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2018年01月08日14:13

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幕府が終わって


 今日は格段に寒い。
 庭に出ていたが、冷たい雨と寒さで早々に作業切り上げ。外は冷たい風も吹いている。
 前線が通過したので、気温が下がるのはこれからだろう。今夜はかなり冷え込むと予想されるが、雨の降り方は春のようでもある。チューリップに水をやらなくても良いのは助かる。

 今の日本では征夷大将軍という役職は廃止されている。廃止されてはいるが憲法が改正されれば復活の目もあるのだろうか?
 征夷大将軍が幕府を開き、政府の借金を幕府に負わせる。幕府が滅亡すれば借金は無くなるとかそんな寸法。梅田に幕府をひらけば「梅田幕府」。
 大阪都構想と一緒に考えても良かろうとも思う。
 憲法を改正し、征夷大将軍を指名する。征夷大将軍は梅田に幕府を開き、大阪府を廃止、大阪都とし、日本政府とは独立した政権運営を行う。国債をどうやって幕府側に移管させるかのスキームはちょっと思いつかないが、とりあえず大阪は日本とは別のエリアになるので、まず世界の商業都市を目指す。法人税などを一旦非課税にし、カジノなども誘致する。港湾を整備して、現在パナマに取られている船籍を大阪都に取り戻す。自由貿易を政権の柱として、世界の商取引をけん引する。大阪証券取引所が、ロンドン・ニューヨーク・東京と並ぶ世界4大市場となり、世界中の銀行が大阪に本店を置くようになる。
 淡路島を兵庫県から買い取り、新たに「淡路島国際空港」を建設する。空港アクセスとして、大阪湾の航路を充実させ、関西国際空港・神戸空港と共に並列で運用する。

 この大阪都構想に転機が訪れるのは、香川県が大阪都構想にすり寄り、県を解体、大阪都の一部となることが大きなきっかけになる。うどんが世界規模で販路拡大され、2030年には世界の標準食は「うどん」となる。
 インドでは、「マトンカレーうどん」が国民食になり、「野菜カレーうどん」と「ひよこまめカレーうどん」かこれに続く。
 中国では、上海うどん、四川うどん、北京うどん、などが代表的なうどんとなる。上海うどんはトッピングに上海ガニがのっているのが正式なものだと考えられているが、通常は「かにかま」がトッピングされている。四川うどんは真っ赤なチリ出汁が特徴のホットなうどんで、北京うどんは山椒が利いて餃子がトッピングされている。
 アメリカでは主にハンバーグうどんが食べられるようになる。パンズに挟んだハンバーガーはほとんど見られなくなった。
 ドイツでは、ビールを飲みながら素うどんを食べるのが国民の標準食となり、イタリアではパスタが衰退しうどんが主流となる。
 ロシアでは「キャビアうどん」が国民的主食となり、フランスでは「フォアグラうどん」や「トリュフうどん」が国民食になる。
 ロンドンでは、「フィッシュアンドうどん」が食べられるようになり、週末には「ローストビーフうどん」を食べることが習慣になる。
 コートジボアールでは「チョコレートうどん」が食べられるようになり、カカオの生産が見直される。エチオピアでは「コーヒーうどん」が一般的に食されるようになる。
 ドバイでは「原油うどん」が食べられるが、これは原油を使った料理ではなく、イスラムのハラール食としてのうどんを「原油うどん」と称しているだけである。なお、ドバイ以外ではこれを普通に「ハラールうどん」と呼ぶ。
 ブラジルでは何故か「伊勢うどん」が主流になる。チリでは「アンチョビうどん」が一般的だが、アルゼンチンでは「バカうどん」が食べられる。ここで言う「バカ」とは馬鹿の事ではなく牛肉を指す。つまり日本で言う肉うどんに相当する。
 日本では「桜うどん」(馬肉うどん)、「もみじうどん」(鹿肉うどん)が名物となり、世界中から大阪や高松にこれらの名物うどんを食べにくる旅行者やビジネスマンが集まるようになる。
 なお静岡県の一部で食べられる桜エビうどんは、桜うどんとは別の食べ物である。富士そばは、東京を中心に展開するそば屋であり、東京を訪れる旅行者は富士そばで桜うどんを注文しがちだが、店によっては全く違ったうどんを提供していることが多く(例えば、とろろうどんを「桜うどん」として販売、大阪に来て初めて嘘だと知る旅行者は多い。)
 旅行者の中には、淀屋橋を訪れ、日本の国債をお土産に買っていくものも多く、いつも完売で売り切れになりがちである。こうして、日本の国債は世界中に拡散し、幕府が開かれてたった20年足らずで、日本政府の借金はチャラになるのであった。

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■幕末・維新150年「なにわの歴史舞台を歩く」
(THE PAGE - 01月08日 13:12)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=177&from=diary&id=4934549

