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2018年04月20日07:29

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石原莞爾を狙う東條英機


石原莞爾が、新聞記者に『閣下は東條参謀長とは対立しているようですが』と言われた時に、『対立ですか、それは可笑しい。私には思想があるが、東條には思想がない。だから対立するわけがないじゃないか』と言ったのを私は父から聞いている。

東條英機は努力家で、権威がとても好きで、手帳を何冊も所持していて、必ずメモを取る几帳面な事務屋です。石原莞爾から見れば、上に立つ人間は大局観が大事だと思っているので、手帳の整理ばかりしているのは、人の上に立つ者のすることじゃないと思っていた。

石原莞爾には、世界最終戦争論という思想がありますが、東條英機にはそのようなものはなく、権威だけに頼り、憲兵を使ってスパイ活動だけを行っているのです。石原莞爾からみれば、国外が大変なときに国内で盗聴ばかりやっているのはまともな軍人のやることではないと体質的にも合わないのです。

東條英機は、昭和13年5月に陸軍次官になります。陸軍大臣に次ぐ地位です。同時に板垣征四郎が近衛首相の任命で陸軍大臣になります。板垣征四郎は、石原莞爾とはとても仲のよいコンビです。知略の石原に行動力の板垣と言われていました。

そして陸軍次官に昇格した東條英機の後任として磯谷廉介が関東軍の参謀長になります。石原莞爾は東條の後任の磯谷とぶつかり、内地に引き上げてくるのです。その後、石原莞爾は13年12月に閑職として舞鶴の要塞司令官になります。

その隙に、東條英機は、石原派の拠点である東京の協和会に憲兵を入れて中心人物の浅原健三を逮捕しました。だが、板垣征四郎が陸相ですから、東條英機も思うように協和会を潰す事が出来なかった。

そして板垣征四郎は、昭和14年8月にノモンハン事件の責任をとって、陸相を辞めますが、その時、板垣の人事で石原莞爾は京都の16師団長に任命されて生き延びるのです。しかし、東條英機が昭和15年7月に近衛の第二次内閣の時に陸軍大臣になってしまいました。

それからは東條英機の天下です。だが、東條英機は直ぐに石原莞爾の首を切らなかった。協和会の血気盛んな青年部を恐れたのでしょう。最終的に石原を陸軍から追い出すのは16年3月になってからです。石原派は、その後も東條英機から様々な弾圧を受ける。

東亜連盟の運動をしている石原莞爾に、東條が憲兵を張り付かせ、要人が近づけないようにしている。また、石原莞爾の著作を発禁処分にまでしているのです。石原莞爾が東條英機から追われることによって、太平洋戦争の道が決まったのです。

そして、東條が太平洋戦争を始めると石原莞爾の予想がすべて的中するのです。『支那事変』をやればやるほど、ナポレオンがスペインのゲリラ戦争に巻き込まれて失脚したように、日本は泥沼にはまっていくといった石原莞爾の予言どおりになるのです。
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