東日本大震災から10年ということで、色んなメディアで様々な特集が組まれていましたね。そういうの、しっかりと見ておかなければならないと分かってはいるのですが、どうも苦手で、向き合うことから逃げてしまいます。当事者でもないくせに逃げるって、単なる無関心と何も変わらないので、罪は重いなって思うんですが・・・
それでも、目に入ってきたいくつかのニュースで・・・幼くして被災した若者"この10年"の頑張りに、恥じ入るしかない気持ちになりました。わたしが過ごした"この10年"の、なんと無為無策であったことかと・・・
もちろん、十代二十代の人にとっての10年と、還暦近くになった人間の10年は、まったく別ものだとは思います。特に何がなくても激動の時期である十代二十代の若者と自分を比べるなんて、意味のないことだと・・・
けれど、人生において苛烈すぎる特別な出来事を経験してから生きた10年という意味で・・・ニュースで見た若者の生きた10年と、わたしの無為無策の10年が、あまりにもかけ離れていて・・・ほんとうに、ただただ恥じ入るばかりなのでした・・・
けれど、だからといって・・・これからのわたしに何ができるのかと考えても・・・やっぱり"この10年"と同じような無為無策の"これからの10年"を過ごしそうです。ある時、一念発起して、何かに励むようにならないとは言い切れませんが・・・
ああ・・・"これからの10年"かぁ・・・むしろ、とても怖いです、老いることが・・・
昨夜、また母が、ペットボトルのキャップを、ガスコンロの火に炙ろうとしていました。慌てて止めましたけど、きっとまたやるでしょうから、コンロにはロックをかけて、母には使えないようにすることにしました。テレビがつけられないとか、水を出しっぱなしにするとか、そういうことはいいんですが、やっぱり火は危ないですからね。
老いるということ・・・本音で話すと、やっぱり嬉しくありません。自分の現時点程度の老いなら、まだなんやかんやと理屈をつけて肯定的に考えることが出来ます。「たしかに老いて失ったものは多いけど、老いる過程で得てきたものも多い」とか、いろいろと老いをフォローすることも可能です。でも、自分より一世代上の母の姿を見ていると、「年を取ったら今の母のようになりたい」とは、決して思えないです。
だからといって、頑張って子どもを育て上げ、それぞれの場所で自分なりに社会に貢献してきた年配者が、家族や社会に疎まれていいとは思いません。尊敬され、正当な待遇を受けるべきだと思います。
ただ、そこに向かっていく自分が、それまでの時間をどう過ごすのか、母の年齢になった時、母のような状況になった時、自分は・・・
運動能力が落ち、認識力が落ち、他者の助けが必要になった母を世話することの苦労より、自分がそうなっていく過程のこれからの年月・・・
むしろ、まだ動ける、まだ考えることができる、"これからの10年"は、激動の若者の"これからの10年"より考え処かもしれません・・・
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