mixiユーザー(id:24709171)

2020年07月02日22:17

127 view

実朝

昨年2019年12月初旬、10月の台風21号による河川氾濫被害の影響が落ち着いてきた頃、私用での遠出のついでに以前から興味があった神奈川県秦野市にある実朝の首塚に立ち寄った。なんとものどかな場所で見晴らしもよく、ついつい長めの一服となってしまった。(※注1)

※写真:源実朝公御首塚(みしるしづかと読む)(※注2)

鎌倉幕府3代将軍:源実朝は28才という若さで甥の公暁に暗殺されるという非業の死を遂げたが、しかし歌人としては“金槐和歌集”という現代にまで読み継がれる事となる代表的歌集を残した。

平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いた源頼朝の死後、2代将軍と成った兄=頼家が修善寺に幽閉され程なく死亡し(23才で暗殺)、実朝が3代将軍に就いた時は僅か12才であった。(※注3)
母方の祖父(北条時政)等の政略で、今度は弟の自分が担ぎあげられることとなる。
この時の少年=実朝の心境がどうだったのかは到底計り知れないが、
次は自分の番かと、あるいは幼いながらに自らの死を予感したのかも知れない。
後に実朝は源氏の将軍職は自分が最後だと、朝廷にもその旨を進言している。

そして源氏の血が自分の代で途絶えると悟った実朝は、源氏の名誉を後世にまで伝え残したいと考え、その為にせめて一つでも自身の官位を上げておきたいと発心し努力を重ねた。
実際に異例の早さで官位を上げ、最終的には武士として初めて右大臣にまで昇り詰めている。(※注4)

一方で子供の頃から都の貴族文化や芸術の観念的世界に強く惹かれていた実朝は、次第に和歌の創作に没頭していくようになる。(※注5)
そして武力増強(領土拡大)と御家人達の忠誠心だけによらずに、文化と芸術(美意識)によって幕府の政治を治める理想を夢みたのである。(※注6)

私が実朝の和歌の世界に惹かれるのは、その万葉調と云われるストレートな表現の内側から(将軍の次男として生まれ、兄を失い、表向きの最高権力者という立場を背負わざるを得なかった、孤独で多感な若者の)虚無と諦念と絶望、夢と憧れと慈愛、とがアンビヴァレンツに絡み合い、滲みだし溢れ出ているところにこそ惹かれるのである。



出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春を忘るな
                         (暗殺される当日に詠んだ辞世)
        


大海の 磯もとどろに 寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも
                          (自身の運命を暗示している)


咲きしよりかねてぞをしき梅の花ちりのわかれは我が身と思へば
                          (死の予感、無常感極まれり)


神といひ仏といふも世の中の人の心のほかのものかは
                       (唯識的な達観の背後に虚無が漂う)


世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも
                    (理想と慈愛と諦念・・「百人一首」より)



いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたづぬる
                  (道端に母を訪ねる親を失くした子を見て哀む)


物いはぬ四方(よも)のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ(※注7)
                  (どこにでもいる獣の親心にも共感し寄り添う)



注1:
近所に住むという年配のおじさんに話しかけられ、首塚に隣接する自分の畑の畝や水路を猪に荒らされたといって泥浴びの跡などを見せてくれた。酷く獣害を受けたのに何故だかとても嬉しそうに話すので、こちらもかえって清々しい気分になった。

注2:
鶴岡八幡宮で暗殺された実朝の首が何故30km以上も離れた秦野市の片田舎にあるのか?
その経緯については長くなるのでここでは割愛する。各自お調べ下さい。

注3:
既に水面下では北条氏一族による事実上の執権政治が着々と進んでいたのである。

注4:
1219年正月、雪積もる鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式を終え退出の帰り際を“公暁”等に待ち伏せで狙われ暗殺された。(公暁が隠れていたと云われる大銀杏は2010年に倒伏)  

注5:
実朝は18才の時自作の和歌30首を都(京都)の藤原定家に送っている。それから文通により定家の指導を受け続け和歌の腕を磨いていく。1213年“金槐和歌集”を編纂。
因みに後鳥羽上皇に和歌の実力を認められ歌論も執筆した彼の“鴨長明”も鎌倉の実朝のもとを数度訪れ会見している。

注6:
このような手弱女ぶりの態度がかえって武士の統領としての資質に欠け、
弱腰の現実逃避だと御家人達の反感を募らせた結果遂に暗殺にまで至った。
とも解されるがはたして真実はそうであったのか?
近年の研究では全く違った見解も出てきている。

注7:
首塚に建っている石碑にこの歌が刻まれている。
地元の方が獣害に寛容なのはそのせいなのかも知れない。
  
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する