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2018年02月19日12:28

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最近、考えたこと。Part0078



 さてと、「人民の天皇論」に対する「対抗プロパガンダ」の構築急ぎますか。しかーーし!「絶海(鎖国)時代編」超絶難航中<(T^T)>。某博士と違って元々頭が悪いオタッキーが「無理を承知」をやってるんでダッチロールの連続(ToT)。だーーーー、少しは「仕事」しろよ東京大学史料編纂所(怒)!、自称公共放送を名乗る国賊放送局で「デマ宣伝」ばっかりしてないで、し・ご・と・し・ろーーーーーーー(激怒)!大体、なんで本来お前らがやるべき仕事をゴミ箱部屋のオタッキーがやってると思ってんのよ(怒)?


本郷和人やら、山本博文やら、酒井信彦やら、うんざり(-_-;)。うんざりだよ(ToT)!


莫大な国費つかって「国難」知らんぷりか?税金ドロボーーーーー(怒)!司法が正常なら「お巡りさんこいつです」ってよっぼと言いてえや(ToT)。ぐぞーーーーーー(ToT)(ToT)(ToT)。ふーーー、嘆いてないで話を進めよう(怒)。超絶難航中の「絶海(鎖国)時代編」まず判ってることを確認するところから始めよう。まず、最初は


1、10世紀半ば日本は韓半島からの撤退政策を完了し、遣唐使を廃止してチャイナ式朝貢秩序(東洋的国際法)上の「絶海」に自国を置いた(鎖国した)


ってこと。わかってない人が多いと思うから少しチャイナ式朝貢秩序(東洋的国際法)について解説しておこう。これ判らないと古代日本人がどれほど之で「苦悩」したかが分らなくなっちまうからな(-_-;)。迫りくるチャイナ独裁政権との「対決」でも絶対必要な「知識」だ。まず、みんなビックリするかも知れないけど書いておく


チャイナ諸王朝は本質的に「属人組織」である


ってことを。だから、あの強大な唐王朝が突然「周王朝」になってこれまたすぐ唐王朝に戻るなんてあっけ( ゚o゚)にとられる「珍事」がしょちゅうおこるわけだ(笑)。忘れてはいけない日本においてはまず「日本国」という「場」があってその中に「天皇」が君臨するという「法」があるわけだが、


チャイナにおいてはまず「皇帝」が君臨し、その「支配領域」をチャイナと「定義」する


のさ。これが「チャイナ帝国」というものなの(-_-;)。文字道理どんな「出鱈目」でもやったもん勝ちだわな(怒)。外人が「皇帝」としてチャイナに君臨することも、外国を占領してその国をチャイナと「定義」することも「自由自在」さ。世界が絶句するユーズー無碍な「チャイニーズ・ロジック」というのは之に由来する。まさに「君子豹変」するってわけだ(黒笑)。なぜそうなったのかについてはロシア東欧史で少し触れた「文明の乗っ取り」や繰り返された「民族大移動」などの複雑な要素を文化史を主体に時系列的に丹念に追わないといけないのでここでは割愛する。ま、時間があったら後で少し書くよ。結果、


文化人類学的な地理的呼称としての「チャイナ」とチャイナ諸王朝の「支配領域」は常に乖離する


ようになった。ほぼ、一致していたのは「北宋」王朝時代くらい?軍事的情勢の変化によって呼吸する肺みたいに拡大と縮小を繰り返した挙句にチャイナ諸王朝はその支配領域を実に複雑な


「階層的秩序」によって統治する手法を編み出したこれがチャイナ式朝貢秩序(東洋的国際法)だ。


時期的にかなり相違がありチャイナ官僚制の形式とも相まって主として4つの時期に分類できるのだがそれは置いといて、最終バージョンの「清」帝国時代の形式を元に説明しよう。「清」帝国はチャイニーズの国家・王朝ではない、あくまで満州・蒙古二重帝国がチャイナ全土を「植民地化」して出来た国家だ。それだけに逆に「制度」がよく分る。「階層的秩序」の分類は以下のとおり


