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2015年05月12日22:20

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大空輸


1948年、ドイツ敗戦の後、連合国は分割占領された首都の支配を巡って対立が起こります。

ソ連はドイツとの戦争での甚大な被害から、取れるものは全てとる方針のため、

早期復興を唱える西側3か国と対立。

対立の中、ソ連は西ベルリンへの交通制限を西側へ通達。

4月1日、ソ連軍政当局は西ベルリン向けの人員や貨物に検問を強行、

物資搬入にも制限をかけます。

ソ連が6月24日より東側領域において通貨改革をすると宣言すると、

西側も6月20日より西側領域でも通貨改革を実施すると公表。

マーシャルプランに保障される西側通貨が力を持ち、東側の通貨改革は失敗。

ソ連側は反発、6月24日より西ベルリンへの陸路の完全封鎖を実施します。

鉄道運休、運河の船舶輸送も停止、検問所にはバリケードを設置、

物流を完全に停止。西ベルリンへの電力供給も停止されます。

ソ連は政治宣伝を行い、物資不足に反発した西ベルリン市民により暴動やストライキが発生し、

社会主義革命が発生することを期待。西側の西ベルリン放棄を狙っていました。

ただ、1946年2月の取り決めで、西側からベルリンまでの3本の空路、通称「ベルリン回廊」は、

西側諸国による自由な利用が認められていました。

西ベルリン市民200万人の生活を支えられる物資を

空輸だけで運べるとは考えられなかった為と、

ソ連としても西側と全面対決を避けたかったのが、空路封鎖をしなかった理由です。

直ちに連合国は空輸作戦を開始し、1949年1月には

月間輸送量は171,690 tに達し、1日平均で5,540 tとなります。

これは、冬期暖房に燃料の石炭使用量が増えても、

西ベルリン市民の生活を支えるに十分な量です。

4月16日には1日のフライト回数1,398回、空輸量12,940 tとピークに達します。

不可能と思われていた、西ベルリン市民の必要物資を航空機のみでの輸送が成功した結果、

ソ連が期待した西ベルリン市民による社会主義革命は起こらず、

生活物資輸送における西側の必死の努力は、ベルリン市民に西側との連帯感を高め、

封鎖前に頻発していたストライキが激減します。

空輸作戦が成功し、封鎖の失敗が確実となった1949年5月12日、封鎖は解除されます。

ちょうど66年前の本日です。

ドイツでは、この空輸作戦を「ベルリンへの空の架け橋」 と呼びます。

封鎖解除後も作戦は西ベルリン市民の生活安定のため続けられ、

公式には1949年9月30日に終了。

1948年6月26日からの総飛行回数は278,228回、空輸物資量は2,326,406 tに達します。

空輸作戦で航空機の飛行した距離の総合計は、地球から太陽までの距離に匹敵。

要した費用は、当時の金額で約2億2400万ドルで、現在のレートで約20億ドルになります。

期間中17機のアメリカ軍機と8機のイギリス軍機が事故を起こし、

アメリカ人31人、イギリス人40人を含む計101人が亡くなる事になります。


まさに大空輸です。ドイツ軍がスターリングラードで40万人が包囲された時、

戦闘がなくても必要最低限の1日1000tを運べなかった事を考えると、

対米戦争が如何に無謀だったか分かります。

この後、世界は二つに別れ、長き冷戦に入ります。

その後、ソ連はチェコやハンガリーを力で抑え、

アメリカはキューバやベトナムにちょっかいを出します。

何れも沢山の血を流したあげく、現地の強い反感を招きます。

これから思うと、結束と言うのは力で抑えるのではなく、民衆の生存を確保する事だと感じます。

冷戦後、分断国家はほとんどなくなり、統一より分離独立を必要とする国家がほとんどです。

世界は政治ではなく経済で動き、利権に血を流す様になりました。

イデオロギーは過去になったのかもしれませんね。


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