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2022年01月28日18:19

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憲さん、21世紀の国語教育を考える 今回は文部科学省に軍配が上がりますな!

フォト

※画像はくだんの東京新聞記事

正式には「文部科学省初等中等教育局視学官」という肩書きだそうである。

大滝一登視学官である。

参考

https://researchmap.jp/read0148876

「官」とつくから官僚なのであろう。

「視学官」とは初めて聞く言葉である。

調べてみる。

【視学官】
1 旧制度で、文部省および地方に置かれた教育行政官。地方に置かれた視学官は視学の統轄および学事の視察や教員の監督を行った。
2 現制度で、文部科学省に置かれ、学校教育に係る専門的、技術的な指導・助言を行う職。

現在は(2)の意味なのだろう。

では、「視学」とは何か?

「当初は、見識の高い教師が一般教師を指導し資質を高めるという教育的な面を持っていたが、明治20年(1887年)代から教員、教育事務の監督を主任務とする教育行政的な性格に変化した。また視学は次第に教員の人事や思想統制に大きな影響力を持つ存在となり、教育現場で恐れられるようになった。」

参考

【視学制度】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%96%E5%AD%A6%E5%88%B6%E5%BA%A6

戦前は教員の思想統制に影響力を振るった悪名高い官職だったのであろう。

その、視学官の意見が東京新聞の「考える広場」に掲載されている。

憲さん、官僚を誉めるのは滅多にないが、この人の意見には大いに賛成である。

・・・・・・・・・

先日の東京新聞夕刊文芸コラム「大波小波」にまたしても高校の国語教育改革に対する批判が掲載された。

「共通テスト『実用文』の行方」という題で以下の通りである。

以下、全文引用。

 ほら見たことかと言うべきか、大学入学共通テストの国語で、結局「実用文」は今年も出題されなかった。試行調査の段階では、駐車場の契約書やら高校の生徒会規約やらグラフやらが出題され、大きな物議をかもした末に、昨年の第一回も、そして今年も、影も形も見えなかった。喜ぶべきとはいえ、そのための対策をしてきた受験生とその周囲に混乱をもたらした責任をどこに問えばよいのか。
 記述式設問が早くに中止を表明されたのに対し、実用文に関してはなんら明確なメッセージが発せられてなかった。二年続けて出なかったということは、もという今後も出題されないと考えてよいのだろうか。文部科学省は見解を示すべきだ。
 先日、新学習指導要領で、実用文評論系になるはずだった「現代の国語」に小説を載せた高一の教科書が、シェアでトップだったというニュースがあった。大学入試に関しても高校国 語に関しても、このたびの大改革は大改悪だったという結論はもう見えている。
 「聞く力」を訴えている首相に倣い、文科省は朝令暮改のそしりを恐れず、現場の望むかたちに戻すべきだ。相手の言葉を聞き、当事者の主体性を生かすことこそ、今回の改革の骨子だ たのだから。 (朝三)

以上、引用終わり。

この「朝三」氏は今回の共通テストの出題傾向をもって「このたびの(高校の国語)大改革は大改悪だった」と結論づけているが果たしてそうであろうか?

憲さんから言わせれば「実用文」の学習は極めて実践的であり、それがテストに出ようが出まいが将来それを学習した者の糧となることを確信している。


このような感情的な「文学至上主義」の「高校国語改革批判」に対してそれを主導した立場で理性的反論を試みたのがこの大滝一登視学官である。

18日付けの東京新聞「考える広場 21世紀の国語教育」から彼の意見を抜粋する。
  
リード
 新年度から高校の国語教育が大きく変わる。教材に実用的な文章が入り、生徒が主体的に学ぶアクティブラーニングも導入。時代に即した改革というが、さまざまな批判の声が上がる。今、国語を学ぶ意味とは何か。

