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2015年10月21日12:22

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【アニメ雑談】 「ガンダムらしさ」を考える(追記しました)

みなさん、こんにちは。連雀です。


最近、「ガンダムらしさ」と言うものについて考えています。

なぜ、今更「ガンダムらしさ」なのかと言えば、当然、現在放送中の「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」のためですね。

曰く「この作品って、ガンダムである必然性があるの?」

と言う疑問をあちこちで聞くもので。

私も、第一話、第二話と見てまったく同じことを感じました。

「ガンダムらしさ」と「面白さ」がイコールってわけでもないのですが、やっぱり「機動戦士ガンダム」とタイトルに書いてあると、どうしても気になってしまいます。

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私の考える「ガンダムらしさ」ですが、やはりディスコミュニケーションの物語ってことではないかと思います。人と人は分かり合えない。富野由悠季監督が過去に何があったのか良くは知りませんが、特に両親とは互いに理解し合えないことを執拗に繰り返していますよね。

人と人は絶対に理解し合えないと言う絶望があって、それでも理解し合いたい、共感したいと言う願望が「ニュータイプ」を生んだのでしょう。「ニュータイプ」こそが宇宙時代に対応した「人の革新」とし、その「ニュータイプ」たちが作る「ニュータイプ社会」とは実現するかどうか分からないけど、宇宙時代の人類が求め続けなくてはならない「理想郷」なのだと思うのです。

そして、人はそこに辿りつけない。

「ガンダムらしさ」とは、この「人と人が誤解なく分かり合える世界を求めるが、何度繰り返しても得られない悲哀」だと思います。

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ガンダムと言う作品を象徴するキャラクターと言えば、第一に「シャア・アズナブル」が思い出されます。

そのシャアこそ、ディスコミュニケーションの代表のような人で、ザビ家への復讐と言う最大の目的を誰とも共有せず、たった独りで達成しようとするところなどその最たるもの。

それだけでなく、最後に残った肉親であるアルテイシアを捨て、親友だと無垢な信頼を寄せてくるガルマの事はただの仇としか見ていつか殺してやろうと思いつつ付き合っており・・・そもそも復讐だけを目的に生きている人間に、他者との共感など邪魔なだけです。

そんなシャアが、唯一繋がりを求めたララァは戦死してしまいますし、ニュータイプ社会を目指していた「逆シャア」ではその実「反連邦勢力の「みこし」に祭り上げられてしまい、人と人とが誤解なく分かり合える世界なんて幻想にすぎないと思い知る結果となります。

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作品としては大好きなのですが、高山文彦監督の「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」も、観ていて「これってガンダムである必然性がどれだけあるの?」と思いましたしね。逆に「機動戦士ガンダム0083」や「MS-08小隊」は、ニュータイプこそ登場しませんが、人と人が互いを求めているのに、気持ちはスレ違い、最後まで理解し合えない感じが、ダンダムらしく感じたのですが・・・そんなことないですかね?

※追記です・・・ぴんぐさんのコメントに返答している中で、上記の「0083」や「MS08小隊」についても、やっぱり「ガンダムらしさ」とは違うな・・・と思ったので追記します(ぴんぐさん、ありがとうございますm(_ _)m)

「0080」に対して「0083」や「MS08小隊」は「最後まで理解し合えない感じが・・・」と書きましたが、そうした所属する組織の違いや思想の違いによって互いを理解できない物語は、別にガンダムでなくても普通に存在しております。そこからさらに進んで「今はできないが、誤解なく互いが理解できる理想の社会があるはずだ」と、そんな理想を求める意志と挫折があってこその「ガンダム」だと思いますので、やはり「0083」や「MS08小隊」も、宇宙世紀を舞台にしてはいますが「アナザー」のひとつだと思い直しました。



ただ、繰り返しになりますが、せっかく富野由悠季監督以外で「ガンダム」を作るのですから、まったく違った「ガンダム」になることには特に違和感は感じていないので、普通に「オルフェンズ」のこれからも楽しみにしています。
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