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2018年09月07日20:57

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9月歌舞伎座(夜)大播磨、執念の「俊寛」ほか

18年9月歌舞伎座(夜/「松寿操り三番叟」「俊寛」「幽玄」)
 

初代から二代目へ継承された秀山祭は、現在の歌舞伎界の屋台骨を背負う役割をしている、と私は思っている。今年の秀山祭・昼の部では、5年近く休演していた九代目福助の舞台復帰というサプライズがあったが、秀山祭・夜の部の見せ場は、やはり吉右衛門渾身の「俊寛」であろう。昼の部の「河内山」といい、夜の部の「俊寛」といい、吉右衛門や仁左衛門と同時代で歌舞伎を鑑賞できる幸せは、稀有のものだろう。


吉右衛門渾身の「俊寛」と、その変遷


「俊寛」は、私も15回目の拝見となる。近松門左衛門原作の時代浄瑠璃で、1719(享保4)年、大坂の竹本座で,初演された。300年近く前の作品である(いやあ、来年は初演300年になる!)。

私がこれまでに観た俊寛は、吉右衛門(今回含め、6)、先代の幸四郎(4)、仁左衛門、猿之助時代の猿翁、十八代目勘三郎、先代の橋之助、右近時代の右團次。松竹の上演記録に拠ると、吉右衛門自身は、「俊寛」を本興行で15回演じている。

今回のそのほかの主な役者たち。私が観た瀬尾は、左團次(6)、段四郎(4)、富十郎、彦三郎、團蔵、猿弥、今回は、又五郎。この憎まれ役は、左團次が群を抜く。丹左衛門は、梅玉(4)、仁左衛門(2)、歌六(今回含め、2)、九代目宗十郎、吉右衛門、三津五郎、先代の芝翫、富十郎、権十郎、男女蔵。千鳥では、松江時代を含む魁春(4)、福助(3)、芝雀時代を含め雀右衛門(今回含め、3)、亀治郎時代の猿之助、孝太郎、七之助、児太郎、笑也。

「鬼界ヶ島に鬼は無く」と千鳥の科白、後は、竹本が、引き取って、「鬼は都にありけるぞや」と繋がる妙味。この一句は現代にも通じる。千鳥のひとり舞台の見せ場。10年2月歌舞伎座の七之助が初々しかった。意外や、菊之助が、一度も千鳥を演じていないようだ。今回初めて、菊之助は、「俊寛」に初出演した。播磨屋の婿の縁かしら。その上、千鳥ではなく、千鳥の連れ合いとなる丹波少将成経を勤める。初役である。しかし、菊之助は今回8回目の千鳥を演じる雀右衛門の藝を間近に見ることになる。成経との恋模様、一人芝居での浜でのクドキ、瀬尾と争う俊寛への助勢、鬼界ヶ島の海女の方言など学ぶことが多いだろう。従って、この配役、雀右衛門の相手役には、将来の菊之助千鳥への伏線があるのではないか。

今回で、6回目の拝見となった吉右衛門の俊寛のラストシーンは、私の解釈では、従来、「虚無」的であった。私が初めて吉右衛門俊寛を観たのは、22年前、96年11月の歌舞伎座であった。この虚無的な表情を、その後、吉右衛門は変えた。私が観た07年1月歌舞伎座の舞台では、「喜悦」の表情を浮かべたのは「新演出」だったと、思う。初めて、喜悦の「笑う俊寛」を私は、このとき、観たことになる。10年9月の新橋演舞場も、吉右衛門は、この演出を継続していた。と思いながら観ていると、13年以降、吉右衛門俊寛は、「喜悦」の表情を浮かべなくなってきたではないか。

13年6月、歌舞伎座の舞台で、吉右衛門は、「喜悦」の表情を浮かべなかった。13年5月、「石切梶原」と13年6月、「俊寛」を再開場の新・歌舞伎座で演じた吉右衛門。いずれも、新・歌舞伎座の柿落とし興行とあって、初代吉右衛門に捧げるつもりで勤めたと二代目はいう。二代目の「俊寛」の初演は、1982年というから、当初からの俊寛最後の表情の変遷を詳らかには、私は知らない。かつて、吉右衛門は、以下のようなことを言っていた。「島流しにされた人間が、妻も殺されたと聞いて、やけになり、自分だけ残る、というようにとらえていたこともありました」。毎回役作りの工夫をして、毎回解釈が変っても良いだろう、と思う。工夫魂胆は、江戸時代より役者にしかできない楽しみ(あるいは苦しみかもしれない)だろう。楽しみにしろ、苦しみにしろ、役者冥利な話だ。

最近は、「相手の気持ちに立って許す。それを近松門左衛門が書きたかったのかなと思いつつやっております」とも吉右衛門は言っていた。

もっとも、幕切れの場面、原作台本にある科白は、「おーい、おーい」だけなのである。この空白は、役者によって、いかようにも解釈される。

まず、この「おーい」は、島流しにされた仲間だった人たちが、都へ向かう船に向けての言葉である。船には、孤島で苦楽を共にした仲間が乗っている。島の娘・千鳥と、ついさきほど祝言を上げた仲間の成経がいる。そういう人たちへの祝福の気持ちと自分だけ残された悔しい気持ちを俊寛は持っている。揺れる心。「思い切っても凡夫心」。思い切れない藝の工夫。

