最近、ちょっと訳があって、NHKの番組『100分de名著・人生の意味の心理学』のテキストを読み返してみる機会があった。このテキストの37ページに、アドラーの『人生の意味の心理学』の第6章 家族の影響「父親の役割」からの抜粋が引用されている。そこには次のような文章が掲載されている。
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父親の課題は、数語でまとめることができる。父親は、自分が妻と子どもと社会に対して優れた仲間であることを証明しなければならない。父親は、人生の三つの課題 ―仕事、交友、そして愛― に適切に対処しなければならない。
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これを読んで、人間の人格における「アイデンティティ」の形成は、彫像のようなものと考えることができるのではないかという考えが浮かんだ。彫像というと、たとえば木の彫刻のようなものを連想する人が多いと思うが、ここで私がイメージしているのは、素材は木ではなく、むしろ粘土である。つまり「粘土細工」によって人形を形成するようなものというイメージを抱いていただきたい。粘土細工は、手で行う。手でいろいろと形を細工し、対象物を造形していく。これがちょうど人間におけるアイデンティティの形成と似たようなイメージでとらえられるような気がする。
そして、この粘土に「加工」を加える「手」には主として3つあり、それが「仕事(職業)」、「交友関係」、「愛」である。つまり、その人のアイデンティティという粘土の人形は、「仕事(職業)」という手、「交友関係」という手、「愛」という手、この3つの手による加工プロセスを経て形成されるものなのではないだろうか。
ところで、日本人はおおむね「アイデンティティ形成不全症候群患者」である。なぜそうなるのか。一つ考えられる仮説は、日本人の間では、アイデンティティは、単純に自我と同一視されてしまっていることが考えられる。日本人にとって、「アイデンティティがしっかりしている人間」とは、単純に「自我が強い人間」のことなのである。
福田恒存の『日本を思う』(文春文庫)を読むと、日本人は古来から自我を醜いものとして退けてきたということが書かれている(P46)。もしそうだとしたら、日本人はアイデンティティを醜いものとして退けてきたのである。これでは日本人が「アイデンティティ形成不全症候群患者」となってしまうことは、必然的といっていいだろう。
【関連項目】
(読書)『100分de名著・人生の意味の心理学』(その1)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1976729268&owner_id=3879221
(産業経済)アイデンティティの相互信頼とメンバーシップ幻想
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1971375421&owner_id=3879221
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