 戊辰戦争で徳川幕府勢に勝利した官軍が明治新政府を樹立したのが1868年。2018年は幕末・維新から150年の節目に当たる。近世から近代へ。歴史転換の舞台は京や江戸に限らない。なにわで歴史が動いた現場を辿ってみよう。


軍政改革者・大村益次郎の死
 大阪市営地下鉄谷町四丁目駅で下車し、上町筋を南へ歩くこと数分。石造りの重厚な構造物が迫ってくる。長州藩士大村益次郎を顕彰する大阪市中央区の「大村益次郎殉難報国の碑」だ。

 太平洋戦争開戦を翌年に控えた1940年の建立という時局柄もあり「明治兵制の創始者」としての大村の功績を改めて評価する内容になっている。賛同者が列記され、伊藤忠兵衛、野村徳七、松下幸之助ら、関西経済界主要メンバーの名前も確認できる。

 大村は若くして蘭学や医学などを習得。軍事に長じ、戊辰戦争を転戦して官軍の勝利に貢献。新政府では兵部大輔に就任し、軍政改革に着手した。

 しかし、1869年に京都で急進的な改革に反対する刺客に襲われて重傷を負い、運び込まれた大阪の病院で死去。維新を成し遂げたものの、軍事力に勝る欧米列強の脅威にさらされ続ける新政府にとって、大村の死は大きな痛手となった。


中之島の蔵屋敷は治外法権の大使館
 地下鉄肥後橋駅で降りて、大阪市西区の土佐堀通を西へ。ビジネスパーソンらが忙しげに行き交う通りに面して、大村が所属していた長州藩と、西郷隆盛や大久保利通らが拠点とした薩摩藩の蔵屋敷跡の顕彰碑が、やや離れた位置に建つ。

 江戸期の中之島には、諸藩の蔵屋敷が集積していた。徳川将軍と全国諸藩の連合制ともいえた徳川政権では、雄藩の蔵屋敷は大使館のような存在だった。幕府の威信低下に伴い、幕府の干渉を拒める治外法権の政治力はますます強まっていく。

 政局の火花が散る京と大坂は、淀川の三十石船で直結。中之島は大阪湾、瀬戸内海を通じて西国とつながっていた。維新の志士たちは蔵屋敷を中継基地として利用することで、隠密裏の移動や情報交換をやってのけた。150年前の土佐堀通を歩いてみたい。


西長堀に漂う濃厚なる土佐藩の気配
 大阪市西区西長堀の市立中央図書館西隣にある土佐公園。いつも子どもたちの歓声が絶えず、しばし仕事を忘れてくつろぐ大人も少なくない。

 公園の北側に土佐稲荷神社がある。ご当地一帯にはかつて土佐藩の蔵屋敷が広がっていた。同神社は蔵屋敷の守護神だった。桜の季節には町人にも開放され、花見客でにぎわったという。土佐公園内の花見は往時の名残を留めている。

 坂本龍馬、後藤象二郎、中岡慎太郎、岩崎弥太郎、板垣退助。土佐藩は幕末維新の激動期に、多くの逸材を動乱の渦の中に投げ込んだ。

 昭和になって、土佐の逸材に熱いまなざしを向ける人物がいた。作家の司馬遼太郎だ。司馬は同神社に隣接する集合住宅に暮らしていた1960年、直木賞を受賞した。

 集合住宅も土佐藩の蔵屋敷跡のスペースに建てられている。まもなく司馬は坂本を主人公に代表作「竜馬がゆく」の執筆に打ち込む。西長堀に漂う濃厚なる土佐の気配が、多くの人々を勇気付ける名作に、一層の力を与えたのではないだろうか。


武士名鑑が人気だった「大坂町奉行所」
 幕府側の拠点のひとつが、大坂町奉行所。大阪市中央区のマイドームおおさか前に、西町奉行所跡の石碑が建っている。

 幕府直轄地の大坂では、幕府から派遣される高級官僚の町奉行が警察、司法、行政の任に当たっていた。警察本部長、裁判長、知事を兼務するような権力者だ。実際に奉行所の実務をこなすのは、地元採用で世襲制の与力や同心たちだった。

 奉行所の周囲には、裁判に出廷する人たちが宿泊する宿屋が建ち並んでいた。村役人たちのような常連客に、顧客サービスの一環として、奉行所役人の情報を網羅した武士名鑑を無料配布する宿屋もあった。

 武士名鑑専門の出版社が取材活動を展開し、人事異動が発令されるとすばやく情報をキャッチして最新版を刊行したという。担当役人の情報を集め、少しでも裁判や交渉事を有利に進めたい。情報戦で勝つ。昔も今も変わらぬ市民感覚だろう。

 鳥羽・伏見の戦いで幕府軍の足並みが乱れ、大坂城は炎上。天下の巨城が炎に包まれる情景に直面した大坂の庶民たちは、江戸っ子たちよりも早く、徳川の世が終わったことを理解したという。西郷隆盛の実像に迫るNHK大河ドラマ「西郷どん」でも、大坂が度々登場してくることだろう。
(文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)
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