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2020年03月10日19:05
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扇山の寺屋敷伝説 犬嶋神社と郡内騒動 白瀧山不動尊
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2020年2月24日(月)
扇山の高僧伝説と旧 甲州街道 犬目宿付近の歴史探訪
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(写真80枚)
1、早春の山麓漫歩 鳥沢から中野、山谷へ
夜明け前の暗い時間から愛猫ゴンを置いて留守にするのは可哀想に思えて、外が明るくなってから出発した。
中央線 鳥沢駅に降りたのは10時。
この時間から出発するハイカーが10人近く居て驚いたが、扇山は半日のハイキングに丁度良いという事なのだろう。
登路として最も一般的な登山口は「梨ノ木平」だが、私は甲州街道を東へ中野地区を目指す。
中野入口で街道を離れ、風化した石造物群を見て北に進んで中央自動車道の高架下をくぐると、東西にゆったりと長く伸びる扇山の姿が見えてきた。
この穏やかな山稜の南麓には広大な緩斜面が広がり、中野地区の集落はその南端に位置する。
桂川北段の山域は初めて歩くが、とにかく陽当たり良好で暖かく、振り向けば桂川右岸に連なる前道志 秋山山稜の景色が素晴らしい。
また、旧 甲州街道 下鳥沢宿と犬目宿を結ぶこの区間には古い民家が幾つも見られ、庭に蔵がある屋敷などは実に風情があって、思わず写真を撮ってしまう。
「中野神社前」には一群の石造物があり、
最も目を引くのは質素な青面金剛像が浮彫された享保十一年(1726年)の庚申塔で、金剛像の足元には猿の姿がある。
右隣りには安永七年(1778年)の角柱形の道祖神 文字塔、左隣りには文化十二年(1815年)の小さな馬頭観音像塔があった。
ここで右に車道が分かれるがそのまま北進し、地区の細い道を上がっていく。
たっぷりと陽射しを浴びた民家が並んでいるが人影は全く無い。
間もなく、「山ノ神社」に至る。
白く清らかな佇まいの鳥居を抜けると文政十年(1827年)奉上の御神燈が立っていた。
本殿は古く質素な造りで、境内には小さな石仏や稲荷社がある。
資料によると、中野地区の鎮守であるこの神社に祀られているのは扇山から遷座した神様で、今でも元の社を奥の宮と呼んでいるそうだ。
また、鳥沢の鎮守の福地八幡神社も扇山から移ってきた神様との事だが、調べてみるとどうもこれは【甲斐国志】(文化十一年1814年 松平定能)にある「大木明神」のようだ。国誌によれば、社には天文十七年(1548年)の棟札があったとの事。
扇山は遥か昔は｢大木山｣であり、良材を産出した山だったとの説もあるので、その後、｢大木｣が山の形に宛てた｢扇｣に転訛したものかもしれない。
山ノ神社から出て北進すると、やがて風景は広大な黒土の畑となった。
平原のような畑の南には桂川右岸の山波の全景が大きく展開し、その向こうに覗く富士の銀冠が眩しい。
畑の一隅では梅の花が咲き、仄かに早春の香りが漂う。
春の盛りともなれば畑は青々として辺りには色とりどりの野花が咲き乱れ、さながら桃源郷のような景色になるのではないだろうか。
時刻は11時。ザックを下ろしておにぎりを頬張った。
里山農業体験施設｢大月エコの里｣にさしかかると、70代と50代後半くらいの男性が話をしていた。
傍らを通り抜けようとすると、えびす様のようなお顔の年配男性に声を掛けられ、扇山への行き方を教えてくださった。
｢これを真っ直ぐ行けばいいずら！｣というこの男性と、もう一人の｢あそこに青い屋根見えるだろ？あそこから入ればいいんだ。｣という助言のどちらに従えば良いのか迷ったが、ありがたい事だ。
二人とも自然相手の農作業で鍛えられた風貌で笑顔こそいっさい見せなかったが、心根の優しさが感じられる人たちだった。
