石原莞爾平和思想研究会の同志であった藤本敏夫さんは、全学連の委員長時代、学生運動関連で実刑判決を受けて獄中で歌手の加藤登紀子さんと結婚しました。有機農法実践家、大地を守る会初代会長、鴨川自然王国・理事長を務めていました。
一緒にお酒を呑み語り合っていたのですが、農林水産大臣に建白書を送った後、58歳の若さで旅立たれてしまいました。加藤登紀子さんとは、何度かお会いしたことがありますが、なにかの折に挨拶した記憶がありますが、きちんと話をしたことはなかった。
しかし、藤本さんからはお話を聞いたことがありました。加藤さんは、幼いころにハルピンで終戦を迎え、外地から引揚げてきた。歌手では加藤さんは「赤い風船」でレコード大賞新人賞を受賞しています。
また、1965年にはシャンソンコンクールで優勝しています。加藤さんはソ連を訪れている。横浜―ナホトカ航路でナホトカ、鉄道でハバロフスク、そこからアエロフロートでモスクワへと、コースまで同じだったらしい。
加藤さんが書いた歌の一つに、「時には昔の話を」というのがある。そのなかに、「嵐のように毎日が燃えていた息が切れるまで走ったそうだね」というフレーズがでてくる。年代こそ違いますが「そうだなあ」と私もひそかにうなずく気持ちがあります。
だが、声にだしてそれを言うことに、なぜかためらいを感じ続けてきた。しかし、最近少し考えかたが変わってきたような気もする。「昔の話」ばかりをするわけにはいかない。だが、「時には」なのです。ときには昔の話もするべきだと思うようになってきたのです。
石原莞爾平和思想研究会には戦争体験した方が多々います。会報誌に戦争の時代の話や引揚げの話、戦後のこの国の話などを投稿していただきたいものです。1960年代の一冊の新書があります。情況出版から出た情況新書「登紀子1968を語る」という新刊です。
1968年という時代をめぐる加藤登紀子の回想と、対談二つを収録したものです。対談の一つは、現役の学生との対話、そしてもう一つは「上野千鶴子との対談」です。私はやはり上野さんとの対談がことにおもしろかった。
このなかの加藤さんの言葉に、「日本的なるもの」というのがでてきます。なにしろデビューのとき、演歌の作曲家のところへバルバランのレコードを持参して、「こんな曲を書いてください」と頼んだというのだから愉快です。
幼いころからロシア民謡を耳にして育ったという加藤さんが、やがて「日本的なるもの」に気づくのは当然でしょう。ロシアもアラブ、イスラム圏もラテンアメリカも、ともに、マイナーコードをメジャーとする文化圏なのだから。とりあえず刺激的な一冊だった。「時には」昔の話も大事にしなければと思わせられた一冊です。
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