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2018年11月01日22:54

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10-21 秋の大菩薩嶺 「3つの大菩薩峠」を訪ねて

2018年10月21日(日)
秋の大菩薩嶺
上日川峠周回
「3つの大菩薩峠」の歴史を訪ねて

上日川峠(1584)→唐松尾根→雷岩→大菩薩峠(1897)→熊沢山(1978)→石丸峠→天狗棚山(1957)→(石丸峠)→小屋平→上日川峠

添付画像は
雷岩からの大展望、
石丸峠と小金沢山、
小金沢山西面の山肌

YAMAP
山行記録、軌跡、写真48枚

みんなの大菩薩峠と忘れ去られた大菩薩峠
https://yamap.co.jp/activity/2575743


0、Good Newsとハプニング

実に2ヶ月ぶりに全国的に晴れマーク1つとなった10月第3週の日曜日。
自分もまさに2ヶ月ぶりの、夢にまで見た待望の山行とあって、何日も前から指折り数えてついにこの日を迎えた。

4時32分 始発電車、7時38分 中央線 甲斐大和駅着、8時10分 上日川峠行きの始発バス又は増発バスに乗車。
やまと天目山温泉で途中下車、林道で湯ノ沢峠。峠から登って大蔵高丸・ハマイバなど「南大菩薩」を縦走する計画だ。

ところが、行きの道中でいろいろな事が起きた。
まず、乗り継ぎ電車が未明の夜間工事の延長により遅延。

次に、妹がたった今 出産したとのLINEと赤ちゃんの写真が届いた。
アメリカ暮らしの妹に第2子となる女の子が誕生!
アメリカ人の旦那さんに祝福のLINEを送ると“Thank you, brother"と返信。
まだ旦那さんに会った事はないので「ブラザー」なんて言われるとちょっとくすぐったい。

迂回ルートで神田から無事に中央線に乗り 座ってホッと一息、あとは次なる乗り継ぎ駅 八王子までゆっくりしよう。
毎度の事だが、都会を貫く休日の早朝の電車は人間模様もさまざま。
朝帰り、夜勤明け、早朝出勤、部活…
人間観察していたら結局寝られず、そのまま八王子駅に到着した。

甲府・松本に向かう4番線ホームは人が溢れそうなほどの大混雑。
3番線ホームの縁を歩いていると、何かが小さな放物線を描いて線路のほうへ落ちていくのを視野の端で捉えた。
何だ?と目で追うと、あろう事かそれはなんと自分のスマホ!
この日に限ってたまたま布製ケースに入れていたスマホが、裏返しで線路脇の砂利の上に横臥している。

改札の窓口に行くと、対応してくれた若くて小柄な女性駅員さんがそのままホームに一緒に下りてくれた。
そして、先端に挟み鈎の付いた金属棒を器用に操り、極めて滑らかな動作でスマホを安全に拾い上げてくれた。
場所は3番線ホームの売店の陰で、大多数の人の視線は遮られ、幸いにも衆人環視の中での見世物にならなかった事に安堵する。
迷惑を御詫びし、感謝の弁を述べる。
余談だが、アイドルかと見紛うくらい可愛らしい駅員さんで、ビックリした。

この一件の間に、予定していた電車は既に去り、結局は隣りの高尾駅から次の中央線に乗って甲斐大和駅着は8時02分。
ホームに吐き出される人、人、人の波。
本日開催の「甲州フルーツマラソン」により、塩山駅周辺に交通規制がかかる為、大菩薩方面へのハイカーはこの甲斐大和駅に流れてきているらしい。



1、予定外の上日川峠へ

バス停前のスペースは狭く、混雑していた。
始発バスも増発バスも終点の上日川峠まで行く乗客を優先した為、列に並んでいても乗る人と乗らない人がいて、しかもバス会社の従業員の説明は声が小さく不明瞭で一向に要領を得ない。

会社側の対応のまずさに不満を漏らす方もいた。
増発バスが出た後には、バラバラになった列を一列に並び直させようとする人、それに対して反論する人もいて、一時的に混乱した。

空を見上げると雲1つ無い素晴らしい好天で、陽射しも強い。
バス待ちの身としては予約客を乗せたタクシーが発車していく度に気持ちが焦れるが、朝食を頬張りながらじっと次なるバスを待つ。
結局、次の定時バス9時10分発には無事に乗れたのだが…