また、年配の男性は扇山のもう一つの登山口である｢梨ノ木平｣を｢なしのきっぱら｣と発音していたが、これは昭和戦前期のガイドブックにある｢梨ノ木ッ原｣と合致するので、昔はそう呼ばれていたのだろう。
現在は いまいましいゴルフ場になってしまっているのが残念だ。
山谷の集落に入って分岐を北に進むと11時20分、扇山の登山口に着く。
2、扇山 東肩の「寺屋敷」跡を訪ねる
登山道は明瞭でやがて擂り鉢状の浅い谷の右岸を行くようになり、林道に接近した後は幅の広い登山道となってゆったりと登っていく。
尾根に乗ると漸く人工林から解放されたが陽射しが強くて暖かく、とても2月とは思えない。背後の樹間に大きく見える富士山も昼過ぎとあって次第に霞み始めていた。
ツツジ群生地を示す看板を二ヶ所で見て12時半、扇山の東の肩にあたる「三境」に到る。
昔は三つの行政区の境だった事が地名の由来で、今は大月市と上野原市の境になっている。
この「三境」の東側に広がるなだらかな斜面と平坦地に、かつて「寺屋敷」の名があった。
私がこの地に興味を持ったきっかけは、【あしなか】(山村民俗の会)第205集(昭和63年)所収の【扇山の鞍山聖人伝説】と題された記事である。
昔 山上にあった寺院が地名だけを残して山麓に移動した例は各地に見られるが、この扇山 の寺屋敷について、北麓の棚頭地区では｢寺屋敷には現在 真木にある浄土真宗の正念寺があった｣という言い伝えがあり、一方、南麓の犬目地区には｢寺屋敷にはアンザン寺という寺があって、アンザン聖人と多くの僧侶が修行していた。｣という話が残されているそうだ。
南麓一帯の旧 甲州街道に沿う安達野、犬目、中野、鳥沢の各地区に伝わる話の内容にはそれぞれ違いはあるが、共通しているのは｢アンザン聖人は星になった｣という伝説であり、僧侶と星が結び付く伝説は日本では珍しいものだという。
安産の祈祷師としての「安産聖人」、仏教人名辞典にある「案山上人」、それとは別に「鞍山聖人」と さまざまだが、「アンザン」と称する僧侶が昔、扇山の東肩に庵を結んでいた事は確からしい。
それにしても「僧侶が星になった」とは一体どういう事なのか。
山の歴史や伝説に興味があり、また少なからず星や宇宙に科学のロマンと感傷的なロマンとを併せ持つ私としては、強く心惹かれる話だ。
【あしなか】の記事は山麓での聞き取り調査の結果だけであって情報が少ない。
自分の所蔵本の中にこの伝説を記したものがないかと探してみると、戦前の雑誌【ハイキング】の中に詳細な記事を見つけた。
これを元にまずは｢三境｣から「寺屋敷」跡の位置を特定する為に登山道を外れ、地図と見比べながら進むとまもなく広い平坦地を発見した。
約三百坪という記述に一致し、まさにここしかない、という地形だ。
往時を偲ばせる遺構は何も無いが、広場の中央には庵の礎石の一部と言われればそうかもしれないと思える石が幾つか落ち葉に埋もれていた。
3、星になった安山吉道和尚の伝説
昭和戦前期の【徒歩行雑誌 ハイキング】(ハイキング社)第55号(昭和12年)の中に｢扇山寺屋敷を繞る傳説｣(仁科義比古)という詳細な記事がある。
(以下、抜粋)
｢……此處が卽ち寺屋敷である。手前の所に一坪許りの古池がある。昔は雨乞ひの場所として有名なものであつた。
(屋敷跡には古碑や礎石もあつたが、何時とはなしに草刈り人の戯れに、そこから東方の不動澤へ轉落させてしまつたと云ふことである。)
此處に小堂があつたのは何時の頃か文獻では不明であるが、筆者の推定では、明暦、萬治頃(＊1650年頃)であると思ふ。
其頃そこに住んでゐた人に安山吉道と云ふ聖者があつた事は事實である。
麓の村々では誰一人として厚い尊敬を拂はない者とてはなく、獵師も樵夫も農夫も附近を通る度に立寄り教えも受け布施もしたもので、晩年この庵を去つて富士山に籠らんとするに當つて、富士山の方角を指して『我寂滅の後は彼方の空に一大明星となつて現るべし』と云ひ殘して漂然姿を見せなかつたが、後、延寶五年(＊1677年)八月十五日 富士山劔ヶ峯の岩窟に結跏趺坐の儘 大往生を遂げた。それより西南の空高く、毎晩一大明星が燦然として輝き出したので山麓の村々では「それ安山星よ」と呼んで、彼の聖者の在世の日を追憶して讃嘆してゐることは現在でも變りがないさうである。」
