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2022年05月22日05:50

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船橋っ子は佐土原藩(宮崎)の悪逆非道を決して許さない! 私たちは市川・船橋戦争を忘れない!

フォト


※画像は船橋っ子の心の拠り所船橋大神宮の灯明台

参考

【船橋大神宮灯明台】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%A9%8B%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E7%81%AF%E6%98%8E%E5%8F%B0

“御三家”という言葉がある。

先日亡くなられた西郷輝彦と並んで橋幸夫、舟木一夫を思い浮かべる人は憲さんと同年代か?

本来は尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家と徳川御三家のことを指す。

参考

【御三家】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%AE%B6

【徳川御三家】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%AE%B6

では、東京男子御三家をご存知だろうか?

男の子のご子息をお持ちの教育熱心な方ならご存知だろう。

“男子御三家”とは、東京にある進学校、開成中学校と麻布中学校、そして武蔵高等学校中学校の3校を指す。

いずれの学校も長い歴史と伝統を持ち、東京大学をはじめとする難関大学に毎年数多くの合格者を輩出している。

参考

男子御三家を徹底比較!開成・麻布・武蔵について解説します
https://bestjuku.com/article/3768

この御三家に数えられる麻布学園、憲さんの好きな役者のフランキー堺もここの学校の出身である。

参考

【フランキー堺】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A0%BA

憲さん随筆
憲さん現代落語論 「進化する落語」 柳家権太楼師匠の『居残り佐平次』を堪能する!
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2022/04/post-362c8d.html
(フランキー堺主演映画『幕末太陽傳』に触れている)

また、作家の安部譲二氏、発明家のドクター中松氏、元文部官僚の前川喜平氏などユニークな人材を排出していることでも知られている。

参考

【麻布中学校・高等学校】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E5%B8%83%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1

では、この学校の創始者を誰だかご存知だろうか?

江原素六という人だ。

この御仁、明治において教育者、政治家として活躍し後年には立憲政友会の結成に尽力し、1912年(明治45年)には貴族院勅選議員となり没年まで政治家として活躍した人である。

参考

【江原素六】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%8E%9F%E7%B4%A0%E5%85%AD

この方、憲さんの故郷船橋に少なからず因縁のあるお方である。

幕末期に我が船橋で大暴れしたのだ。

彼は幼名を江原鋳三郎(いさぶろう)といい、御一新の前には幕臣として徳川家に仕えていた。

そして、鳥羽伏見の戦いで幕府側の指揮官として奮戦したことが認められ、慶応4年(1868年)27歳の時に撒兵(さっぺい)頭に命じられた。

そして、彼は江戸から脱走した撒兵隊の部下を鎮めるため木更津へと向かった。木更津では、すでに意気盛んな兵士たちが徳川義軍府を真里谷の地に立てていたが、作戦・防戦計画は何一つなかったため、彼は作戦行動の指揮をとることになった。

参考

【撒兵】
https://kotobank.jp/word/%E6%92%92%E5%85%B5-511205

※注意!撒兵【さっぺい】であり撤兵【てっぺい】ではない!

そして北総方面へと進軍し、市川八幡の戦いから船橋海神の戦闘の中で奮闘したが弾丸で撃たれ、江原鋳三郎は負傷し江原隊は壊滅した。

いわゆる市川・船橋戦争である。

参考

【市川・船橋戦争】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E3%83%BB%E8%88%B9%E6%A9%8B%E6%88%A6%E4%BA%89

市川・船橋戦争とは幕府の直轄地であった市川・船橋の地に江戸から脱走してきた江原率いる撒兵隊が進軍して、新政府軍との間で行われた。戊辰戦争の南関東地方における最初の本格的な戦闘である。

参考

【江戸開城】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%96%8B%E5%9F%8E

ちなみにこれは同年5月15日に戦われた彰義隊による上野戦争より先の戦いとなる。

参考

【上野戦争】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E6%88%A6%E4%BA%89

この戦争によって市川と船橋の中心地は火災などにより壊滅的な被害を被っている。

しかし、この戦争は東北各地で行われた戦争に比べるとあまりにも資料や文献が少なく、また人口に膾炙(かいしゃ)することも少ない。

しかし、我が船橋の地で誇り高き徳川家の幕臣たちがあの憎き薩長を中心とした新政府軍と死闘を繰り広げていたことを船橋育ちの憲さんは忘れてはならないと思ったのは先日連休中に行った船橋の郷土資料館に行ったからだ。

参考

憲さん戦跡発見! 我が故郷習志野台の土中深くに眠る「二百三高地」 習志野名所「永久堡塁」の場所を探す!
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2022/05/post-a08d24.html