時の権力者に睨まれ、都の妻も殺されたことを初めて知り、妻殺しを直接手掛けた男をさきほど殺し、嬉しさと共に、改めて重罪人となってしまった、という思い。自ら島に残ることにした男が、叫ぶ「おーい」なのだ。「さらば」という意味も、「待ってくれ」「戻ってくれ」という意味もある「おーい」なのだ。別離と逡巡、未練の気持ちを込めた、「最後」の科白が、「おーい」なのだろう。吉右衛門演じる俊寛の表情、特に、「おーい」の連呼の後に続く俊寛の表情の変化を私は舞台の最後にいつも観ている。

これは、芝居の「最後の科白」でもあるが、俊寛の「最期の科白」でも、ある。ひとりの男の人生最期の科白。つまり、岩組に乗ったまま俊寛は、この後、どう生きるのかということへの想像力の問題が、そこから、発生する。昔の舞台では、段切れの「幾重の袖や」の語りにあわせて、岩組の松の枝が折れたところで、幕となった。しかし、吉右衛門系の型以降、いまでは、この後の余白の時間に俊寛の余情を充分に見せるようになっている。

吉右衛門の俊寛を観ていると、岩組を降りた後の、俊寛の姿が見えて来た。ここで、俊寛は、自分の人生を総括したのだと思う。愛する妻が殺されたことを知り、死を覚悟したのだろう。俊寛は、岩組を降りた後、死ぬのではないか。私は、そんな気がする。これは、妻の死に後追いをする俊寛の妻・東屋への愛の物語ではないのか。それを俊寛は、未来のある成経と千鳥の愛の物語とも、ダブらせたのだ。そして、俊寛自身は、今後、ひとりで老いて行く自分、ひとりで死に行く自分、もう、世界が崩壊しても良いという総括をすることができたことから、いわば「充実」感をも込めての呼び掛けとして「おーい」、つまり、己の人生への、「最期」の科白としての「おーい」と叫んでいるように思える。そういう達観のもたらした喜悦の境地。それが、ある時期までの吉右衛門の「喜悦」の俊寛ではなかったのか。

何故、そう感じるのかというと、俊寛は、清盛という時の権力者の使者=瀬尾を殺す。それは、清盛の代理としての瀬尾殺しだ。「夫として」、妻に対する愛情の発露として、瀬尾を殺す。つまり、権力という制度への反逆だ。これは、重罪である。流人・俊寛は、さらに、新たな罪を重ねたことになる。何故、罪を重ねたのか。それは、都の妻を殺されたからである。つまり、俊寛は、重罪人になっても、直接、自分の妻を殺した瀬尾に対して、妻の敵を討たない訳には行かなかったのだ。だから、これは、敵討ちの物語でもある。妻殺しの瀬尾を殺してでも、妻と自分の身替わりとして、若い千鳥と成経には、幸せな生活をしてほしいと思ったのだと思う。ふたりの将来の幸せな生活を夢見る。だから、これは、愛の再生の物語でもある。そこに、虚無の果てとしての充実、それゆえに浮かぶ喜悦の表情があったのではないか。それが、先頃までの吉右衛門の俊寛論だと思っていた。

ところが、前回(13年)と今回(18年)、吉右衛門は最後まで「喜悦」の表情を浮かべなかった。代わりに浮かべたのが、前回は「悟り」の表情だった。今回は何か。少なくとも、悟りではない。

吉右衛門は、前回の俊寛について、次のように語っていた。「成経、千鳥という恋人同士の離れがたい気持」を理解し、「自分は神の救いの船を待つのだと悟り、ああいう結果にな」ったという。「喜悦」の向こうに「悟り」を観た吉右衛門俊寛。悪の権化清盛に対抗するべく俊寛が生み出した「許しの権化」としての悟り。この俊寛に私は、懐の深い「父性」を強く感じさせた。

幕切れで、俊寛は、絶海の孤島の岩組の上で、観客席の下手方向に広がる大海原を見ている。遠ざかり行く船が見える。さらに、俊寛には、その船が、来世からの迎えの船に見えているのかもしれない。吉右衛門は語る。「ふっと見上げた俊寛の目に救世の船が映る。天女がその周りを舞いながら迎えにきてくれる。私の目にも見えています」。それを観客に伝えたいと吉右衛門は言っていた。解脱か。

しかし、今回の舞台で見た俊寛は、「悟り」などには到達していないように見えた。元に戻ったように吉右衛門俊寛は虚無的だった。そして、「虚無」の果てに「虚脱」までしてしまったように見えた。それとも、「魂が消えた」のか。

枝を折り、吉右衛門は上半身を岩組から落としそうにさえした。二代目吉右衛門は、初代吉右衛門に本卦帰りしたのではないのか。二代目は、今回、初代吉右衛門の藝に、改めて、より近づいたということなのだろうか。螺旋状に登る山道。

