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2021年03月22日20:37

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オッパイ考−驚天動地の日本文化論『性のタブーのない日本』を読んで

フォト


「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーをご存知だろうか?

1968年、大学紛争真っ只中の東京大学の駒場祭のポスターのコピーである。

このコピーを作ったのが当時東大文学部国文学科に在籍していた橋本治氏である。

参考

http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-2759.html

にっかつロマンポルノ『桃尻娘』の原作者といったほうがわかるかも知れない。

参考(映画『桃尻娘』)

https://www.nikkatsu.com/sphone/movie/25589.html

その橋本治氏が2年前に70歳で亡くなった。

憲さん、彼の著作を今まで読んだ事がなかったが、亡くなってから東京新聞にも色々と彼に対する評伝が掲載され少し興味を持ちその著作を図書館で借りて読むこととした。

その借りた本がこれである。

『性のタブーのない日本』

参考

https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0810-b/

以下、本書の版元の紹介文である。

タブーはないが、モラルはある。
『古事記』『源氏物語』から、春画、あぶな絵まで。
丸出しの肉体表現から浮かび上がるもの。
「目が合う」ということと「セックスをする」ということの間に大きな一線がなかった古代。「優雅な恋物語の世界」と思われがちな平安時代ですら、文学や絵巻物からは、強烈な「人間生理」とともに世界を認識していた日本人の姿が浮かび上がる。
 歌舞伎や浄瑠璃の洗練されたエロチック表現や、喜多川歌麿の錦絵に見られる独特な肉体観など、世界に類を見ない、性をめぐる日本の高度な文化はいかに生まれたのか? 西洋的なタブーとは異なる、国民の間で自然発生的に理解されていた「モラル」から紐解く、驚天動地の日本文化論。

以上、引用終わり。

まさに、憲さんが今まで長年研究してきた「『性』を通した『日本文化論』」である。

そして、これを読んでみていろいろと憲さんが知らなかったことや、なるほどと思った事が書かれており、大変ためになった。

この中でも特に憲さんが「なるほど!」と合点がいったことを今回は紹介しよう。

それが、本書の第一章に中に書かれている「日本のオッパイ文化」という小見出しの項である。

・・・うんにゃ?

冒頭に掲示した画像は昭和6年から39年にかけて撮られた、千葉県御宿・岩和田海岸の海女たちの写真集『海女の群像』である。この写真集、ただ一人撮影が許された岩瀬禎之が撮り続けた貴重な写真から精選127葉を収載。あくまでも明るく、大らかな肉体美の岩和田海女たちの群像である。

参考

https://sairyusha.co.jp/products/978-4-7791-1804-3

この画像を見て男性諸士はどのような感情をもつであろうか?

この胸を露(あらわ)にした妙齢の女性たちの姿を見て「イヤらしい」とかの劣情を催すだろうか?

少なくとも憲さんはそのような感情はもたなかった。

何故か?

ここで、橋本治氏の著作に戻る。

そこにはこう書かれている。

「近代以前の日本にはあまり『オッパイ文化』がないからです。」と!

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

「オッパイ文化」がない!?

では、日本のオッパイ文化とは何なのか?

それが次の小見出しの「オッパイを描く歌麿の謎」に興味深く書かれている。

曰く

古代ギリシアの女神像以来、西洋はオッパイ文化です。女性の衣装でも胸を誇示します。しかし、日本の彫刻の中心は仏像で、仏像は女ではないのでオッパイがありません。日本のオッパイ文化は土偶の段階で終わっているようなもので、(中略)後はみんな「ホト(女性器)を見せる」です。性愛の具としてのオッパイは、日本ではかなり無視されているのです。

と橋本治氏は宣(のたま)われています。

確かに!

そして、続けてこう述べています。

江戸時代の日本は春画の全盛期で、当時の日本はこの方面では世界一です。(何だ?「この方面」とは?(´艸`)くすくす)やたらの数の春画が出版されていますが、全裸のからみ合いというのはそれほどありません。浮世絵が肉体表現を獲得した後では、ほとんどと言っていいほど、着物を着てやっています。男も女も和服の着流しですから、裾をまくればすぐに性交可能で−ということはつまり、性交中の女のオッパイが見えることはそんなにないということです。

以上、引用終わり。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

確かに!

いま憲さんの手許には、数年前文京区の永青文庫で開催された『春画展』の大部のカタログがある。

参考

https://bookscloisonne.com/shop/books/37601

この「春画展」に憲さんは当時絵画鑑賞に行ったのだが確かに今振り返ってカタログをみても、その通りである!