(以下、記事の要約)
安山吉道は慶長十一年(＊1606年)に甲州郡内領藤崎村(猿橋)の農家の子として産まれたが母は間もなく世を去る。
彼は七歳の時に上野原の保福寺に預けられ、四代 建州隣道禅師の下で修行して得度した。寛永二十年に禅師が亡くなると五代 山主に推薦されたが固辞して諸国遍歴に旅立つ。
これは慈母が我が身の為に落命した事への悲嘆と、同じ悲運にある人々への冥福を祈るべく、また命懸けの出産の営みのいと安かれと巡錫を思い立った事によるという。
甲州、信州、飛騨などを遍歴した安山吉道は生まれ故郷に戻り、扇山の中腹(＊寺屋敷)に庵居して長く山麓民の尊崇を集めたが、晩年は富士山に籠り、前述の通り大往生を遂げたそうだ。
安山吉道の墓碑は猿橋町朝日小沢の曹洞宗長應寺にあるが、安山は安産に通じ、且つその高徳を尊崇するところから古来 妊産婦を主とした信者によって御符として削られた事から、文字は(＊昭和初期の時点で)｢時延寶七巳未五月之｣(＊1679年)のみ読み取れたという。
仁科義比古氏は、記事をこう結んでいる
。
｢以上筆者の記述したところは、彼の傳燈録竝に近村里人の傳説とによりて古今稀な高��安山吉道和尚の生涯の一面を報じ、扇山寺屋敷の史的觀察への資料を提供したまでにすぎないが、近く同山保勝會の人々の手により、其所に祠堂の再建が實現しやうとしてゐる。｣
氏が4ページに亘って詳細に綴ったこの記事は昭和12年(1937年)のものだが、昭和15年のガイドブックには寺屋敷の謂われを記した立て札があった旨の記述がある。
しかし太平洋戦争の為だろうか、その後 祠堂の再建は成らず、立て札もいつしか失われ、現在は登山道から外れた単なる平坦地であって地図に記載も無い。
祠堂再建の計画は80年以上前の事であり、当時の方々ももう存命ではなく、地元でも次第に忘れられつつあるのではないだろうか。
前述の【あしなか】(昭和63年)の記事は、南麓の中野地区に｢寺屋敷の古塚には決して馬を繋ぐな｣との言い伝えがあり、その塚を調べてほしいと地元の方から頼まれた有志が山麓で伝説を採訪した結果との事。
それから平成の30年間が過ぎて、この有志の会も既に存在していない。
2020年の今、伝説の寺屋敷跡に立って見回してみると、すぐ北側には｢北都留三山｣の主峰 権現山(1312)から東に連なる標高1000m前後の山波が連なっている。この山々の景色は、アンザン和尚が見た風景そのままだろう。
一方、現在 南側は人工林の為 展望は無いが、扇山 山頂にまで登れば山また山の重畳を見遥かし、とりわけ富士山の姿は今と変わらず美しく荘厳で、安山和尚が最期の地と定めたのも自然な事に思われる。
落ち葉が積み重なった寺屋敷跡には、今はただ小鳥の囀ずりだけが響いている。
4、展望抜群の「犬目丸」
登山道に戻ると、南の斜面からチェーンソーの唸り声が湧いた。二台の音なので何人かで人工林の整備をしているようだ。
緩やかに下り続けて犬目に下る道を分け、直進すると｢犬目丸｣の山頂に到る。
ほんの小さな突起に過ぎず標識が無ければ山頂とも気付かないが、展望の良さは抜群なので誰もが立ち止まって見とれてしまうはずだ。
南側が極端に刈り払われており、油断すると山麓まで転げ落ちそうな感覚になる。
桂川右岸の前道志の山波の全貌を一眸に収め、道志山塊主稜、西丹沢と中央丹沢の山々、西には逆光に霞む富士の高嶺、東には上野原と藤野町周辺の低山が見える。13時過ぎとあって景色は霞んでいるが、真冬の空気が澄んだ日なら展望絶佳だろう。
木に手製標識が括りつけられており、表には「犬目丸 861m」裏には「2018年1月3日戌年」とある。誰かが戌年の初登りの時に付けたものらしい。
詳細図にも犬目丸とあるが古い資料にこの名は見当たらず、昔は南麓の犬目の名を取り この山域一帯は「犬目山」と総称されていた。
