1945年1月21日、ドイツ軍はソ連軍の東プロイセン攻勢から傷病兵や民間人200万人を、
客船や貨物船、軍艦などあらゆる種類の船を動員して
ドイツ西部へ海路脱出させる海上避難輸送計画「ハンニバル作戦」を発動させます。
その中にヴィルヘルム・グストロフ号という客船が投入され、
1945年の本日、1月30日にゴーテンハーフェン港を出ます。
公式には、乗組員173名、海軍軍人918名、海軍女性補助員373名、傷病兵162名、難民4,424名の
計6,050名が乗船していた事になっていますが、
出港後に乗船を懇願する難民を乗せた多くの小舟から、2000人以上の難民を急遽乗船させ、
実情は不明。元乗組員の戦後調査に拠ると、乗客は10,582名、8,956名が難民ということで、
ほとんどが女性・子どもと判明。
豪華クルーズ船のため、共用スペースに多くの乗客を乗せられたようです。
ヴィルヘルム・グストロフは同様に難民搭載の客船ハンザと
訓練魚雷回収艇TF-1とレーヴェの2隻を護衛として航海する予定でしたが、
ハンザは機関故障、TF-1は船体溶接部の亀裂が発見されて帰投。
船は民間人3人、軍人1人の4人の船長有資格者がおり、
ソ連軍の潜水艦攻撃から身を守る航路について合意ができず、
海軍乗船者の代表であるヴィルヘルム・ツァーン少佐は
潜水艦が行動しづらい海岸近くの浅い海を無灯火で進むよう進言したが、
年長のフリードリッヒ・ペーターゼン船長は
大量乗船の過積載で船の喫水が深くなっている点から、
悪天候に期待して水深の深い航路をとります。
その後、海軍からグストロフ号と反航する掃海艇部隊の存在について通信連絡を受けます。
ペーターゼンはそれら艦艇との衝突を恐れ、船に赤色と緑色の航海灯を点灯、
暗闇の中で視認されやすい状態に。
ヴィルヘルム・グストロフは21時頃、ポンメルン地方沿岸の 30km 沖合で
ソ連潜水艦S-13に発見されます。
レーヴェに装備されていた探針儀は厳寒により作動せず、
15分後、約700mの距離でS-13から放たれた4本の魚雷の内
3本がヴィルヘルム・グストロフに命中。
船内にパニックになり、無線機は使用不能、発光信号でレーヴェに救援を求めます。
約1時間後、グストロフ号は沈没。気温は-10℃から-16℃でした。
レーヴェが472名を救出し、駆けつけた水雷艇T-36は564名を救出。
掃海艇M-341が37名、魚雷練習艇TS-IIが98名、貨物船ゲッティンゲンが28名を救出。
翌31日、難民輸送中の貨物船ゴーテンラントが9名救出、訓練魚雷回収艇TF-19が7名、
監視艇VP-1703が乳児1名を救出。
沈没での生存者は1,216名、犠牲者は9,343名とされますが、
何人乗っていたかが不明なため、実際の死者の数は不明です。
割合最近、この船に関する映画を見たのですが、潜水艦避けの浅い海域を提案するのが民間人で、
深い航路を選ぶのが軍人になっていたり、随分読んだ資料とは違うなとは思いましたが、
出航前の難民を極力積み込もうとしたり、
混乱の中出航していた様子は実に雰囲気が出ていました。
この船がソ連軍潜水艦が撃沈した最大の船であるのが皮肉な話です。
悲惨ではあるものの、この場合、停戦前、戦闘区域で軍事輸送に従事した船であるので、
ソ連軍の言い分もある程度理解できる面はあります。
しかし日本で起きた三船殉難事件は、第二次世界大戦末期の1945年8月22日、日本軍の停戦後に
北海道留萌沖の海上で樺太からの引揚者主体の日本の緊急疎開船
小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が
ソ連軍の潜水艦-12号・L-19号からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没、1,708名が犠牲になります。
海軍に目立った活躍の無かったソ連は
この三船やグストロフ号を攻撃した潜水艦の艦長に勲章を与えます。
なんだか納得いかない話ですよね。かえって惨めになるような気がします。
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