贅言;播磨屋吉右衛門は、初代が作り上げ、二代目が練り上げる。今回、竹本は、葵太夫が通しで語った。吉右衛門は、自分が演じる全ての演目の中で、「俊寛」がいちばん好きだ、という。今後とも、吉右衛門は俊寛を練り上げて行くことだろう。さすが、「大播磨」と声が聞こえてきそうである。何度観ても、何かを考えさせる門左衛門原作の演目であり、吉右衛門の演技である。

もう一つ、贅言;来月(18年10月)、国立劇場で、芝翫が、通し狂言として、「平家女護島」(三幕四場)に出演する。この場合の場の組み立ては、次の通り。序幕「六波羅清盛館の場」、二幕目「鬼界ヶ島の場」、三幕目「敷名の浦磯辺の場」、「 同 御座船の場」である。さて、芝翫は、吉右衛門との違いをどう出すか、これはこれで楽しみとしたい。
 

「幽玄」・玉三郎の新作歌舞伎舞踊


玉三郎/花柳壽輔演出・振付の演目は、新作歌舞伎舞踊。能楽の「羽衣」「石橋」「道成寺」の3作品を構成して、2017年に上演された。今回は、更に練り上げて、歌舞伎座初演にこぎつけた。私も初見である。

世阿弥の伝書「花鏡(かきょう)」の「ことさら当藝に於いて、幽玄風体(ふうてい)第一とせり」を目指した、という。玉三郎が3作品を選び、優美な舞踊作品となるよう構成した、という。かくて、外題は、「幽玄」となる。音楽は、能楽の四拍子、謡、「鼓動」の打楽器(大小の太鼓が主体)、三味線。

「羽衣」は、漁師の白竜(歌昇ほか。分身を含め、11人)と天女の羽衣をめぐる物語。打楽器と舞踊。能楽の小書「和合之舞」がベース。幕間の後、暗転のうちに定式幕で開幕。「石橋」は、打楽器。獅子の精(歌昇ほか。5人)。獅子の狂いを見せる。暗転の中で転換。「道成寺」は、紀伊の道成寺。撞鐘の供養の儀式。白拍子花子(玉三郎)と僧(8人)、鱗四天(24人)。撞鐘ごと恋する修行僧を焼き殺した花子は、明転の後、後ジテとして、怨霊の蛇体となって現れたが、僧侶たちの祈りに負けて、姿を消していった。


幸四郎執念の「松寿操り三番叟」


三番叟の操り人形版。幸四郎は染五郎時代からこの演目に熱心に取り組んできた。私が「操り三番叟」そのものを観るのは、今回が8回目。このうち、染五郎時代から独自の外題の演目は「松寿(まつのことぶき)操り三番叟」という。松本家の長寿を祈念しているネーミングだろう。幸四郎のこの演目の舞台を私が観るのは、今回を含め5回目となるが、幸四郎襲名後では初めてである。

「操り三番叟」は、前半、役者の翁と千歳が登場し、後半、人形ぶりの三番叟とそれを操る人形遣い、という演出と人形の三番叟とそれを操る人形遣いのふたりしか登場しない演出とがある。幸四郎の「松寿操り三番叟」は、後者の演出である。

今回は、幸四郎のほかに、「後見」(実質的に人形遣いの役廻り)として吉之丞。操り人形なので、人形遣いは天井裏にいるという想定だが……。

1853(嘉永6)年の初演で、初演時は、3人とも、人形ぶりであったという。いまのような演出は、五代目菊五郎の工夫で、前半は、役者の翁と千歳の、普通の「三番叟」の型、後半は、人形箱から人形の三番叟を「後見」という人形遣いの役者が取り出し、もうひとりの、本来の後見に手伝わせながら、人形の三番叟を操るという演出である。

「騙し&騙されの美学」の典型的な出し物と判る。役者が、操り人形を演じ、人形を吊す見えない糸が、観客に見えるようになれば、騙した役者の勝ちであり、騙された観客の至福の時間が流れる。あくまでも、役者が踊っているようにしか見えなければ、騙されない観客の勝ち。

この演目で、肝心なのは、人形を演じる役者の頭、手先、足先の動きだろう。頭は、重心が、糸で吊り下げられているように見えなければならない。手先、足先は、力が入ってはいけない。糸がもつれたり、重心が狂い、片足立ちで、クルクル廻ったりしたあげく、人形は倒れてしまう。自力では、制御不能の人形が見えてこなければならない。後見は、逆に人間らしく、動き、人形を支える。両者の一体感が無いと駄目である。

7回目の挑戦となる染五郎は、回を重ねる毎にいろいろ工夫しているという(私は、そのうちの5回付き合っている)。今回は人形らしい動きもスムーズで、糸で吊り下げられている、という軽みも伝わって来る。

幸四郎は、毎日隈取りを変えているという。三代目延若が、数多く演じ、その舞台を観た染五郎時代の幸四郎が、人形ぶりに魅せられたというが、さらなる精進を期待したい。意思のない人形の空虚感、人形に徹して、空虚を目指したいという。「最初から最後まで操り人形になりきって」という。その意気や、良し。
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