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2022年12月08日00:00

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左官の長兵衛さんは、果たして【善人】なのか?

古典落語には様々な噺がありますが、中で『文七元結』という噺があります。
名作中の名作との呼び声も高く、人によっては1時間を超えるような長講になり
トリネタと呼ぶに相応しい、超重量級の人情噺です。
中国に原典のある噺で、
名人・三遊亭円朝師匠が創作されたものです。


しかし私はこの噺に関して、
どうしても引っかかるところがあるのです。


本所達磨横丁に住む左官の長兵衛さん。
娘のお久が一年間だけ女中奉公する約束で、
吉原の角海老から五十両という大金を借ります。
吾妻橋にさしかかると、主家のお金五十両を盗られて
身を投げようとしている商家の手代、文七に出会います。
『五十両が無ければ死ぬ』という文七に、
長兵衛さんは無理やり五十両を与えて去ってしまいます。


結局、文七が盗られたと思っていたお金は、
訪問先に置き忘れてきたものだという事が判ります。
事の次第を知った商家の主は、文七を連れ、長兵衛さん宅を訪れます。
お礼のしるしにと、お久を連れ帰り、その後、文七とお久が結ばれ、
麹町六丁目に元結屋を開くという、人情噺の王道です。


噺家さんにより、多少の演出の差はありますが、
基本的に、腕はいいがちょっと自分に甘い長兵衛さんは、
とびきりの【善人】として描かれる事がほとんです。


そしてこの噺の眼目であり、最大の聞かせ所は、
吾妻橋の上での、長兵衛さんと文七のやり取りです。
そこで長兵衛さんは、娘が吉原へ身を売った大事な大事なお金を
初対面の見ず知らずの相手にあげてしまうのです。


これは・・善人の行為と言えるのでしょうか?
私は、その価値観が受け入れられない部分が、少なからずあるのです。


確かに文七は『お金が無ければ死ぬ』と言っています。
そこで長兵衛さんは、『この五十両が無くても、俺やお久は死ぬわけじゃねえ』
という理屈でお金を押し付けてしまうわけですが、
そのお久さんも、一年経ったらお客を取らなければならない悲惨な状況にあるのです。


お父つぁんのために、お父つぁんが立ち直るきっかけになればと
涙をこらえ、自ら吉原へ行くと言った健気な娘の気持ちを台無しにしてまで
その五十両を渡す必要があるのでしょうか?
それが【善人】なんでしょうか?


『文七を思いとどまらせる方法は、いくらでもあったはず』という
合理的な解釈を持ち出せば『それは野暮だ』と言われてしまうでしょう。
長兵衛さんの取った行為のように、多少理不尽ぽいところが
落語の味わいでもある事は承知しているつもりなんですが、
どうしても、長兵衛さんの価値観を100%認める事に
かなりの抵抗を感じてしまうのです。


この噺は、この上ないくらいの超ハッピーエンドになっていて
聞いた後の後味も、物凄く良いはずです。


でも、その【ハッピーすぎるエンド】にごまかされて、
長兵衛さんの【結果オーライの行為の罪深さ】を
断罪しなくてもいいのでしょうか?(大袈裟・笑)


私はこの噺を聞くたびに、
【お金が戻ってこなかった時の展開】を想像してしまい
『文七元結・ダークサイド』みたいなストーリーが頭を駆け巡ってしまい
ちょっとだけ鬱になったりするんですが・・それっておかしいですかね?(苦笑)


微笑亭さん太
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