先生は少し「頭でっかち」なんだよ。啓蒙思想的理知主義に毒されていると言ってもいい。
実はこの感想文を書くために、少し先生の他の作品も知りたいと思って、弁護士先生に頼んで本屋に行ってもらったんだよ。そして、先生の著書『MM9』と『”境問題のウソ”のウソ』を買ってきてもらって読んだんだ。(他は見当たらなかったらしい。先生、あんまり売れてないね)
『MM9』は面白かった。
またぞろ、ジュブナイル的ではあったが、子供向けであることは作品の瑕疵でも、レベルの問題でもないからね。むしろこちらは大層なテーマ性を掲げて無い分、完成度も高いと思った。
しかし、『”環境問題のウソ"のウソ』はいただけないね。弁護士先生がこの本に対する批判への返答をした先生のサイトを見つけて、プリントアウトしてきてくれたものも読んだんだが、なんというか、自己主張の無限の連鎖を見ているようでげんなりしたよ。
「正しさ」に対する確信。それを主張することの正当性への過信。
知識と思弁はいつも「正しさ」を目指そうとする。頭でっかちの啓蒙主義者が陥りがちの陥穽だ。
「理解できないものは退けるのではなく、ただ許容すればいいだけのこと。それだけで世界から争いは消える。それがiだ。」
『アイの物語』の感動的なラストのセリフだよ。
先生は言ってることとは反対に、争いの種を見つけることの方がお好きなようだね。
ま、俺が言えた義理じゃないが。
もう少し、俺のことを書こうか。
俺が物書きになりたいと思ったのは、いったいいつからなのか、実を言えば思い出せない。
子供の頃から何か表現衝動のようなものがあり、いたずら書きみたいな創作物は中学生くらいからつくっていたが、その頃具体的に作家になりたいというイメージを持っていたわけではなかった。東京に出た目的も作家になることではなかったのは確かだ。東京に行けば何かがあるとは思っていたが、リアルな目的を持っていたわけではなかったというのが正直なところだ。
ただ、何も語らず、何も強く主張せず死んでいったオヤジを見て、自分を何かで表現しなければ、人はどんどん精神が革質化し、いつしか存在を失うことになるんだという、漠とした観念が生まれたことは確かだと思う。
それまでは悪友たちとチームを組んで、盛り場で自分の力を誇示したり、なによりバスケでのフィジカルなぶつかり合いをカタルシスとしてきた俺は、高校卒業後には、それに変わる何かが必要だった。それが表現活動だったわけだ。
先生はケンカやスポーツと表現は違うものだと言うかも知れないが、それらは根っこのところでは繋がっているものなんだ。そしてそれは、暴力とも根を同じくしていると俺は断言できる。
結局それらは自己主張であり自分の示威行為なのだ。自分の存在を確たるものとして世界の中に打ち付けたいという自己保存願望の、違った形での表れに過ぎない。
自分が言ったこと書いたこと、そしてやったことが、他者に対しどれだけ大きなインパクトを与えるか。その反応を味わう時の快感が、それらに共通してある本質的な喜びなのだ。
俺はそれを、女を殺すその現場で悟った。
続く
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