春画において、ほとんど女性のオッパイは見えていない!

何故だ?

曰く

我々はセックスの最中に男が女のオッパイを揉んだりオッパイを吸ったりするのを当たり前のように思っていますが、意外なことに江戸の浮世絵春画にそういうシーンはほとんどありません。(中略)男女共に性器を舐めるとかしゃぶるをしますから、口唇的(口淫的か?)なものが未発達だったということはありませんが、大の男がオッパイにむしゃぶりつくという図柄は、まずありません。それをするのは子供−幼児だけです。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

オッパイにむしゃぶりつくのは「幼児だけ」?!

ショ〜ック!

でも確かにそうです。春画展のカタログにもオッパイに男がむしゃぶりついているのは数点のみです!

そもそも春画では女性が全裸でいることは稀で大体が上半身は着物を着ていてオッパイは出していない構図が圧倒的に多いのだ。

さらに橋本治氏はこの春画からの考察で江戸時代のオッパイ文化について以下のように結論付けている。

春画には男がオッパイをしゃぶったり揉んだりする構図が圧倒的に少ない。
しかし、「あぶな絵」(春画が今で言う「アダルトビデオ」ならあぶな絵は「グラビア」に当たる)はオッパイ丸出しの海女等が恰好のモデルになっているのだから、江戸時代の男達がオッパイに関心を持っていなかったわけではない。
しかし、オッパイは「見る刺激」ではあっても、しゃぶったり揉んだりして楽しむ性愛の具ではない。

なるほど!江戸時代まではオッパイは「性愛の具」ではなかったのね!

オッパイ好きの憲さんにとっては目から鱗です。

そして、橋本治氏は春画についての更なる考察を深めるのである。

それが、世界の「ウタマロ」こと喜多川歌麿の春画についてである。

曰く

喜多川歌麿は、浮世絵最高のオッパイ画家と言ってもいいでしょう。日本女性の肉体的表現を完成させたのは歌麿で、絶頂期の彼の作品の女性達は、着物の上からでもその肉体の豊さを歴然とさせていて、肉体美を抹消するような着物の中から女の肉体を再生させています。なにしろ、オッパイが、ボンと出ていてお尻がバンと張っていると、「鳩胸出っ尻」と言われてバカにされ、あまり体に凹凸がない「柳腰」がよいとされた時代です。その点で歌麿の絵はほとんどルネサンスです。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

ウタマロルネサンス!?

で、歌麿の作品をよく見てみるが、憲さんにはその他の浮世絵師との違い、いわゆる「ウタマロルネサンス」がよくわからない。

歌麿と言えば「婦女人相十品」の「ビードロを吹く女」が有名だか、この女性あまり「ボン」とはしていない。

参考

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%92%E5%90%B9%E3%81%8F%E5%A5%B3

「煙草の煙を吹く女」に至っては極めてペチャパイである。

参考

https://www.orieoriginal.com/shop/products/detail.php?product_id=1715

果たしてウタマロは本当に「ルネサンス」なのだろうか?

そして、続けて橋本治氏はこう言う。

(前略)彼(歌麿)は、子供にオッパイをふくませる、母親の絵を数多く描いています。これは、他の画家にはあまりないことです。少なくとも、「子供に母がオッパイを飲ませる絵」はあぶない絵じゃありません。「日常な光景」になってしまいます。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

ここです!

前述の海女の半裸の写真をみても、憲さんが劣情を催さないのもそれが、当時の海女の労働を描いた「日常の光景」だからです。それは、混浴の風呂に入っているご婦人の裸体をみても、劣情を催さないのと同じ感覚です。

そして、話を戻します。

橋本治氏は続けます。

では、どうして歌麿は子供にオッパイを与える母親の絵を描いたのか?

曰く

理由は「マザコンだから」だと思いますね。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

歌麿=マザコン説!

これは、斬新な説です!

そして、話は核心に向かいます!

曰く

オッパイを描く浮世絵師は、乳首に色をつけません。乳輪も乳首も肌と同じ白いままで、そこに墨の描線で《小さな把手(はしゅ・とって)のようなもの》が描かれているだけです。

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

確かに!

それが、憲さんもずっと不思議に思っていたことです!

春画のオッパイは確かにあっさりしすぎています。

ほとんど全て着色なしの小さな丸です。

それが何故か?憲さんずっと謎でした!