途中下車組は前列に固まり、その皆さんは上日川峠の1つ手前の「小屋平」で降りるという。
席は左右2列に加えて中央の補助席も埋まってすし詰め状態。
自分は前から5列目くらいの窓際だが、人垣を掻き分けて一人だけ やまと天目山温泉で途中下車する勇気は無い。

この時点で選択肢は小屋平か上日川峠の二択となった。
時間が遅くなったので長距離は無理だし、予定外だが大菩薩峠を歩こう!と気持ちを切り替えた。もうどうせなら終点まで乗ってしまおう。
バスは景徳院や天目山栖雲寺など、いずれ訪ねたい場所を通過し、山峡の羊腸する坂道をかなりのスピードで駆け上がっていく。

小屋平で降りたのは10人余りだろうか、ここから5分程で上日川峠に到着した。



2、唐松尾根で雷岩へ

峠には「ロッヂ長兵衛」があり、休憩舎の前で身支度をする。
標高は1600m近いので周囲の木々はだいぶ色づいており、秋の澄みきった空気が清々しい。
時刻は10時。既に多くのハイカーが入山しているのだろう、登山口は想像していたより落ち着いていた。

昔は大菩薩嶺に登るには標高1000mに満たない裂石、あるいは長い日川尾根から登るのが普通だった事を考えれば、上日川峠から標高差450m・1時間半で山頂に着いてしまう現代はずいぶんと便利になったとも言えるし、逆に登山の醍醐味が薄れてしまったとも言えるだろう。

高原台地のような緩やかな斜面を進んでいくと「福ちゃん荘」に出る。
ここまでは山というより緑豊かな自然公園の遊歩道という雰囲気。
福ちゃん荘には車道も上がってきていた。

ここから「唐松尾根」となる。
昔のガイドブック【大菩薩とその附近】(山と渓谷社 昭和30年 1955年 )に既に唐松尾根の名称があり、昭和10年代まで尾根筋に立っていたカラマツの大木が名前の由来らしい。

この尾根は上部に行くほど岩混じりの急登となるが、振り返ると富士山を主役とする広大な展望がどんどん開けて実に爽快だ。

それにしても、まだよちよち歩きの幼児、ジーパンにスニーカーの若者、90歳近いのではとお見受けする高齢者…などなど、ふだん歩いている山ではなかなか見かけないような幅広い層の人がいて驚く。

岩混じりの急登箇所では渋滞となるが、途中の平坦地では景色に歓声を上げたり写真を撮ったりする人も多く、自分も一緒に立ち止まって小休止を取った。

登るのに難儀している人を仲間が手伝ったり周りがペースを合わせたり、ハイカーの列には連帯感があって和気藹々、皆さん笑顔だ。
自分は独りなので笑顔とはいかないが、このメジャーコースで「俺は単独行者」などと強がるのは滑稽というもの。
たまにはこうしてみんなで登るのもいいなぁ、とほのぼのとした気持ちになるのだった。

稜線に辿り着くと「雷岩」には数多くの人が乗っていた。
小広い平坦地にザックを下ろして辺りを見回すと、レジャーシートを広げて休む人、とりあえず「百名山」大菩薩嶺の山頂を踏みに行く人、眼前に広がる雄大な景色を眺める人などさまざまだ。

昔 雨乞いに使われたという雷岩(神成岩)だが、人が多いのでスルーして大菩薩峠方面に向かう。
南東に続く岩混じりの稜線からは富士山と甲府盆地、南アルプス方面の展望が素晴らしい。
山から山波を見る立体的な山岳展望としては物足りないが、眼下の大菩薩湖と甲府盆地を前景に遠く富士山を望む絶妙な配置は、その広さにおいてもまさに展望絶佳の一言だ。


3、旧 大菩薩峠「賽ノ河原」の歴史

展望を楽しみながら陽射しを遮る木々の無い岩の稜線を進み、北東から 「丹波大菩薩道」(丹波山大菩薩道)が上がってくる先の「妙見ノ頭」を巻いて緩やかに下れば、旧 大菩薩峠たる「賽ノ河原」に至る。
擂り鉢状の鞍部は破片岩で埋め尽くされ、周囲の斜面も緑僅かな荒涼たる風景で、まさにその名に相応しい。

