究が始まっている。肉体が死んでも、意識が残れば「生きている」と考えてよいものだろうか。

「脳の持ち主が私である」
「『私とは肉体である』という見方と『私とは人格である』という見方をそれぞれ支持する人がいて、さらに『私とは魂である』という第3の見方をする人もある。どの立場を取るかで答えは変わってくるだろう。私自身は『私とは脳である』と考える」

「たとえば体が衰えはじめたので、脳を取り出したとする。それを新しい人工の身体に入れる。この人工身体は自分だといえそうだ。では腎臓移植を考えてほしい。移植を受けた人のアイデンティティーが腎臓の提供者に入れ替わりはしない」

「脳を移せばアイデンティティーも一緒に移るが、腎臓を移してもアイデンティティーは変わらない。つまり脳の持ち主こそがその人だと我々は考えている。脳が朽ちてしまえば、その人は死んだことになる」

「アップロードした意識は単なるコピーだ。不死のテクノロジーと考えられているものが与えてくれるのは『私の模造品』であり、現実を代替するものでしかない」

――とはいえ、記憶や思考がアーカイブされれば、死に対する恐怖は薄らぐのではないか。

「私の死後、生前書き留める機会がなかったものも含め、自分の思索を人々に知ってもらえる電子的なアーカイブができるのなら、ただ死んでしまうよりはずっといい」

「しかし、10歳の私と今の私が違うように、人間は加齢とともに変化していく存在だ。『アーカイブの私』はチョコレートを味わうとか、美しい夕日をみるとか、愛する人と手をつなぐとかいったことを新規には体験できない。だから『アーカイブの私』は変化しない。それが生身の私と決定的に異なる点だ」

「仮に映像を見せるなどして『アーカイブの私』に疑似的に何かを体験させても、それは生身の人間の経験とは本質的に異なる。人生には終わってしまうには惜しい、すてきなことがたくさんある。自分をアーカイブできるとしても、その気持ちは変わらないだろう」

「現実でこそ心は満ちる」
 メタバース(仮想現実)やクローンの技術を使えば、自分の「分身」を作れる。こうしたテクノロジーが生み出す「夢」で私たちの心は満たされるのだろうか。
――現実の代替にすぎないとしても、仮想現実に期待する人もいる。死んだペットのクローンを作るというサービスも登場している。


「離別の悲しみを技術によって少しでも癒やそうとすること自体に倫理的な問題はない。もし死んだ人やペットと仮想的に会えるプログラムを体験したら、何らかの感情的な共鳴や満足感があるはずだ。古い写真を見たときや、手紙を読み返したときに得られる喜びがあるように。ただ、愛する対象がこの世にもういないという事実を忘れさせるレベルに達するには、大きな技術的進歩が必要だろう」

「クローンも同様だ。仮に死んだ我が子のクローンを作ったとして、その子は自分の子だといえるだろうか。それは『死んだ子供の模造品』にすぎないと私は思う」

「私たちはみな誰かを愛する。それは相手が持っている特性のためだ。頭が良く、容姿に優れ、ユーモアと思いやりがある誰かを好きになったとする。でももしそのすべての点で優越する別の人が現れたとして、あなたは最初に愛した人のもとを去るだろうか。『死者の模造品』が死者を代替できないというのはそういうことだ」

――クローン技術についてはかねて倫理的な議論がなされてきた。何が問題だと考えるか。

「死んだペットのクローンを作ることはべつにかまわないだろうと私は思う。だが人間のクローンを作ることは間違っている。クローンの人間にも当然、心がある。その人が、自分は誰かの肉体の模造品だと知ったら、どんな気持ちになるかを想像するといい」

「私は70年近く生きてきたと思っているが、実は15分前に誰かの記憶を移植されたクローンだとする。『あなたは実はクローンだ』と知らされても、その事実を簡単に受け入れることはできないだろう。記憶まで移植するのは極端としても、誰かの身体をもとに別の肉体を作る行為は、人間存在に対してこの上なく残酷な噓をつくことだ」

――「分身」のテクノロジーにはやはり限界があるということか。

「仮想現実というものを、私はそれほど素晴らしい代物だとは思っていない。仮想現実がテーマの映画『マトリックス』が登場する前から、哲学者たちは『経験機械』と呼ばれる思考実験をしていた。脳を直接刺激して実際の経験と同じように感じられる装置が発明されたとして、それは有用だろうかという議論だ」

「エベレスト登山の仮想体験をできる装置を想像してほしい。風をほほに感じ、ヒマラヤ山脈がはるかかなたまで続いているのが見える。すべてがリアルで、被験者はこれが仮想現実であることには気づかない」

「『そのような装置を使って残りの人生を過ごしたいか』と私は学生たちに尋ねてきた。イエスと答えるのはいつも一握りだ。なぜかというと、仮想世界でいくら素晴らしい体験をしても、現実の自分が何も成し遂げていないのはやはりむなしいことだからだ」

「友人や家族に愛されているという実感、自分の子供に注ぐ愛情、これらすべてがただの電気的な刺激でしかないとしたら、その『人生』を肯定することはできない。あなただってピュリツァー賞を受賞する仮想現実を体験するより、本物のピュリツァー賞をもらう方がいいだろう?」

 Shelly Kagan 1956年生まれ。道徳哲学や規範的倫理の分野の研究で知られる。米エール大学で95年から教壇に立ち、死についての講義動画は世界中で再生された。講義内容をまとめた書籍「『死』とは何か」を2012年に発表。中国や韓国など東アジア諸国でもベストセラーとなった。

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