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2016年03月21日17:12

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最近、考えたこと。Part0034


 さてと、3月も下旬なのに今月まだ1本しか書いてない。しかも微妙に中途半端なとこでとめてしまったので話を続けますか。前回、遷宮時代の歴史的経緯とその原因について書いた。今回は少しさかのぼって建国期を含めた遷宮時代の歴史的遷移について追って行こう。だがその前に遷宮のもう一つの原因について書いておきたい。


それを「殯宮の制」と呼ぶ。


じゃ、これ何なのか?ストレートに言ってしまえば「土葬」のことなのだ。古来、皇室では天皇が崩御なされるとその御遺体を安置する


「宮殿」を「殯宮」と言う名の「墓所」として封印する


慣習があったのだ。無理もない。医学が未発達で、クーラーもドライアイスもなかった時代。少しでも望みをつないで「死の判定」を遅らせようとする「心理」と、目の前で父君の御遺体が崩れていくのに直面する「現実」との間で古代の諸帝たちは引き裂かれてしまったわけだ。繰り返すが無理もない話しだ。ふーー(-_-;)。通例では1〜3年間「殯宮」し、1〜3年後にその間に造営した「御陵」に正式に葬られるわけだ。その間、「殯宮」とは別の場所に「新宮殿」が建てられ政務・神祇は以後そちらで行われるわけ。これが、戦時でもないのに「総本拠地」内で「遷宮」が繰り返し行われた理由だ。ちなみにこの「殯宮の制」は皇室にとってトラウマになるほど辛い制度だったらしく、以後「死穢の教理」をもって「生死にかかわる事柄」を身辺から極端に排斥するようになる。これが、「武士の勃興」を始めとする国史の発展に大きくかかわってくるのだがその話はまた後で語ることとして話を元に戻そう。えっと、遷宮時代の歴史的遷移だったな。前回掲載した建国から現代までの遷宮の一覧を一部修正したものは以下のとおり


「総本拠地」    初代神武天皇 紀元前60年?〜 推定254年間
                   ↓
奈良県奈良市  第09代開化天皇 西暦0195年?〜 推定 32年間 統一戦争
                   ↓
「総本拠地」  第10代崇神天皇 西暦0227年?〜 推定100年間

滋賀県大津市等 第12代景行天皇 西暦0327年?〜 推定 35年間 韓国建国戦争
                   ↓
「総本拠地」  摂政・神功皇后  西暦0362年 〜 推定 17年間
                   ↓
大阪府大阪市  第15代応神天皇 西暦0379年?〜 推定 49年間 対高句麗戦争
                   ↓
「総本拠地」  第17代履中天皇 西暦0428年 〜     5年間
                   ↓
大阪府松原市  第18代反正天皇 西暦0433年 〜 推定  5年間 (大阪廃都)
                   ↓
「総本拠地」  第19代允恭天皇 西暦0438年?〜 推定 16年間
                   ↓
奈良県天理市  第20代安康天皇 西暦0454年 〜 推定  3年間 (眉輪王の変)
                   ↓
「総本拠地」  第21代雄略天皇 西暦0457年?〜 推定 32年間
                   ↓
奈良県天理市  第24代仁賢天皇 西暦0488年?〜 推定 10年間 (皇子帰朝)
                   ↓
「総本拠地」  第25代武烈天皇 西暦0498年?〜 推定 09年間
                   ↓
大阪府枚方市等 第26代継体天皇 西暦0507年?〜 推定 19年間 (正統入都)
                   ↓
「総本拠地」  第26代継体天皇 西暦0526年?〜 推定126年間
                   ↓
大阪府大阪市  第36代孝徳天皇 西暦0652年 〜    03年間 (百済救援戦争計画)
                   ↓
「総本拠地」  第37代斉明天皇 西暦0655年 〜    12年間
                   ↓
滋賀県大津市  第38代天智天皇 西暦0667年 〜    05年間 (壬申の変)
                   ↓
「総本拠地」  第40代天武天皇 西暦0672年 〜    37年間
                   ↓
奈良県奈良市  第43代元明天皇 西暦0710年 〜    74年間
                   ↓
京都府向日市  第50代桓武天皇 西暦0784年 〜    10年間
                   ↓
京都府京都市  第50代桓武天皇 西暦0794年 〜  1074年間
                   ↓
東京都千代田区 第0124代明治天皇 西暦1868年 〜
                   ↓
現代・東京時代 第0127代今上陛下 西暦2016年  今年で149年目