ただし、「賽ノ河原」は歴史的には新しい名称で、元は「親不知」だという。
昔は 濃霧で方向を見失い、冬季には地形の関係で風雪が強く遭難者が続出した為、「この場所では親にもかまっていられない」との意で付けられたものとの事だ。

峠の上方に妙見大菩薩が祀られた事により「大菩薩峠」の名が付いたというのが定説だが、この峠を有名にしたのはやはり中里介山による未完の長編小説「大菩薩峠」(大正2年〜)だ。
しかし「介山荘」がある現在の大菩薩峠は明治の初めに新たに拓かれた峠であって、小説の主人公である剣士 机竜之介が最初に巡礼の老人を斬り殺した舞台は、旧峠のこの「賽ノ河原」(親不知)である。

もちろんこの小説は創作であって史実では無いが、江戸時代に実際に幾多の遭難者を出したというこの場所も、からりと晴れ上がった秋空の下では明るく穏やかな表情を見せている。



4、新 大菩薩峠の賑わい

「賽ノ河原」(古称「親不知)を抜けると「親不知ノ頭」の標識があり、再び富士山などの大展望が開けた。

ここから介山荘までは、とにかく人、人、人で、幼児を含むファミリーや犬連れの方までがのんびりと寛いでいる風景は、まさに「みんなの大菩薩峠」の面目躍如といったところだ。
この賑わいの中では 日帰りハイキングにしては大袈裟なザックを背負った自分がむしろ場違いに感じられるほどで、自称「 歴史探訪静山彷徨派」の自分はすっかり気後れしてしまい、足早に通り過ぎた。
「大菩薩峠」の大きな標柱の前には写真撮影待ちの列ができ、子どもが柱の横でポーズを取って周りの大人たちを笑わせていた。

前述の通り、ここは旧峠で遭難が相次いだ為に明治時代に入ってから新たに付けかえられた甲州裏街道(青梅街道)の峠で、しかも交易や旅に利用されるその使命は明治の末までには終えてしまった、極めて短命な峠であった。
使われなくなれば忽ち忘れ去られ、寂れて草に埋もれていくのが山中の峠の運命であって、現在まで生き残っているのは登山道として復権したものがほとんどだ。

ところがこの峠は、中里介山が長編小説の題名とした事をきっかけに、つまり文学作品によって全く新しい命を吹き込まれたのである。
小説は戦前から昭和30年代にかけて映画・テレビドラマ・漫画となって国民に親しまれ、「大菩薩峠」の名は全国に遍く知れわたる事となった。
このような数奇な運命を辿った峠を、自分は他に知らない。

またいずれ、人が少ない時期に訪ねてじっくりと歩いてみたい。



5、深山の趣き「熊沢山」

介山荘を通り過ぎると途端に人影は無くなり、目の前に深く静かな山が現れた。
峠までの明るく賑々しい雰囲気とのあまりの落差に戸惑い、静けさに気圧されて思わず立ち止まってしまった。
入口にはこの先が「小金沢連嶺」に至る道である事を示す標識がある。

山肌からは木々がさやさやと囁くような風が流れてきて、自分はふと誘いこまれるように足を踏み出した。

北面はコメツガ、シラビソを中心とする針葉樹林で、シラビソは光が届きにくい為に細く、また、成長しきれなかった個体は倒れて苔に埋もれている。
苔生す山肌と倒木の、湿った翳りを帯びた樹林帯。
規模はとても小さいが、奥秩父の森を彷彿させる佇まいだ。
一歩一歩静かに、山の感触を確かめるように登る。
やはり人が居ない静かな樹林帯を流離うのが自分の性に合っている、と実感するひとときだった。

すぐに辿り着いた山頂付近は少し開けて明るく、辺りは元気な笹に覆われている。
道は山頂を少し南から巻くように付けられており、山頂近くには大きな露岩が聳えていた。
大正時代の「大菩薩連嶺」に登山者として最初の足跡を刻んだ武田久吉博士がこの山を「熊沢山」と記録したのに対し、田島勝太郎は著書【奥多摩】(山と渓谷社 昭和10年 1935年)の中で「天狗棚山」と強調した。
山名研究においてはその道のパイオニアを自負する二人が何かと火花を散らしていた様子はそれぞれの著述から窺えて興味深いが、現在の地図や標識の表記は前者を採用している。