 思考広げる授業必要

 文部科学省視学官 大滝一登さん

 急速に社会が変化し、予測困難な時代。教育の在り方も問われています。今回の学習指導要領は社会に開かれた教育課程という考え方に立ちました。どのような資質・能力を育てるかがコンセプト。国語でも、教材を教えて済みではなく、それによって何ができるようになるかをより明確にしています。
 キーワードは「主体的・対話的で深い学び」の視点からの授業改善。ただ読むのではなく、何のために読むのか、将来何に生かせるのかを教師と生徒が共有。自分の考えをしっかり表現するとともに他者の考えを理解し、思考を豊かに広げる授業が必要です。適切なコミュニケーションの力が求められている今、「話すこと・聞くこと」「書くこと」の資質・能力が重要だからです。
 こういう話をすると「今回の指導要領は実用重視で教養軽視だ」といった批判を受けることもありますが、本当にそうでしょうか。固定的な解釈を伝える授業では、逆に文学本来の魅力が共有されていないのでは。
 また、授業を拝見すると、テーマ学習のようで総合的な探究の時間などの授業かのように感じるときがあります。作品のテーマを考えさせるのはいいのですが、まず文章を読み込んで、筆者の論理や言葉の吟味の上で思考に向かうべきだと思います。今回の指導要領が、高校国語の目標に「言葉による見方・考え方」を働かせることを掲げたように、「言葉」に着目していることを理解いただきたいです。
 高校国語の科目再編について「文学軽視」との批判があり、昨年も必履修科目「現代の国語」の教科書をめぐって議論になりましたが、文学軽視との指摘はあたりません。「現代の国語」は論理的な文章と実用的な文章が中心ですが、同じく必履修科目「言語文化」は小説や古典などの文学的な文章が中心。選択科目には、より深く文学作品を学ぶ「文学国語」「古典探究」もあります。高校国語に求められる資質・能力の育成を目指す中で、必要な要素を分けて構造化したのが今回の科目構成なのです。
 今回の指導要領は、今までの先生方の取り組みを否定するものではありません。不易と流行。変えてはいけないものは間違いなくある。今回、いろんな方が国語について議論してくださった。これこそ「社会に開かれた」教育だと思っています。

 おおたき・かずのり 1964年、千葉県生まれ。高校教諭、岡山県の指導主事、大学教員などを経て現職。著書に『高校国語 新学習指導要領をふまえた授業づくり』(明治書院)など。

(メモ)高校の国語教育

 2022年度から、科目が大幅に変わる。必修科目は現行の「国語総合」から「現代の国語」「言語文化」に、選択科目も現行の「国語表現」「現代文A」「同B」「古典A」「同B」から「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」に変わる。実用性を強めたことや、「論理」と「文学」を分けたことで「文学軽視につながる」との批判や、アクティブラーニングの導入で発表や議論に時間が割かれ、「読解力不足になる」との指摘がある。

以上、引用終わり。

参考

21世紀の国語教育
https://www.tokyo-np.co.jp/article/154826

何のことはない。改定後の「必修科目『言語文化』は小説や古典などの文学的な文章が中心」なのだそうだ。文学排除などでは決してない。

また、憲さんが言うところの「趣味の文学や古典」は選択科目で「文学国語」「古典探究」と選択で履修でき、至れり尽くせりの感である。

充分ではないか!

「高校国語に求められる資質・能力の育成を目指す中で、必要な要素を分けて構造化したのが今回の科目構成なの」だ。

極めて理論的でスッキリとしている。

文芸コラムの「朝三」氏が言う「文科省は朝令暮改のそしりを恐れず、現場の望むかたちに戻すべきだ。相手の言葉を聞き、当事者の主体性を生かすことこそ、今回の改革の骨子だ」との批判に対しても「今回の指導要領は、今までの先生方の取り組みを否定するものではありません。不易と流行。変えてはいけないものは間違いなくある。」と極めて冷静に否定している。

憲さんなら今回は文部科学省というよりこの大滝視学官に軍配を上げますな。

今回の国語改革否定論はどうしても趣味者である「文学贔屓」者の中味をよく見ない感情的批判に見えてならない。

文学を学ぶ前に実用文を学び日本語に慣れるべきだ。

それなくして文学を学んでも意味がない。というか学べまい。

その後に趣味で文学を自分なりに思う存分楽しめ!

それが憲さんの意見である。

どーよっ!

どーなのよっ?

参考

憲さん随筆
文学と論理国語は本当に分けられないのか? 憲さん、国語教育を考える
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2022/01/post-a2be51.html

※ちなみに先日行われた大学入学共通テストの国語の試験、憲さん200点満点中140点でした!

(´Д`)=*ハァ〜

残念!

※末尾の画像はくだんのコラム

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