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2011年07月19日10:17

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地産地消

 「地産地消」という言葉が、近頃とみに人の口の端にのぼる気がします。

「地域生産・地域消費」を縮めた言葉で、農水省が30年も前に提唱したもの。今では地元のものを食べようという、消費の面の意味合いが強い言葉ですが、元々は、稲作モノカルチャーになってしまっている農家に対して、野菜など必要な栄養素を外国からの輸入に頼っているのはアンバランスだから糺していこうよと、多品種生産を奨励するものとして始まったのでした。
しかしその後のプラザ合意により、為替レートが大幅に円高に進み、ウルグアイ・ラウンドによって貿易自由化の流れが加速。外国からの豊富な農産物がますます流入するようになり、その言葉は忘れ去られていきました。

 近年、食の安全がクローズアップされ、産地詐称問題等とあいまって作り手の見える食材への関心が高まりました。さらにエコロジーブームにより、自給自足や自然な生活への回帰も叫ばれるようになり、消費者側のトレンドとして「地産地消」が再評価されるようになったのです。
そこに地球温暖化防止の意味合いから、フード・マイレージという概念も取り入れられるようになりました。輸送距離が長ければ発生するCo2も多くなるので、近場で生産・消費しようというわけです。
その上、住んでいる風土の中で作られたものは体に良いという、いささか科学的根拠に欠ける言説までまぶされるようになり、「地産地消」は流行語のようになったというわけです。

具体的には、それまで全国や全世界から集められ、卸を仲介して広域に流通されていた農作物が、道の駅や農協のファーマーズガーデンなどで産地直売するようになった。そしてそれが大当たりしているということなどが「地産地消」の現れといえます。

 さて、一見悪いことではないように思える「地産地消」ですが、ちょっと考えてみてください。
そもそも食文化というのは、いかに他所の食材を取り入れてきたかという歴史だったとも言えるのではないでしょうか。

じゃがいももかぼちゃも白菜も、原産地は日本ではありません。コメだって南方からもたらされたものです。それらに品種改良を施すことで日本のいろいろな地域でも栽培可能とし、ついには日本の食を代表する食材となったのです。地元で出来るものを食べているばかりではそうした広がりは生まれません。外部のものを取り入れようという先取の気質が豊かな食文化を創りだしたと言えるのです。

さらに言えば、環境に合わせて栽培物を変質させることが良いとばかりもいえません。中南米原産のトマトなどは、日本の多湿な気候では本当に美味しい物は出来ません。むしろビニールハウスで乾燥した環境を作る方がいいくらい。多様な環境だからこそ多様な作物が栽培出来るのであり、それを一つの風土の中で、無理やりつくることが本当に良いことなのか。そうした操作で築かれた地域内の食のバリエーションが、本当に豊かな食生活と言えるのかどうか。

フード・マイレージなどといいますが、トラックでの一括大量輸送による消費燃料効率に比べ、道の駅に集まるマイカー族の出すCo2の総計が、本当に少ないと言えるのかというのも疑問です。
去年は各所の地域農産物直売所で、毒キノコの誤販売が問題になりました。流通ルートが局所化するにつれ、包括的な食のリスク・マネジメントは困難になっていきます。そうしたことも地産地消が持つ負の側面の一つと言えます。


 実際のところ、私たち消費者にとって「地産地消」とは、「選択肢の拡大」を意味したものではなかったでしょうか。地元のもの「も」選べるのが受け入れられたのであって、誰も地元のものしか選べないという不自由を望んでいるわけではないでしょう。Co2削減を目的にしている人などもほとんどいなく、「自分で選ぶ」という行為を重視する人が、わざわざ農産物直売所に足を延ばすのです。
一方生産者の方だって、普段なら規格外で農協に卸せないような作物を販売できるルートとして直売所が重宝した。つまり売り先を選べることが歓迎されたと言えるのではないでしょうか。

 そもそも実情にそぐわない掛け声として始まった「地産地消」は、昨今流行語として広まりはしたものの、依然実体を反映したものではなく、早晩陳腐化してしまうのではないかと思います。
それでも、そのあとに「自由な選択肢」が残されるのであれば、それはそれでスローガンとしては成功なのでしょう。
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