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2020年10月11日21:07

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♪愛しのクレメンタイン♪−金時鐘(キムシジョン)さんの「幻の詩集収めた著作集刊行」

フォト


※この憲さん随筆は2018年4月19日に書かれました。

♪雪よ岩よ我らが宿り〜俺たちゃ町には住めないからに〜♪

この歌詞で知られる雪山讃歌。これは日本では京大山岳部が発祥であるらしいが、元々のメロディはアメリカの民謡である。

その原曲の歌詞は訳すと

「いとしのクレメンタイン
お前とは二度と会えない
とても悲しいよ クレメンタイン

妖精のように輝く彼女
靴のサイズは9番で
ニシンの箱のフタを取れば
それが彼女の靴だった

毎朝9時の彼女の仕事
アヒルを水辺へ連れてった
切り株につま先引っ掛けて
彼女は川へ落っこちた

赤い唇 水面(みなも)の上に
飛び散るしぶきは優しく清く
何てこったい俺はカナヅチ
沈んでいったクレメンタイン」

と、とても悲しい川で溺死した恋人の女性を慕う鉱山夫の歌である。

全文こちら

http://www.geocities.jp/lune_monogatari/clementine.html

この「いとしのクレメンタイン」の朝鮮語の歌詞を愛してやまない詩人がいる。

在日朝鮮人の詩人、金時鐘(キムシジョン)氏である。

あるブログにこう記されていた

以下引用

「クレメンタインの歌」こそは、母国語を棄てた少年期の彼と朝鮮語とを繋ぐ歌であった。日本敗戦のあと「海行かば」や「児島高徳の歌」を歌っては何日も涙を流したという彼…。やがて、ひとりでに口を衝いて出た歌、かつて父が口ずさんでいた歌によって「かようにも完成をみていた皇国臣民の私が、朝鮮人に立ち返るきっかけを持ったのはたったひと筋の歌からであった」という。それがこの「クレメンタインの歌」なのだった。

(金時鐘「クレメンタインの歌」1979)

ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ)

ナエサラン クレメンタイン
(わがいとしのクレメンタインよ)

ヌルグンエビ ホンジャトゴ
(老いた父ひとりにして)

ヨンヨン アジョ カッヌニャ
(おまえは本当に去ったのか)'''

(中略)

「ひとりっ子の安全を、恨み多い日本に託さねばならなかった父の思いこそ、在日する私の祈りの核だ。」「後ほどアメリカの民謡だということを知って、少々がっかりしました」
以上、引用おわり。

詳しくはこちら

https://plaza.rakuten.co.jp/peace88/diary/200612120000/?scid=wi_blg_amp_diary_next

憲さん、朝鮮の文化が好きだ。

その民俗や歴史、そこに住む朝鮮民族のアイデンティティーにすごく興味を惹かれる。

朝鮮半島の民族は東アジアの歴史からみたら、中国が父親としたら朝鮮は長兄であり、日本は末の弟といったところであろうか。

だから、現在の北朝鮮のあり方には少なからず残念な気持ちを持っている。

その朝鮮民族においても、さらに複雑なアイデンティティーを持つ人たちが在日朝鮮人の方々である。

その在日朝鮮人の詩人で、冒頭にも書いた朝鮮語版『いとしのクレメンタイン』を愛してやまない金時鐘(キムシジョン)さんの「幻の詩集収めた著作集刊行」という、東京新聞4月14日夕刊文化欄のインタビュー記事を読み、憲さん

Σ( ̄□ ̄;)ハッ!

とした。

憲さん、金時鐘さんはその名と存在は知ってはいたが、その詩を読んだことはなかった。

彼が1948年の済州島四・三事件で、南朝鮮労働党の蜂起に関わった末端党員であり、蜂起の敗北、大弾圧の中、事件の翌年に日本に逃げ延びたそうである。

(済州島四・三事件についても、いつか書かなくてはと思っていますが、今回はウィキで紹介するにとどめます。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6%E5%9B%9B%E3%83%BB%E4%B8%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6)

その記事にはこのような彼の詩が紹介されている。

それは四・三事件を題材にした「我が性 我が命」という詩である。
事件で殺害された義兄を詠み込んだ詩だ。

衝撃的なので紹介する。

以下

二十六の生涯を
祖国に賭けた
四肢が
脱糞までの硬直にいやが上にもふくれあがる。
"えーい!目ざわりな!"
軍政府特別許可の日本刀が
予科練あがりの特警隊長の頭上で弧を描いたとき
義兄は世界につながるぼくの恋人に変わっていた
削がれた陰茎の傷口から
そうだ。ぼくは見てはならない恋人の初潮を見てしまったのだ

以上、引用終わり

いかがだろうか?

この詩は?

一読して、腹の底に「ズン」と沈みこむような迫力をもった詩ではないだろうか?

東京新聞の記事にはこう解説がつく。

「アウシュビッツのガス室で虐殺される前に多くの少女が初潮を迎えた逸話と、首を絞められた義兄の陰茎が硬直する様を重ね合わせた。『人間は死を強いられると、ぎりぎりの、究極の生きる証明をするんだ』と語る。」

これは、以前話たかもしれないが、憲さんが昔みたテレビ番組で、ある種の猿は敵の来襲などで身の危険を感じとると、非常事態時にも関わらず交尾をはじめるのだ。
実際その画像も写し出されていた。
それが、動物としての自分の遺伝子を残そうという本能なのだそうである。

私も同じような経験をしたことがある。

30代だったと思うが、紀伊半島を一周するバイクでのツーリングの帰り、延々と続く東名高速を睡魔と戦いながら走り続けるなか、異常なほど性欲が高まった記憶がある。あれは今考えると、高速走行するバイクの運転はまさしく「死」と隣り合わせであり、その「生命の危機」に直面したことにより、私の動物としての本能が性欲の高揚をもたらしたのではないかと、自己分析している。

しかし、この金時鐘氏の義兄の話もアウシュビッツの少女たちの話も悲しすぎる「動物としての本能」ではないだろうか?

そして、それを詩に刻む金時鐘氏の存在も、私たちに多くを突き付けてくる。

一世紀近く波瀾の人生を歩んできた彼は詩作でも、これまで七五調に代表される「日本的叙情」を乗り越えようとしてきたそうである。

そして、こう言う。

「日本は世界に類を見ないほど、叙情歌に類する美しい歌がたくさんある国やねん。優しい人間たちのはずなのにどうして、あんな戦争で残虐なことをしたのが、ずっと疑問やった」

「要は、『痛さ』を誰も思わなかったんや」

私たち日本人に深く突き刺さる言葉だ。

そして、こう続ける。

「戦後の現代詩も依然として私的(わたくしてき)なことしか書いていないと思っている。」

「私にとって、詩を書くというのは『そうであってはならないことには与(くみ)しない』ということ。つらい目にあったけど、それで精神が傷つくことはなかった」と。

表現者のはしくれであろうとする私の腹の底に深く響きわたる金言である。

我が母国語、日本語で表現される詩も、まだまだ捨てたものではないと再確認した、内容の深い東京新聞の記事に感謝。

みなさんも、たまには詩を認(したため)てみめませんか?

ポエム最高\(~o~)/

どーよっ?

どーなのよっ!

※記事全文はこちら

http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/doyou/CK2018041402000239.html

※画像は映画『荒野の決闘』のテーマ曲『いとしのクレメンタイン』のポスター
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