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2019年04月18日01:15

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足利義教

一般に、室町将軍というと影が薄いようです。栄華に満ちた足利義満、初代将軍の足利尊氏、それと情けない方の代表として応仁の乱の原因を作った8代将軍足利義政くらいでしょうか。
いや、ちょっと待ってください。第6代将軍である足利義教を忘れてもらっては困ります。
こう書くと、「ああああ、知っているよ。くじ引きで将軍に選ばれて、最後は赤松満祐に暗殺された、室町幕府衰退の原因となった人物だろう」とおっしゃる向きもおられるかもしれません。
反論する前にまず言っておきたいのは、「幕府」なる名称は、明治時代以降に用いられるようになったもので、鎌倉・室町・江戸の各時代ともに持ち入れられておりません。
さて、この足利義教ですが、たしかにくじ引きによって将軍に選ばれ、赤松満祐の配下の手で宴席で斬殺されました(嘉吉の乱)。それは認めます。
しかし将軍に在位していた間は、室町時代きっての強力な統治をおこなっていたのです。
徳川家康出現以前に、この日本の国土をもっとも広く統治していたのは誰だと思いますか? 源頼朝? 信長? 秀吉? …違います。正解は足利義教なのです。

また、足利義教はこんなこともしでかしております。比叡山延暦寺の焼き討ち、東国征伐の直後の富士山遊覧、東大寺のお香の銘木・蘭奢待の切り取り…。これってみんな、後世に織田信長が真似したことばかりじゃありませんか。そうです、信長は足利義教のエピゴーネンにしか過ぎないのです。

足利義教は応永元年(1394年)6月13日、足利義満の子として生まれました。兄には同年将軍となった義持、尊満、宝幢若公がいました。
兄弟が多かったために、彼は厄介払いとして出家させられます。応永10年(1403年)6月、青蓮院に入室し、応永15年(1408年)3月4日に得度して門跡となり義円と名乗ります。応永26年(1419年)11月に153代天台座主となり、「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ将来を嘱望されたそうです。
第5代将軍・足利義量は将軍とは名ばかりで実権は父の足利義持が握っていましたが、応永32年(1425年)に義量が急死した後も、法体の義持が引き続き政治を行ないました。その義持も応永35年(1428年)1月に病を得ますが、危篤に陥っても後継者の指名を拒否しました。そこで三宝院満済や管領・畠山満家ら群臣たちが評議を開いた結果、石清水八幡宮で籤引きを行い、義持の弟である梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆・義円の中から次期将軍を選ぶことになったのです。
1月17日、石清水八幡宮で籤が引かれ、翌日の義持死亡後に開封されました。後継者に定まったのは義円、すなわち後の足利義教でした。
その後、すったもんだはありましたが、還俗して義宣(よしのぶ)と名乗った義教は将軍職に就きました。

1429年(正長2年3月15日)、すなわち新暦に換算した今日、 足利義教に将軍宣下が行われたのです。
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