しかし、これでわかりました。

橋本治氏は続けます。

浮世絵の春画では、女性器の内部にはちゃんと赤い色がついています。(中略)にもかかわらず、浮世絵のオッパイには色がありません、江戸時代の女の乳首や乳輪には色がついていなかったんでしょうか?まさか。

まさかです。

これについて説明するのに橋本治氏は渓斎英泉のあぶな絵『大磯駅』を持ち出します。

これです

http://katumasa.sakura.ne.jp/ukiyoe/keisen9.htm

そして、橋本治氏はこう解説します。

描かれる女性が首筋を拭いています。(中略)オッパイは丸出しで、着物の打ち合わせ部分からは白い腿も覗いています。あぶな絵の王道のような作品ですが、あまり扇情的な感じはしません。「日常の中にはこういうシーンもあるんだよ」と言ってるような、あぶな気のない落ち着いたあぶな絵です。

確かにその通りである。
江戸時代は女性はこうして「水浴び」をしたのだなということかよくわかる至極日常の風景となっている。

続けて曰く

この『大磯駅』の女性の目つきは、いたって穏やかなのです。英泉の描く着物を着ている女の目つきがみんな濃厚であるのに対して、オッパイ丸出しの『大磯駅』の彼女の目には媚態がありません。裸になって男を誘っているわけではなく、「首筋を洗う」という日常的な行為をしているから、それにふさわしい穏やかな表情を見せている−そういう風な絵の仕上がりになっています。

恐るべし!

渓斎英泉!

曰く

この、『大磯駅』の彼女は上半身裸の「肉体」そのものが丸出しです。あっけらかんと丸出しなので、オッパイも丸出しなら、両腕の付け根の黒い脇毛も丸見えです。あぶな絵は春画ではないので、見せどころは日常的なチラリズムです。がしかし、そこに黒々とした脇毛が登場してしまうと、人間も獣の一種であるような肉体を持っているのだなァと思わずにはいられません。そしてもちろん、私の探求心の行き先は「女の脇毛」ではありません。ゴールはやはり「オッパイ問題」です。

と、ここまで来ると橋本治氏にしても憲さんしても何が言いたいのかもはやよくわかりません。

ただ、「ゴールは『オッパイ問題』」だと言うことだけです!

曰く
この脇毛を繁らせた『大磯駅』の女性が丸出しにするオッパイの乳輪や乳首にも、色がありません。白地に墨の描線があるだけてです。この乳首や乳輪に唇と同じような薄紅の彩色が施されていたらどうなるのでしょう?きっととんでもなくエロくなって、「あ、日常的な生身の肉体だ」なんてことは言ってられなくなるでしょう。

ここで冒頭の海女の画像を見てください。

これも白黒写真です。これがもし綺麗なカラー写真だったらまた見手の印象も違うかもしれません。

また、この写真集の中には海女が不自然にポージングしている写真もあります。しかし、自然に作業していたり語らっている写真とポージングしている写真ではかなり異質の印象を受けます。
やはりポージングしていると色気があり、「エロい」のです。

この英泉の『大磯駅』のモデルの女性の脇毛はエロの対象としてではなく「日常」として英泉は描いたのでしょう。 

なるほど!

そして、女の脇毛を通して橋本治氏はこう言います。

脇毛はエロチックなものではなくて、当たり前に存在する「ただ肉体であることを示すもの」です。エロチックじゃなくても当たり前に存在するからこそ、「女の当たり前の姿」を表現するのに黒い脇毛は登場して、そんなことをする江戸時代人は「普通の生身の肉体」と「セックス時の特別になってしまった肉体」の間に一線を、引いていたはずなのです。

と、やはり脇毛問題に戻ってしまいました。

(´艸`)くすくす

しかし、これは江戸時代だけではありません。憲さんは現代でも、そしていつの時代にも日本では普遍的ではなかったのかと考えます。その証拠が「混浴文化」です。これについてはまた別の機会に論じようかと思いますが、今でも日本には細々ではありますが混浴文化が残り、一部のけしからん輩を除いては混浴で発情する者などいないのです。
そこには男女の裸も、性器も脇毛もあるのですがそれは日常の一部に過ぎないのです。

これが憲さんの持論です。

と、取り留めもなくなりましたが結局ここで橋本治氏が言いたいのはこういうことです。

「日本の江戸時代にはエロとしてのオッパイ文化はなく、ソコにあるのは“ホト(女性器)”文化であった。」と。

そして、最後にこうまとめます。

「近代になって性器の描写はタブーになります。代わってオッパイがクローズアップされて、乳首や乳輪に色がつきます。『乳首に色がついたら近代』というのもおかしな話です。」