5、萩ノ丸から旧 甲州街道に下る
さらに東へ、展望の無い混交林の尾根を緩やかに下り、｢萩ノ丸｣(794m)のピークに立ち寄ったが地味で静かな人工林で、山名から受ける品のある印象にはそぐわない。
ここから少し下り、左下の平坦地に立ち寄ると金毘羅社の赤い祠があった。
祠の前からは南東の展望が良く、四方津のニュータウン｢コモアしおつ｣と国指定重要文化財「大野貯水池」の青い水面、すぐ眼下には中央自動車道の談合坂サービスエリアを見下ろす。
双眼鏡があればサービスエリアに出入りする人々の表情も見えそうだ。
登山道に戻ろうとしてふと振り返ると近くの草地に石造物が見え、確認しに行くと双体道祖神だった。
江戸時代後期 文化年間(1810年頃)のもので像容は最も一般的な並立型だが、御二人とも柔らかな表情の神様で微笑ましいお姿だ。
犬目丸からの展望以外は特に見るべきものが無かった山道で、200年の星霜を経たこの仲睦まじい道祖神に出会えた事は嬉しく、心が和んだ。
この後は里山らしい雑木林を縫う明瞭な道を下り、人工林を経て山麓に下り着く。
すぐ後ろから30代くらいの単独男性が下りてきて、この日 山中で出会ったハイカーは計4人だった。
6、義民 犬目宿兵助 決起の地「犬嶋神社」
大木の下に大きな地蔵菩薩と小さな石仏、その近くに馬頭大士(明治十五年)の文字碑を見て新田地区に出た。
ここから西へ安達野地区を経て15時、旧 甲州街道の｢犬目宿｣の犬目地区に入る。
当地出身の義民 犬目宿兵助(犬目の兵助)の墓は見過ごしてしまった。
道沿いの家は新しく、宿場の雰囲気は失われ、地元の方々も愛想が無い。
目指す犬嶋神社を見つけられずに通り過ぎてしまったが、地図を見て引き返す。
天保七年(1836年)、江戸幕府の屋台骨を揺るがした「郡内騒動」(天保騒動･甲斐一国一揆)の震源地の一つとなった犬嶋神社。
しかし神社の位置を知らせる案内板などは無い。
民家の間の細い路地を真っ直ぐに、本当に神社があるのかと半信半疑で北に登って畑の間を抜けると、やがて鬱蒼とした社叢林の中に鳥居が見えてきた。
〈郡内騒動 甲斐一国一揆〉
甲斐郡内地方の中世における領主 小山田氏は手厚い領民保護を図り善政で知られたが、江戸時代初期に上州から入封した秋元氏が領主になると状況は一変、領民は重税を課され、街道の助郷制などの負担も相俟って過酷な生活に喘ぐ事となった。さらに富士山の火山活動による気候災害により農民は凶作の度に飢饉に襲われ、その度に多くの餓死者を出した。
特に天保七年の飢饉は甲斐郡内地方のみならず全国的な大飢饉ではあったが、郡内地方では天保四年から続いていた冷害による大凶作で疫病や飢餓による死者が続出、かつて無い地獄のような惨状を呈して、実に領民の三割に相当する一万八千人の死者 行方不明者を出す事態となる。
また、米穀の高騰は著しく、郡内地方の西の甲斐国中地方、東の相模の米穀商は暴利を貪り、さらなる価格の吊り上げを狙って穀止めを強行、特に国中地方の米穀商 元締めの奥右衛門は六万俵もの米を買い占めた。これにより郡内領の米は枯渇し、領民は草の根や樹皮を食べて露命を繋ぐ窮状に陥った。
下和田村(現 大月市七保)の森武七は米穀商元締め 奥右衛門に米の貸し出しを申し入れ、郡内各村の名主を保証人として高利での返済を願い出たが拒否され、生きる手段を封殺された農民はついに最終手段たる一揆の道を選ばざるを得なくなった。
八月十五日、谷村の近郷九ヵ村の農民が酒屋･米屋を打ち毀し、同十九日までには大幡村近郷二十三ヵ村、大月 猿橋近郷の十三ヵ村が大月宿に集合、下和田村の森武七(70歳)、犬目宿で旅籠を経営していた兵助(40歳)が頭取に推挙された。
兵助は妻子や近親縁者に累が及ぶのを避けるべく妻には離縁状を持たせて子と共に逃がし、近親者には縁切状を出した。
一揆勢の頭取に森武七、副長に犬目宿(姓は水越)兵助、参謀に医師の泰順が選出され、甲州街道沿いの村々に密使を送って笹子の白野宿 天神坂林に集合を呼びかけた。