6、長閑な笹原「石丸峠」へ

熊沢山を南に進むと、唐突に展望が開けた。
東側にカラマツ林を配した長いスロープが眼下に穏やかな撓みを形成し、広くなだらかな鞍部の向こうには「天狗棚山」がせりあがって草原状の「狼平」へと続く。
狼平の南には「小金沢連嶺」の主峰が蟠踞し、主脈から東に派生した「雁ヶ腹摺山」が覗く。
さらに連嶺の遥か彼方には、丹沢・道志山塊の山々が東西に長く限空線を画いている。

大菩薩連嶺の特色は、首都近郊の山地山塊に於いて唯一、標高2000m近くの高原性を有する事にあり、特に湯ノ沢峠以南の「南大菩薩」にそれが顕著だというが、眼前に展開する景色はまさに、優美な高原性と隆起した山塊との融合を感じさせるものであった。

大正時代末から昭和初期にかけて日本古来の伝統的な漂泊観に基づく低山探訪・樹林の山旅を鼓吹して社会人登山者の思潮に多大な影響を与えた「霧の旅会」の松井幹雄は、その著書【大菩薩連嶺】(光大社 昭和4年 1929年)の中で、この場所を「連嶺中 筆者の最も愛好する地點である」と述べている。
まさにその場所に今 自分も立って、感慨も一入である。



7、石丸峠 古甲州道 「小菅大菩薩峠」の歴史

やがて下りついた「石丸峠」の笹原は秋の昼下がりの陽射しを浴びて仄かな狐色に輝き、飛蝗が軽やかに跳ねている。
笹原の中の小さな石塊に座り、ザックを下ろして昼休憩とした。
岩場と雄大な展望が特徴の大菩薩峠を豪壮とするならば、石丸峠には優美という言葉が相応しい。
あるいは、大菩薩峠を男性的と表現するなら、こちらは女性的という事になろうか。

しかしこの石丸峠、かつて山麓民の間での俗称は「石マラ」で、その形状が男性の象徴に酷似した天然のいわゆる「陽石」があった事に由来する。
これを昭和4年発行の地図から陸地測量部が語音を似せて「石丸峠」に意図的に改変して記載したのは、一説には「石マラ」では恥ずかしいとの地元民からの声を反映したものだという。

山村民俗研究の大家であった岩科小一郎は著書【大菩薩連嶺】(朋文堂 昭和34年
1959年)に、この峠名についての原全教、松井幹雄、岩根常太郎の意見を紹介した上で持論を述べている。
この3人はそれぞれ奥秩父、大菩薩連嶺、奥多摩を主たる研究領域としていた第一人者で、当時、峠の名称をめぐってそれぞれの主張が繰り広げられていた事は興味深い。

ただし、あくまでも「石マラ」は俗称で、正名は丹波大菩薩道の「上峠」に対して小菅大菩薩道の「下峠」であった。
(現在、例えば昭文社の「山と高原地図」に載っている「小菅大菩薩道(路)」は明治に入ってから新 大菩薩峠の設置に伴って新たに拓かれた道であり、江戸時代やそれ以前の古道は尾根径の「牛ノ寝通り」から「石丸峠」を通っていた。)

「小菅大菩薩峠」の名は江戸時代の地誌【甲斐国志】(文化11年 1814年)の記載に由来するものだが、この現在の「石丸峠」は江戸時代よりも昔、即ち少なくとも戦国時代の武田氏の頃には武蔵と甲斐を結んでいた「古甲州道」上の、言わば「最古の大菩薩峠」である。
武蔵から牛ノ寝通りの尾根を辿ってこの峠に辿り着いた古の旅人は、小金沢山の肩から覗く富士山を恭しく遥拝した事だろう。

遠い歴史に思いを馳せながら古の峠に憩う事は、峠愛好者たる自分にとって無上の贅沢であり、天高く馬肥ゆる秋の空の下、誰も居ない石丸峠で過ごしたひとときは宝物となった。

ふと気づくと、西方の一面の笹原を男性が独り歩いてきて、遠くで腰を下ろすのが見えた。
狐色の輝きに半身を埋めたその姿は逆光に染まる影絵の点景となって陽炎のように浮かび、まるで一幅の絵のようだ。
彼もまた、静山と峠路の愛好者だろうか。