そうなのだ。

江戸時代のエロの文化は「ホト文化」であったのだ。
しかし、憲さんはじめ現代の男性のエロスに関する興味は「オッパイ」に向かっている。
これは単に個人の性癖に起因するだけではないのである。
それは、明治以降近代化の流れと皇国史観における儒教的観念の強制により、私たち日本人に国家権力より押し付けられた歪んだ性的嗜好なのかもしれない。

橋本治氏はこの論考でそう証明したかったのかも知れない。

最後に、この江戸時代における「ホト文化」の極致を憲さんこの本で知り得た。
この江戸文化研究家の憲さんですら知らなかった貴重な江戸のエロ文化である。

ぜひ紹介しよう。

それが・・・!

「やれ吹け、それ吹け」である。

もう勘のいい方ならわかるかも知れまい。

これだ!

https://shungirl.com/diary-shunga-misemono2/

このサイトにはこうある。

「風俗猥褻史」に陰門の見世物について何種類か説明があり、その中のひとつにアソコに竹筒で息を吹きかけるというものがあった。

小屋の木戸外には着物の裾が掛けられており、下半身がむきだしだとわかる

本の説明によると見世物小屋の外観としては小屋からは女の上半身が見えるようになっている。

ちょうど上の絵のように木戸外より女は背を見せ、華やかな髪飾りが見える。

着物の裾は板壁にかかっているので、小屋の外にいる人は着物から女の身体があらわになっていることだけを想像できる。

しかも華やかな髪飾りにきれいに結わえた髪の後ろ姿が見えるときちゃあ、どんな顔の女なのか気になるではないか!

という訳で客は八文ほどの銭を支払い小屋に入るようだ。

お金を払ってさあ!中へ!

女は中央の床に腰をかけている。若い女はお化粧をし、美女である。

小屋の中に入ると女は足を開く。客が竹筒でアソコに息を吹きかけると、女はおしりを左右にふるような操作をするようだ。

客がこれを笑わなければ賞が出たらしい。

画中の会話は

お客さん
それ、もっときつくお吹きよ、あっ上だ!尻をまわしたりひょいと動くたびに開いたりすぼんだり舌を出したり、すっこめたり

お客さん
これはたまらぬ、いつ見ても悪くない

お客さん
あれ、奥の陰まで見えるわ!

そんなに見たいか陰の奥。

本の記録によると天保の末期頃、アソコを見世物とする小屋は大阪では正月九日十日の二日間。

江戸では両国で年中これを行っていたようだ。さすが見世物で栄えた両国である。

以上、引用終わり。

これをもって橋本治氏は「観客参加型のショー」と称している。
これは、現代における今は絶滅の危機に瀕している「花電車」とも違う文化かもしれない!

参考

https://president.jp/articles/-/33766

橋本治氏はこの存在をもってしても「近代以前の日本には『オッパイ文化』がない」と結論づけている。

確かに、江戸時代の春画の構図といい、この「やれ吹け、それ吹け」といい(この見世物の女性、上半身はガッチリ着物を着ている)、江戸時代はエロスとしての「ホト文化」が最盛を迎えていたといえよう。

しかし、現在の憲さんはもしかしたら近代化により歪められているのかも知れないが、やはり「オッパイ文化」が好きであるハート

江戸時代は好きだが、やはり春画よりもあぶな絵が好きハート

そして、何よりも日常におけるオッパイが好きである!

それは労働する裸の海女であり、混浴する女性の姿である。

そこにはエロスではなく「美」を感じるのは憲さんだけであろか?

ということで、今回この橋本治氏の著書『性のタブーのない日本』を読んで多くの知的好奇心をくすぐられた。

ただ、この本多くを橋本治氏の専門なのか紫式部の『源氏物語』のエロ解説に費やしているのだか憲さんは平安時代の人にはなかなか感情移入は出来なかった。

やはり、憲さんの好きな江戸時代のエロやホト文化についてもっと詳しく語って欲しかったと思う。

もしかしたら、他の著作にそのようなものがあるだろうか?

橋本治氏、生前にその著作に触れることが出来ず残念ではあったが、これから機会があれば他の著作にも触れてみたいと思う。
今回は発見多き一冊でした。、
皆さんもよかったら一読を!

どーよっ!

どーなのよっ?

※画像は写真集『海女の群像』
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