一目瞭然。建国から推定254年間、皇室は総本拠地(奈良県橿原市とそれに隣接する4市町村)を動いていない。これは「欠史八代」とぴったり一致する。地図を見ればすぐわかるがこのとき皇室が「東国開拓」に使っていた「兵站連絡線」も再現できる。おそらく和歌山市→五條市→御所市→橿原市→桜井市→高見峠→伊勢市→渥美半島の順だ。渥美半島掘れば古代の要塞が出てくるはずだぜ。おそらくは伊良湖岬か大山の周辺で伊勢神宮のワンセット一組となった「城」がね。ま、話がずれた元に戻そう。第09代開化天皇の時代に始めて皇室は総本拠地の「外」に遷宮する。奈良県奈良市の春日率川宮だ。西暦0195年?のこと。これは「倭国大乱」とほぼ一致する。東国を完全制圧した直後、淀川・琵琶湖水運とアクセスの良い奈良市に「大本営」を前進させたのだろう。高見峠より鈴鹿峠の方が伊勢そして東国とのアクセスもいいしね。そして日本全体を統括する初の「帝」として即位したのが第10代崇神天皇だ。その和風諡号「所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) 『古事記』 」について赤学者が馬鹿なこと言ってるのには本当にウンザリ(-_-;)。やつらの悪すぎる頭では「建国者」が二人もいるわけないんだそうだ。「中興の祖」って言葉知らないのかね?長い皇統の歴史では「いくらでもある話」だぜ。しかも、古事記と日本書紀をゴッチャにしてやがる。古事記には矛盾がないことさえ語らない。返す返すウンザリ(-_-;)。これは「二法並存法制」というわが国の「国体(=慣習法を含めた憲法総体)」にも係わる重要論点なので少し触れておこう。記紀の記述は以下のとおり


  初代神武天皇   始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)日本書紀

第10代崇神天皇     御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)日本書紀

第10代崇神天皇 所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)古事記


明治立憲の時にも議論されたことだが「しらす=知らす」であり、実は「君臨」を表す「法制用語」なのだ。そしてこれは必ずしも「統治」を表さないのである。これは建国のときからずーーーとそう。日本の法制においては「君臨」と「統治」は建国以来すーーーと「峻別」されてきており、最終的には「宮務法体系」と「国務法体系」が同時並列的「施行」される「二法並存法制」がこの国の「国体(=慣習法を含めた憲法総体)」になっのだ。これは今この瞬間もそう。これについては「多くの経緯」があった話だからこれからゆっくり語っていくよ。ま、いまはわが国においては「君臨と統治」は「峻別」しなければならないとだけ覚えておいてほしいね。そのうえで、上記諡号を解説すれば


日本書紀の初代神武天皇に対する諡号は「追号」である


ということ。だから、古事記には記載がないのさ。神武天皇の時代の皇室はまだおそらく「出雲王国」支配下の一豪族であり、部下にさえ裏切られて族長の五瀬命が戦死する大苦戦の真っ最中。神武天皇おん自ら白刃をかざして奇襲作戦の指揮を執らなければならなかった時代だ。「しらす」なんていってる場合ではなかったのだ。だが後世、わが国に「君臨」することとなった皇室は自分たちを「総本拠地」に導いてくれた神武天皇の徳をたたえそう始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)「追号」したのである。わかり易く現代語訳すれば


  初代神武天皇   初めてわが国(大和国)に君臨した天皇

第10代崇神天皇   初めてわが国(日本国)全体に君臨した真の天皇


ってこと。いいかげん、このぐらい理解しろよ(-_-;)。それから100年間、統一戦争に勝利して安泰となった皇室は「総本拠地」からこの国を統治した。だが書いたとおり大陸で「民族大移動」が起こり半島に動乱が飛び火し、それに対処するために倭健命を先頭に国軍が建軍され韓国建国戦争に打ってでたわけだ。東海道が日本の大動脈になったのはこのころの話だな。主力部隊の侵攻もおそらく「旧出雲王国」が設置した「日本海ルート」が使われたのだろう。そこで「新羅問題」がでてくるわけだ。兵站連絡線は


滋賀県大津市→福井県敦賀市→島根県出雲市→韓国蔚山市→韓国ソウル市→平壌コロニー


の順だな。だが、新羅が「裏切った」。そこで日本側は「日本海ルート」を捨て、大規模に兵站連絡線を再構築しなければならなくなったわけだ。その核として作られたのが「大阪」だった。これが神功皇后の三韓征伐の真相だ。新羅を迂回して半島に侵攻するため新たな兵站連絡線が敷設された。


大阪府大阪市→山口県下関市→福岡県福岡市→韓国金海市→韓国ソウル市→平壌コロニー


作戦は大成功。日本軍と同盟軍(百済王国軍)は平壌コロニーに侵攻。高句麗の故国原国王を討ち取りコロニーを占拠した(西暦371年)。第15代応神天皇の御世だ。帝は後に武神として武家の名門「源氏」の氏神「八幡さま」としても崇められる事となった。鎌倉の「鶴岡八幡宮」は初代鎌倉将軍・源頼朝が建てたその分社だ。ただ、「戦争」はそれでは終わらなかった。そっから先はまた次回語ろう。



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