1、天領  満州全土を指し「皇帝」個人の私有地。旗本に当たる旗人(満州人)に「皇帝」が土地を封建し「祖廟」を守らせる事実上の無人地帯。

2、藩部  蒙古、ウイグル、チベット等、満州「皇帝」を自国の君主と頂く「同君連合」諸国。内政自主権を持ち、外交権を帝国政府に委任し有事には徴兵動員され従軍する義務を負う。

3、省部  チャイナ本土。満州帝国の植民地。満州「皇帝」が兼務するチャイナ皇帝として官僚を使って直轄統治する。

4、藩王国 植民地の一部を功臣に分与して建国させる封建国家。ほぼ全て後に取り潰される。

5、土司  難治の地方の豪族を官位・金品で懐柔して創る部族国家。土司をおく事を羈縻政策という。

6、冊封国 いわゆる臣従した属国。定期的に朝貢する義務を負う。待遇は千差万別。

7、入蕃国 いわゆる朝貢国。交易目的で不定期に朝貢する国々。

8、絶海国 チャイナ式朝貢秩序を認めない無関係国。


後もう一つ。チャイナ諸王朝を武力で屈服させた国々があるのだが、これには「名称」が無い。チャイナ国内では屈服の事実を「隠蔽」して5、土司の一種として取り扱うのが通例だ(苦笑)。法制通史概論で記述したファースト・チャイナ帝国を滅ぼした南フン族は上記の分類では2、藩部にあたる。古代の日本の対チャイナ外交は


1、紀元前60年に絶海国としていや絶海国になるために建国され
         ↓
2、238年に卑弥呼か朝貢して入蕃国になってみたらあまりに内政干渉が酷いので
         ↓
3、266年に対魏断交して絶海国に戻ったが
         ↓
4、413年に半島戦線の休戦斡旋のために渋々南朝に臣従し冊封国となったが
         ↓
5、513年にあまりにも南朝が役立たずなんで断交して絶海国に戻り
         ↓
6、600年にチャイナ・高句麗戦争の勃発を契機に対チャイナ対等外交を挑むも
         ↓
7、894年に高句麗の半島制圧を契機に対等外交を諦め対唐断交して絶海国に戻った


ってわけ。日本が建国以来ずーーーーーーとチャイナと「対等外交」を求め、ずーーーーーーと失敗し続けてきたのがよく分るだろう(怒)。ちなみに建国の夢「対チャイナ対等外交」を勝ち取ったのは対唐断交の977年後の1871年の日清修好条規で、「対チャイナ対等関係」を勝ち取ったのは1001年後の1895年の下関条約(日清戦争講和条約)だ。


リアルにちょーーーーど1000年かかったわけだ(笑)。


冗談のような「ホントの話」。少し話が斜め45度ほどズレたので修正修正。日本の建国の原義が「対チャイナ対等外交」にあったことが判って貰えただろうか?父祖たちはこれを熱烈に求めた。そして「失敗」し続けた。悲しい話だが当時、政治・軍事・経済・文化・技術の全ての分野で俺たちは圧倒的に「絶対劣位」にあった(ToT)。だが、父祖たちは決して諦めなかった。実に1000年の時間をかけてひとつ、またひとつとしらみつぶしにすべての条件をクリアしていった。


この「緊張感」が理解できなければ「国史」は決して理解できない(怒)。


いうなればこれは我等が父祖たちが「祖国」の「真の意味」での「独立」を求めてそれを勝ち取っていく「物語」なのさ。それでは父祖たちがそれをどうやって勝ち取っていったのかについてはまた次回語ろう。とほほ。



おまけにみくしー検索かけてみました。はーーー、ゼロかい、ゼロなのかい(ToT)。

「対等外交」

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