同二十一日未明、兵助は法螺貝を合図に宿中北方の「犬嶋神社」に近在の農民を集合させ、旗や武器を持ち天神坂林へと出発する。
これが江戸幕府を震撼させた天保郡内騒動・甲斐一国一揆の始まりだった。
時の甲府勤番支配の報告書によると、武七、兵助を頭取とする五千人に及ぶ大集団が、窮民の趣旨を大書した大幟を先頭に村々の印を記した旗を持ち、日本刀、竹槍、鉄斧などで重武装し、鉦、法螺貝、太鼓などを打ち鳴らして天神坂林にて蜂起したという。
この大集団は破竹の勢いで笹子峠を越えて国中地方に達し、鶴瀬の関所を突破して勝沼宿に至る。
夕闇迫る頃には国中地方の貧農、にせ浪人、乞食、無宿人らの無法者が大挙して一揆勢に加わり、忽ち暴徒と化して商家の打ち毀しを始めた。
翌 二十二日、郡内農民の目的地だった米穀豪商 奥右衛門宅の打ち毀しが始まった頃には一揆勢は数万人にも膨れ上がり、武七や兵助の指揮権は失墜して統制は失われ、烏合の渦と化した。
武七、兵助ら郡内領の農民はここから引き上げたが、国中一揆勢は二十三日には甲府城下にまで乱入、甲府勤番は対処できず甲斐国は一時無政府状態に陥った。
信州諏訪藩、駿州沼津藩からの援兵を得て一揆が鎮圧されたのは、二十六日の事だった。
(【郡内甲州街道物語】(鈴木美良)参照)
旧 甲州街道の道筋においては高所の標高500m前後に位置する犬目宿 付近からは南の展望が開けており、さらに高い斜面上にある犬嶋神社からの景色は道志、丹沢、富士の山また山の重畳だ。
一揆勢の綱領には「米穀払底につきこのまま相果つるより甲州に出立し、ここに一命を捨つるべし」とある。
悲愴な覚悟で犬嶋神社に集まり 決起した兵助らの眼に、この山波はどのように映ったのだろうか…
冬の午後の斜陽に照らされた山肌を見ながら、暫し往時に思いを馳せた。
7、白滝山不動尊(白馬不動尊･大滝不動尊)
旧 街道に戻り、【富嶽三十六景】(葛飾北斎)の｢甲州 犬目峠｣の地として知られる宝勝寺を過ぎると山路の入り口がある。
不動尊と滝を見て、日没に間に合えば展望絶佳の犬目丸からの夕景を楽しむ計画だ。
ゆっくりと登っていくと、昼過ぎに山中で伐採作業をしていた方達らしい北都留森林組合の男性三人が下りて来た。最年長の方に「これから登るんですか？」と笑顔で聞かれ、「いえ、そこの不動尊まで。」と答えたが、三人ともまるで昭和時代にタイムスリップしたかのような、古くからの山仕事の伝統を守る職人らしい装備と精悍な風貌が印象的だった。
登山道から不動尊への分岐に入ると石造物群に出会った。石仏と供養碑で、不動尊の開山やその歴史に関係するものは
「當寺 圓享智光木食上人 開山｣( 文化十四丁丑年)(＊1817年)と刻まれた碑と、
｢當山 唱應淨念順上人實阿大和尚 再祖｣
(天保十五辰 十月貳四日)(＊1844年)の碑だ。
例によってこの不動尊も行基の開山と伝えられるが、近世の中興の祖である圓享智光木食上人については入寂した洞穴が山中に残されているという。
木食僧は五穀を食べず、火を通したものは口にしない。厳しい木食戒を守って木の実、草の実や葉を常食とする修験者であり、上人や聖、法印とも呼ばれていた。
庶民に病気快癒や悪霊退散、開運招福、易術、呪術などの加持祈祷をおこない、特に農民層から広く崇敬されていたそうだ。
ここには素朴な仏像や、僧侶の墓碑よりも古い寛政十年(1798年)の小さな石仏、そして側面に「幻雪童女」「秋雪童女」など数人の童女の戒名が刻まれた墓碑(宝暦十二年 三月)(同八月)(＊1762年)もあった。
童女の墓碑にはとても可愛らしい石仏が彫られており、親御さんの慈愛と石工の真心が感じられる。
ここは旧 街道から本参道を進んで不動堂に参詣する時には通らない裏手の斜面で、人の訪れはほとんど無いだろう。
雑木林を淡く彩る夕方の斜光は苔蒸した墓碑を撫でるように静かに揺れて、私も静かにこの幽寂の地に手を合わせた。
ここから下ると不動堂で、｢白瀧山｣の扁額が掲げられている。石段を下ると崩れかけながらもかろうじて立っている小さな石祠や、その傍らの不動明王の石仏から長い歴史が感じられる。
