イメージフォーラムで
『明りを灯す人』
を見てきました。2010年のキルギス映画。
監督は、
アクタン・アリム・クバト
Актан Арым Кубат (Aktan Arym Kubat)
というキルギス人の映画監督。映画で主役の “明り屋” を演じている人物こそが、その人であります。
正しくは、「アクタン・アルム・クバト」 ですね。キルギス語の ы (y) は、ほぼ、日本語の 「ウ」 と同じ子音。
この監督、ソ連時代は、
アクタン・アブディカリコフ
Актан Абдыкалыков (Aktan Abdykalykov)
※正しくは 「アブドゥカルコフ」
という名前でした。日本でも、すでに、
『あの娘(こ)と自転車に乗って』
『旅立ちの汽笛』
が公開済み。旧ソ連の映画表現に連なる、寡黙で、静謐な映像を撮る作家であります。
旧ソ連邦のチュルク系民族 (トルコ人と同系の諸民族) は、本来、イスラーム圏に属し、「姓」 というものを持っていませんでした。たとえば、中国のウイグル族は、今でも姓を持っていません。
しかし、チュルク族は、おそらく、ソ連邦時代に入って、徴兵などのために、そのほとんどが、
家長の男子名 + -ов / -ев (-ov / -ev)
※子音で終わる名前には -ов (-ov) を付け、
母音に終わる名前には -ев (-ev) を付ける。
という、ロシア式の姓を名乗ることを余儀なくされたようです。
チュルク諸語は、すべての地域を通して、単語のアクセントが語末にあり、名前の場合も同じです。つまり、
Чыңгыз Chyŋgýz [ チュンˈグス ]
Курманбек Kurmanbék [ クルマンˈベック ]
ということです。
ところが、外来語である、ロシア語の接尾辞 -ов / -ев を付けた場合、アクセントは語尾に移らず、もとの位置をたもちます。それゆえ、
Чыңгызов Chyŋgýzov [ チュンˈグゾフ ]
Курманбеков Kurmanbékov [ クルマンˈベコフ ]
となります。
アクタン・アルム・クバト監督は、ロシア式の名乗りを強制される以前の、キルギスの名乗りに戻したのだと言っていますが、今ひとつ、どういう構成の名前なのか、よくわかりません。「自分の名前+父親の名前+祖父の名前」 なんでしょうか。
もっとも、キルギスで、こうした名乗りの先祖返りが流行っている、というわけではないようです。映画のクレジットを見るかぎり、ほぼすべてのキルギス人は、従来どおりのロシア式の姓を名乗っています。
…………………………
ところでですね、映画の主人公の名は、字幕スーパーによると、
“明り屋さん”
となっています。実は、この “明り屋さん” という呼び名が、この映画のキルギス語の原題なんすね。
Свет-аке Svet-ake [svetɑˈke] [ スヴェタˈケ ]
映画のキルギス語の音声を聴いていればわかりますが、彼は、皆に、
「スヴェタケ!」
と呼ばれています。これは、要するに、
“電気屋さん!”
という、職業によるアダ名なんです。世界の姓には、職業にちなむものが多いですね。
Smith 「スミス」 鍛冶屋
Baker 「ベイカー」 パン屋
Carpenter 「カーペンター」 大工
Schumacher 「シューマッハー」 靴職人
Ferrari 「フェラーリ」 鍛冶屋
つまり、中世に 「大工!」 と呼ばれていた人の家の呼称が固定化すると Carpenter になるわけです。
…………………………
Свет-аке Svet-ake 「スヴェタケ」 というアダ名は、ちょっと面白い呼び名です。というのも、
свет svet [ スヴェット ] 「あかり」
というのはロシア語からの借用語なんです。もちろん、キルギス語に 「あかり」 というコトバがないわけではありません。
жарык zharyk [ ヂャˈルック ] 「あかり」 キルギス語
свет svet [ スˈヴェット ] 「電気のあかり」 ロシア語
というパラダイムらしい。
「スヴェタケ」 は “明り屋さん” というアダ名ですが、
電柱・電線の保守
家屋の電気工事
などが仕事です。ですから、
日本で言うところの 「電気工事屋さん」
なんですね。工事がメインの “電気屋さん” です。
…………………………
-аке -ake 「〜アケ」 というのは、キルギス南部特有の
年輩の男性に対する敬称語尾
だそうです。北部では、これを -байке -bajke [ バイˈケ ] と言うらしい。
たとえば、ネットで検索すると、
Чыңгыз аке Chyŋgyz ake [ チュングザˈケ ] 南
Чыңгыз байке Chyŋgyz bajke [ チュングズバイˈケ ] 北
※意味は、いずれも、「チュングスさん」
という言い方が見つかります。
キルギスには、「チンギス・アイトマートフ」 という有名な作家がいます。「チンギス」 というのは、キルギス語の 「チュングス」 のロシア語転写形 Чингиз Chingiz が定着したものです。
とりわけ面白い例として、キルギス語の文章の中に、
Чыңгыз аке Айтматов
Chyŋgyz ake Ajtmatov [ チュングザˈケ アイトˈマトフ ]
という言い方がありました。言ってみれば、
ポールさん・マッカートニー
みたいな呼び方で、実に奇妙です。こういうふうに、姓と名のあいだに敬称が入ってしまう例は、いかなる言語でも見たことがありません。
…………………………
この映画のタイトルは、
明りを灯す人 …… 日本語
Свет-аке 「スヴェタケ」 “明り屋さん” …… キルギス語
The Light Thief “明り泥棒” …… 英語
となっています。
英語のタイトルは、あまり、感心しません。日本語のタイトルは、原題どおりではありませんが、
原題が含んでいる “言外の意味” を拾っていて
それは、それで面白いでしょう。
ちなみに、свет という単語は、ロシア語では、少し奇妙な意味を持っています。
свет svjet [ スˈヴィェット ]
(1) 光、灯火、明るいところ、夜明け
(2) 世界、世間、社会
通例、ロシア語辞典では、(1) と (2) を “同音異義語” として、別項にしていますが、
ロシア語において、両者は同源
です。つまり、
「家の外の、日の光のあたるところ」
↓
「世間」
↓
「社会」
↓
「世界」
というふうに語義が広がったんでしょう。
ロシア語には、もうひとつ 「世界」 というコトバがあって、実は、そちらも “同音異義語” を持っています。
мир mir [ ˈミール ]
(1) 平和、泰平、平穏、和平
(2) 世界、宇宙、全人類、地球
実は、こちらも同源であり、「平和」 から 「世界」 が誕生してるんですね。
キルギス国民のうち、キルギス人は 69%であり、次いでウズベク人 14.5%、ロシア人 9.0%など、キルギスという国は多民族国家であるため、現在でも、公用語は、ロシア語です。
ですから、キルギス人は、
Свет-аке 「スヴェタケ」 “明り屋さん”
という名前に、「光明さん」、「夜明けさん」、「世界さん」 のような重層的なニュアンスも感じることができるわけです。
おそらく、監督は、そのあたりのことを踏まえて、主人公の名前を 「スヴェタケ」 にしたんでしょう。
最後に付け加えておくと、登場人物は、
村長 エセン Эсен Esen …… 「平安に、平安な」
妻 ベルメット Бермет Bermet …… 「真珠母、螺鈿、真珠」
マンスル Мансур Mansur …… 「勝利したる(者)」
ベクザット Бекзат Bekzat …… 「貴人・大官の子孫」
といった名前です。
ログインしてコメントを確認・投稿する