やがて、熊沢山から若いカップルが下ってきた。女性はまだ山慣れしていない足取りで、先行する男性に甘えるように追いかけている。
冴えない単独中年男の自分は普段なら苦々しい顔をするところだが、この明るく長閑な峠では、若い二人が追いつ追われつする姿も何とも微笑ましく感じられる。
暫くして今度は数人が声高に話しながら峠に下りてくる姿が遠くに見えたので、それを汐に腰を上げた。



8、天狗棚山からの大展望

南へ緩やかに登り、「牛ノ寝通り」と「長峰」への分岐を見送って間もなく、広く岩が露出した「天狗棚山」の山頂に至る。
「天狗棚」とは、北東の小菅側の山肌にいかにも天狗が好みそうな階段状の岩場がある事から山麓民が昔 名付けたのだろう。
またそれに因んで天狗棚の名を冠した沢が流下している事から、山名にも用いられたもののようだ。

ここからの展望がまた素晴らしい。
緩やかな「狼平」を前景に西肩に富士山を覗かせた小金沢連嶺の主峰「小金沢山」、その東方の「雁ヶ腹摺山」、南に幾重にも山頂を列ねて南大菩薩方面へと続く主脈線、東には奥多摩と甲武相国境の山々、遥か南には丹沢・道志山塊など、まさに見渡す限りの山波。
山座同定は苦手だが、双眼鏡で「心のふるさと 丹沢山塊 」の最高峰「蛭ヶ岳」を確認できたのは嬉しかった。



9、小屋平を経て上日川峠へ

石丸峠に戻り、朝からずっと見えていた富士山と大菩薩湖(上日川ダム)を眺めながら熊沢山の南面を水平に巻いていくと、この日初めてまとまった広葉樹林が現れて紅葉が目に眩しい。
「小屋平尾根」に乗って下り始めると、左手には意外にも長く裾を引いて穏やかな表情を見せる小金沢山の西面を望み、山肌のカラマツの黄葉は午後の斜陽を浴びて鈍い金色に光る絨毯のよう。

やがて未舗装林道を跨いで山道を下る事 暫し、「小屋平」のバス道に出る。
この辺りかつては伐採が盛んで、広い草原には炭焼小屋が幾つもあったという。
小屋平の地名はここから生じたものだろう。

舗装道路を横断し、再び山道に入って上日川峠を目指すのだが、あとはもう単なるショートカット道かと思いきや、このコースは最後まで素敵だった。
水流こそ少ないが沢の渡渉があり、自然林はブナやミズナラ、モミの大木を随所に配して豊かな林相を見せ、木々の梢からは歌うような野鳥の囀ずりが盛んに響いていた。


10、総括

この広大な山域に初めて足を踏み入れたのは2017年1月の事で、若き山友と共に斑雪が付いた連嶺 東端の「奈良倉山」を歩いた。
奈良倉山は古の「小菅大菩薩道」たる「牛ノ寝通り」からさらに東に連なる山稜上に位置し、その南東に下ると大菩薩と奥多摩を接合する「鶴峠」に至る。
また、同年10月には連嶺主脈の南端に聳える「滝子山」から「大谷ヶ丸」を歩いた。

連嶺に関する古書や資料はその前から集め始め、文献を読むほどにこの山域に惹かれていったが、滝子山の山頂から北を望見した時の南大菩薩の穏やかな山波と連嶺主脈の優美な金字形は、あらためてこの広大な山域への思いを熱く掻き立てるのだった。

今回は南大菩薩の山々を歩く予定がハプニングによって予定外の出発点から、しかも午前10時という遅い時間からとなってしまった。
しかし、いま振り返るとたった5時間の小さな山旅とは思えないほど濃密な充実感で心身が満たされ、実に味わい深い山歩きとなった。

自分の「大菩薩連嶺」の研究と探訪はまだ端緒についたばかりだが、今後 何度この山域を歩いたとしても、今回の素晴らしい山歩きの印象が薄れる事は無いだろう。


mixi  
「丹沢を歩く会」コミュニティ  
副管理人 S∞MЯK  
モリカワ ショウゴ  
(現 事務局長)  

ハンドルネーム  
YAMAP→ ☆S∞MЯK★丹沢Λ  
ヤマレコ→ smrktoraerigon  

(ヤマレコには記録は残していません。  
同好の士とのメッセージ等の連絡用に作りました。) 




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