滝は不動堂の裏手に下ったところにあったが予想に反して落差10mにも満たず、しかも水流は少なくてとても不動滝とか大滝と呼べるものではない。
尤もそれは例えば奥武蔵の高山不動尊の不動三滝のうちの二つも同じで、その昔、人工林が無く本来の自然が豊かだった頃には、どれも水流が豊富で堂々たる滝だったとも考えられる。
またそうでなければ信仰の対象にはならなかっただろう。
順路に従って山路を辿り、畑に出ると前方に夕暮れの山波が美しい。ゆっくりと下りながらふと見ると、畑道の柵代わりに｢日本一 富士山の見える 君恋温泉｣の看板が立て掛けられていた。
登山者に愛され、惜しまれつつ廃業したという小さな温泉旅館だ。
看板はその大きさからみて車道沿いに掲げられていたものだろう。
旧 街道沿いを進むと路肩に｢白滝山不動明王｣と彫られた大きな石柱があり、寛政十年(＊1798年)のものだ。
江戸時代に街道を往来した人々向けのものと考えられ、不動尊の往時の隆盛が偲ばれる。
(この時、白馬不動尊の本参道を歩いて来なかった事に気付いた。白馬に跨がった勇壮な姿の不動明王の石仏や、江戸の信者が寄進した丁目石が幾つかあったはずなので見過ごしたのは残念。いつか再訪して確かめたい。)
8、馬頭観音・石畳・オリオン座
この先で山梨県指定史跡の｢恋塚一里塚｣を見て、間もなく路傍の馬頭観音像塔(宝暦十一年)(＊1761年)に出会う。
馬頭の形もよく残る素朴な佇まいの石仏で、手を合わせて振り返ると旧 街道の遺構である石畳が暮れなずむ山路にひっそりと伸びていた。
車道を離れて石畳の感触を確かめながら緩やかな坂を登ると、元禄の頃の建物が現存するという馬宿がある。裏手に登り建屋の背後から南を遠望し、時代がめまぐるしく変転しても唯一 変わらない山波の景色を眺めながら、昔この街道を行き交った人々の姿を想像した。
石畳は長年 人々に歩かれて角は無く丸いが、それでも登山靴の裏に冷たく硬い感触が伝わってくる。
昔の人々の健脚ぶりは現代の軟弱な我々からは想像もつかないものだ。
17時半、上野原市から大月市に入る頃にはだいぶ暗くなり、南には桂川右岸 秋山山稜の倉岳山、高畑山、大桑山がまるで三兄弟のように並んで淡い残照に仄黒く蟠り、その横には富士の麗姿が影絵のように浮かんでいた。
18時。山谷地区で車道を離れ、久しぶりにザックからライトを取り出して点灯し、道を照らしながら歩く。
眼下に中央自動車道を走る車の光列を見ながらすっかり暮れ落ちた斜面を下ると、雑木林を動物が逃げていく音がした。
漸く民家が見えてきて、ふと空を見上げるとオリオン座が美しい。
暫くすると眼が慣れて、オリオン座を中心に全天に散りばめられた幾つもの星が見えてきた。
南西に一際 光り輝くのは宵の明星だ。
｢我寂滅の後は彼方の空に一大明星となって現るべし｣
山麓の村民たちが宵の明星を「それ安山星よ」と呼んで聖人の在世の日々を追憶して讃嘆したというあの伝説が脳裏を過り、遠く歴史の彼方に明滅する灯火の揺らめきを見つめながらゆっくりと夜道を下る。
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「丹沢を歩く会」コミュニティ
副管理人 S∞MЯK
モリカワ ショウゴ
(現 事務局長)
ユーザーネーム
YAMAP
☆S∞MЯK★エリゴンズ
ヤマレコ
smrktoraerigon
Twitter
☆S∞MЯK★丹沢Λ@moyanotabikai
(ヤマレコには記録は残していません。
同好の士とのメッセージ等の連絡用に作りました。山ツイッターは始めたばかりです。
moyanotabikai(靄の旅会)は｢霧の旅会｣へのオマージュです。)
上記アプリやSNSに登録している方、よろしくお願い申し上げます。
扇山の高僧伝説と旧 甲州街道 犬目宿付近の歴史探訪
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(写真80枚)
1、早春の山麓漫歩 鳥沢から中野、山谷へ