この郷土資料館で一枚の資料をもらった。

「船橋市域における戊辰戦争」というレジュメである。

この一枚の資料に船橋における戊辰の戦いがコンパクトにまとめられている。

この中には当時の戦闘を生々しく伝える住民の日記が紹介されている。

せっかくだから紹介しよう。

現船橋本町、当時九日村の住民が書いた「懼畏記(くいき)」である。

以下引用。

下総国八幡町にて戦争相始まる、 官軍方市川村辺え引き揚げ候よし、市川本村は残らず兵火のため焼失のよし、同日朝夏見村台上山新田地内にて戦争双方打ち死にこれあり候よし、同日昼四ツ時頃より大南風吹き出し、 鎌ヶ(「谷」脱か)村に御旅宿の官軍勢西夏見村え出張る、 それより船橋宿え出張る、関東方人数船橋宿に旅宿罷り在り、戦争に相成り、官軍方人数漁師町え廻り、風上より砲発、関東方敗走同日 (閏4月4日) 八幡町市川辺に戦争の関東方人数船橋え引き上げ来たり、西海神村下道にて行徳より出張りの官軍方に出会う、大戦争これあり 、双方打ち死にこれあるよし

※「官軍」は新政府軍に参加した各藩、「関東方」は撒兵隊のこと。

以上引用終わり。

そして、船橋中心地での戦いが以下の経緯である。

ちなみに江原鋳三郎は海神での戦いで負傷し、船橋中心地での戦いは堀岩太郎率いる船橋大神宮を本拠地とする第二大隊が担った。

敵の佐土原藩とはあの憎き薩摩藩の支藩であり現在の宮崎県を領地としている。

参考

【佐土原藩】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%9C%9F%E5%8E%9F%E8%97%A9

レジュメにはこうある。

以下引用。

(2) 上山新田 夏見村 船橋宿(の戦い)

 鎌ケ谷村に駐留していた佐土原藩兵は、同日(旧暦慶応4年閏4月3日)午前5時頃、 (市川)八幡方面での銃声を戦闘開始の合図と思い込み、藩兵約100人で木下街道から馬込沢を経由して船橋宿へ向けて進撃を開始しました。途中、上山新田、夏見村周辺で撒兵第二大隊前衛部隊と戦闘になり両軍とも戦死者が出ました。しかし、臼砲(臼型の大砲) と連発銃で武装した佐土原藩兵が戦いを優勢に進め、退却する前衛部隊を追いながら午前11時頃に船橋宿に突入しました。 佐土原藩兵は、臼砲隊を現在の本町通りにあるNTT船橋本町ビル付近に据え、第二大隊が本陣を置く大神宮へ向けて砲撃を開始するとともに、銃隊は二隊に分かれ御殿通りと漁師町の道を通って進撃を開始しました。第二大隊は応戦をしましたが、臼砲隊を大神宮の南に移動させて砲撃を加えたところ、砲弾の直撃を受けて大神宮境内が炎上したので、第二大隊は大神宮北の宮坂方面に避難しました。 さらに、この辺りでも佐土原藩兵と激しい戦いが行われて、火が宮坂まで及んだため、第二大隊は大和田方面に退却しました。その後も第二大隊の残兵が激しく抵抗を続けたため、 残兵を焼き出すため佐土原藩兵は船橋宿に放火しました。この火は東南の強風にあおられて、図3(割愛)のように船橋宿の約50%以上の家屋が焼失し、多数の罹災者が出ました。船橋大神宮境内には、この戦いの時に被弾した木の子木が、写真1(割愛)のように、現在も注連縄を張られて、神木として祀られています。

以上

このように、我らが撒兵隊は船橋大神宮に陣取り、わずか500メートルの至近の現在船橋駅前通りと本町通りの交差点に陣取った佐土原藩との砲撃戦を繰り広げたのである。

参考

船橋郷土資料館
戊辰市川・船橋戦争
https://www.lib.city.funabashi.lg.jp/index.html?id=2

・・・・・・・・・

話を御三家の話に戻すが、千葉県の県立高校御三家というと千葉高、東葛高校、そして我が県立船橋高校である。

その学力においては東京の“御三家”には遠く及びもしないが、千葉県では少しは名が知られた高校らしい。

この我が母校県立船橋高校は船橋中心街から東にある宮本台地に立地している。

参考

【千葉県立船橋高等学校】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E8%88%B9%E6%A9%8B%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1

この母校から目の前の県道を西に向かうと大神宮の坂になる。ここが宮坂といって船橋戦争で撒兵隊第二大隊と佐土原藩兵との激戦地となったところである。

参考

船橋中心部の地名(下)
https://www.keiyogas.co.jp/company/approach/fureai/chimei_detail_3.html

この憲さんの母校は1918年に船橋大神宮隣の庄左右衛門宅別棟を教室として創立している。

1920年には船橋中学院と改称され教室が大神宮客殿に移転した。

その後1924年に現在地(当時、船橋五日市台宿)に移転した。

ということで我が母校と船橋大神宮(意富比神社)はただ近いというだけでなく切っても切れない縁があるのだ。

その船橋市民が初詣に殺到する愛してやまない船橋大神宮にこともあろうか臼砲を撃ち込み、その神域を灰塵に帰すなど神罰をも恐れぬ悪行!

