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2020年06月11日07:27

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岡山県とは

宇喜多直家が最初に岡山城を築き、美作まで手を伸ばしました。野戦はせず、という裏手段を用いて藩図を拡げました。直家の晩年、織田信長が勢力を伸ばし始めました。この頃、直家は毛利に属し、織田と対戦していましたが、織田勢力が強引とみるや織田に内通し、毛利を裏切った。これによって豊臣秀吉は、岡山まで進軍できたのです。

だが、宇喜家は関ヶ原で滅びました。その後、ほんの一時期、小早川秀秋が岡山に入藩しました。秀秋は関ヶ原で西軍についていたのですが、形勢不利とみる東軍に寝返りました。この寝返りは他藩の評判が悪く、「備前浪人はめしかかえるな」が定説になりました。秀秋が病死すると、子がなかったため家は取り潰しとなり、池田輝政が城主となったのです。

池田輝政の領内政策は、大阪の経済と密着させた点が評価されます。農民には米以外の副業をし、流通商品の生産に励みました。これら3人の藩主は、暗すぎるという印象があります。平地が多く、豊かな土地だったため、強いて他国との交流を探めなくとも生活ができました。そのことが結果的に岡山を「モンロー県」にしてしまいました。

このあたりの背景は名古屋と共通するところがあります。他県との交流にあまり関心がなく、現在でも県民は保守的です。山口のような東京志向もなく、うちに求める気風が強い。とりわけ広島に対する対抗意識は強く、福山市は岡山県に戻すべき反発心が今でも強いのです。他府県人は大阪人と比較して、岡山人を「ずば抜けて金賭けがうまい」という。

大阪は、「おっさん、まけときな」とカラっと明るいが、岡山は、「おっさん、何とかならんかのう」とじわじわとくるというのです。また他人が新しいことに取り組もうとすると、足を引っ張るのも岡山気質の特徴です。現実的で計算高く、状況判断が優れています。

臨機応変はよいのですが、悪く言えば信念がなく、変わり身が早いのです。上司には調子よく、部下には冷淡な人も多いと言います。「ケチが金を溜める」という県民性です。制服や作業服、ジーンズのシェアは全国トップです。

しかし子供の出生率の低下で、繊維王国からはハイチク立県へと変貌しつつあります。岡山には観光してみたいという魅力がなく、開放的なイメージがない。四国と結ぶ瀬戸大橋があっても、ストロー現象が起きるため、岡山も恩恵は受けていません。私は日本全国旅行したのですが、岡山県だけは行ったことがありません。一度、行ってみたいです。

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