夜明け前の暗い時間から愛猫ゴンを置いて留守にするのは可哀想に思えて、外が明るくなってから出発した。
中央線 鳥沢駅に降りたのは10時。
この時間から出発するハイカーが10人近く居て驚いたが、扇山は半日のハイキングに丁度良いという事なのだろう。
登路として最も一般的な登山口は「梨ノ木平」だが、私は甲州街道を東へ中野地区を目指す。
中野入口で街道を離れ、風化した石造物群を見て北に進んで中央自動車道の高架下をくぐると、東西にゆったりと長く伸びる扇山の姿が見えてきた。
この穏やかな山稜の南麓には広大な緩斜面が広がり、中野地区の集落はその南端に位置する。
桂川北段の山域は初めて歩くが、とにかく陽当たり良好で暖かく、振り向けば桂川右岸に連なる前道志 秋山山稜の景色が素晴らしい。
また、旧 甲州街道 下鳥沢宿と犬目宿を結ぶこの区間には古い民家が幾つも見られ、庭に蔵がある屋敷などは実に風情があって、思わず写真を撮ってしまう。
「中野神社前」には一群の石造物があり、
最も目を引くのは質素な青面金剛像が浮彫された享保十一年(1726年)の庚申塔で、金剛像の足元には猿の姿がある。
右隣りには安永七年(1778年)の角柱形の道祖神 文字塔、左隣りには文化十二年(1815年)の小さな馬頭観音像塔があった。
ここで右に車道が分かれるがそのまま北進し、地区の細い道を上がっていく。
たっぷりと陽射しを浴びた民家が並んでいるが人影は全く無い。
間もなく、「山ノ神社」に至る。
白く清らかな佇まいの鳥居を抜けると文政十年(1827年)奉上の御神燈が立っていた。
本殿は古く質素な造りで、境内には小さな石仏や稲荷社がある。
資料によると、中野地区の鎮守であるこの神社に祀られているのは扇山から遷座した神様で、今でも元の社を奥の宮と呼んでいるそうだ。
また、鳥沢の鎮守の福地八幡神社も扇山から移ってきた神様との事だが、調べてみるとどうもこれは【甲斐国志】(文化十一年1814年 松平定能)にある「大木明神」のようだ。国誌によれば、社には天文十七年(1548年)の棟札があったとの事。
扇山は遥か昔は｢大木山｣であり、良材を産出した山だったとの説もあるので、その後、｢大木｣が山の形に宛てた｢扇｣に転訛したものかもしれない。
山ノ神社から出て北進すると、やがて風景は広大な黒土の畑となった。
平原のような畑の南には桂川右岸の山波の全景が大きく展開し、その向こうに覗く富士の銀冠が眩しい。
畑の一隅では梅の花が咲き、仄かに早春の香りが漂う。
春の盛りともなれば畑は青々として辺りには色とりどりの野花が咲き乱れ、さながら桃源郷のような景色になるのではないだろうか。
時刻は11時。ザックを下ろしておにぎりを頬張った。
里山農業体験施設｢大月エコの里｣にさしかかると、70代と50代後半くらいの男性が話をしていた。
傍らを通り抜けようとすると、えびす様のようなお顔の年配男性に声を掛けられ、扇山への行き方を教えてくださった。
｢これを真っ直ぐ行けばいいずら！｣というこの男性と、もう一人の｢あそこに青い屋根見えるだろ？あそこから入ればいいんだ。｣という助言のどちらに従えば良いのか迷ったが、ありがたい事だ。
二人とも自然相手の農作業で鍛えられた風貌で笑顔こそいっさい見せなかったが、心根の優しさが感じられる人たちだった。
また、年配の男性は扇山のもう一つの登山口である｢梨ノ木平｣を｢なしのきっぱら｣と発音していたが、これは昭和戦前期のガイドブックにある｢梨ノ木ッ原｣と合致するので、昔はそう呼ばれていたのだろう。
現在は いまいましいゴルフ場になってしまっているのが残念だ。
山谷の集落に入って分岐を北に進むと11時20分、扇山の登山口に着く。
2、扇山 東肩の「寺屋敷」跡を訪ねる
登山道は明瞭でやがて擂り鉢状の浅い谷の右岸を行くようになり、林道に接近した後は幅の広い登山道となってゆったりと登っていく。
尾根に乗ると漸く人工林から解放されたが陽射しが強くて暖かく、とても2月とは思えない。背後の樹間に大きく見える富士山も昼過ぎとあって次第に霞み始めていた。