まさに佐土原藩の行為は鬼畜の所業と言っても過言ではあるまい!

憲さんは船橋高校のOBとして、そして船橋に育った者としてこの新政府軍佐土原藩の所業を絶対に許しはしない!

そう、心に深く誓うのである。

・・・・・・・・・

その我が母校船橋高校と意富比神社(船橋大神宮)の間に古刹了源寺がある。

参考

【了源寺】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%86%E6%BA%90%E5%AF%BA_(%E8%88%B9%E6%A9%8B%E5%B8%82)

この寺は船橋戦争で当時の五日市村が火の海となって近くの東光寺や慈雲寺が焼失したにも関わらずどうにか戦火を逃れたようである。

この寺、徳川幕府とも因縁があり、幕府が試射用の大砲を設置し、享保年間(1716〜36年) にはここから東方の野原に向けて試射を行っていたという。

鐘楼の石垣の下には市川・船橋戦争の戦いで戦死した幕府軍兵士「菅野鋭亮」の墓が存在している。

菅野鋭亮元資(28)は新政府軍の執拗で残忍な残党狩りで首を斬られ、その首が了源寺門前に放置されていたという。

まだ若い身そらでなんとも可哀想に。

悔しくて涙が出る!

合掌。

このように、船橋では市川・船橋戦争の後、西軍・幕府軍に関わらず、戦死者の弔を行ったとされるが、西軍側の戦死者を弔う立派な墓は全国各地に多くあるが、幕府軍を「脱走(だっそ)様」と敬称を付けて葬った船橋の例は全国的にも珍しいと云われているらしい。

参考

旧幕府軍「脱走様」が残した銃弾入れ 逃げ込んだ民家に
https://www.asahi.com/amp/articles/ASLBV7TM0LBVUDCB00S.html

西軍の連中に比して、船橋の住民の慈悲深さを象徴するエピソードである。

新政府軍の無慈悲ぶりはそれだけではない。

奴らは船橋の戦いで、放火、略奪、神仏破壊、そして、強姦を欲しいままにしている。

これは薩摩藩島津家の分家、佐土原藩島津家による戦術で西郷隆盛の命令によって行われ、それは江戸城明け渡しを促す挑発でもあった。

西郷許せん!
 
佐土原藩の兵たちは村の娘を拐(かどわ)かし、その肉体を蹂躙、古作(現中山競馬場近く)では15〜6歳の若い娘たちを輪姦したが、野原に響き渡る娘達の絶叫は誰にも届くことがなかった。

弄ばれた娘たちは女郎屋へ売り飛ばされ、娘は戦利品の一種として捉えられていたというのが史実らしい。これは船橋・前貝塚の寺の伝承となっている。

こんな傍若無人な連中が政権を奪取して作り上げた国家がどのような行く末なのかは歴史が証明したところである。

これについては過去の数多(あまた)の憲さんの随筆を参照してもらいたい。

参考

市川・船橋戦争 (船橋の戦い)
http://photozou.jp/photo/show/2506004/220754141

このサイトは市川・船橋戦争の経緯がコンパクトにまとめられていてわかりやすい。

このように、私たち船橋に縁故のある者は新政府軍、明治新政府、そしてその血脈を引き継ぎ何の反省もしていない現政権に対して歴史的総括を踏まえ断固として「NO!」の声を突き付けねばなるまい!

市川・船橋戦争はもはや知る人ぞ知る戊辰の「知られざる戦争」として埋没してしまいがちだが地元船橋から「私たちは市川・船橋戦争を忘れない!」「新政府軍・佐土原藩の暴挙を絶対に許さない!」の声を挙げていかなくてはいけない。

船橋は五日市の台宿の地の学窓を巣だった者としてこの事は声を大にして訴えたい!

どーよっ!

どーなのよっ?

※参考文献
山形紘著『市川・船橋戦争 : 幕府陸軍撤兵隊始末』

※市川・船橋戦争についての文献は極めて少ないです。

あと、内田宜人著『遺聞 市川・船橋戊辰戦争―若き日の江原素六‐江戸・船橋・沼津』がありますが江戸川区の図書館には蔵書がありません。

参考

『遺聞 市川・船橋戊辰戦争―若き日の江原素六‐江戸・船橋・沼津』
https://www.amazon.co.jp/%E9%81%BA%E8%81%9E-%E5%B8%82%E5%B7%9D%E3%83%BB%E8%88%B9%E6%A9%8B%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89%E2%80%95%E8%8B%A5%E3%81%8D%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%B1%9F%E5%8E%9F%E7%B4%A0%E5%85%AD%E2%80%90%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%83%BB%E8%88%B9%E6%A9%8B%E3%83%BB%E6%B2%BC%E6%B4%A5-%E5%86%85%E7%94%B0-%E5%AE%9C%E4%BA%BA/dp/4845510626

誰かこの戦争についての書籍や史料、参考サイトを知っていたら是非とも教えてください!
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