ツツジ群生地を示す看板を二ヶ所で見て12時半、扇山の東の肩にあたる「三境」に到る。
昔は三つの行政区の境だった事が地名の由来で、今は大月市と上野原市の境になっている。
この「三境」の東側に広がるなだらかな斜面と平坦地に、かつて「寺屋敷」の名があった。
私がこの地に興味を持ったきっかけは、【あしなか】(山村民俗の会)第205集(昭和63年)所収の【扇山の鞍山聖人伝説】と題された記事である。
昔 山上にあった寺院が地名だけを残して山麓に移動した例は各地に見られるが、この扇山 の寺屋敷について、北麓の棚頭地区では｢寺屋敷には現在 真木にある浄土真宗の正念寺があった｣という言い伝えがあり、一方、南麓の犬目地区には｢寺屋敷にはアンザン寺という寺があって、アンザン聖人と多くの僧侶が修行していた。｣という話が残されているそうだ。
南麓一帯の旧 甲州街道に沿う安達野、犬目、中野、鳥沢の各地区に伝わる話の内容にはそれぞれ違いはあるが、共通しているのは｢アンザン聖人は星になった｣という伝説であり、僧侶と星が結び付く伝説は日本では珍しいものだという。
安産の祈祷師としての「安産聖人」、仏教人名辞典にある「案山上人」、それとは別に「鞍山聖人」と さまざまだが、「アンザン」と称する僧侶が昔、扇山の東肩に庵を結んでいた事は確からしい。
それにしても「僧侶が星になった」とは一体どういう事なのか。
山の歴史や伝説に興味があり、また少なからず星や宇宙に科学のロマンと感傷的なロマンとを併せ持つ私としては、強く心惹かれる話だ。
【あしなか】の記事は山麓での聞き取り調査の結果だけであって情報が少ない。
自分の所蔵本の中にこの伝説を記したものがないかと探してみると、戦前の雑誌【ハイキング】の中に詳細な記事を見つけた。
これを元にまずは｢三境｣から「寺屋敷」跡の位置を特定する為に登山道を外れ、地図と見比べながら進むとまもなく広い平坦地を発見した。
約三百坪という記述に一致し、まさにここしかない、という地形だ。
往時を偲ばせる遺構は何も無いが、広場の中央には庵の礎石の一部と言われればそうかもしれないと思える石が幾つか落ち葉に埋もれていた。
3、星になった安山吉道和尚の伝説
昭和戦前期の【徒歩行雑誌 ハイキング】(ハイキング社)第55号(昭和12年)の中に｢扇山寺屋敷を繞る傳説｣(仁科義比古)という詳細な記事がある。
(以下、抜粋)
｢……此處が卽ち寺屋敷である。手前の所に一坪許りの古池がある。昔は雨乞ひの場所として有名なものであつた。
(屋敷跡には古碑や礎石もあつたが、何時とはなしに草刈り人の戯れに、そこから東方の不動澤へ轉落させてしまつたと云ふことである。)
此處に小堂があつたのは何時の頃か文獻では不明であるが、筆者の推定では、明暦、萬治頃(＊1650年頃)であると思ふ。
其頃そこに住んでゐた人に安山吉道と云ふ聖者があつた事は事實である。
麓の村々では誰一人として厚い尊敬を拂はない者とてはなく、獵師も樵夫も農夫も附近を通る度に立寄り教えも受け布施もしたもので、晩年この庵を去つて富士山に籠らんとするに當つて、富士山の方角を指して『我寂滅の後は彼方の空に一大明星となつて現るべし』と云ひ殘して漂然姿を見せなかつたが、後、延寶五年(＊1677年)八月十五日 富士山劔ヶ峯の岩窟に結跏趺坐の儘 大往生を遂げた。それより西南の空高く、毎晩一大明星が燦然として輝き出したので山麓の村々では「それ安山星よ」と呼んで、彼の聖者の在世の日を追憶して讃嘆してゐることは現在でも變りがないさうである。」
(以下、記事の要約)
安山吉道は慶長十一年(＊1606年)に甲州郡内領藤崎村(猿橋)の農家の子として産まれたが母は間もなく世を去る。
彼は七歳の時に上野原の保福寺に預けられ、四代 建州隣道禅師の下で修行して得度した。寛永二十年に禅師が亡くなると五代 山主に推薦されたが固辞して諸国遍歴に旅立つ。
これは慈母が我が身の為に落命した事への悲嘆と、同じ悲運にある人々への冥福を祈るべく、また命懸けの出産の営みのいと安かれと巡錫を思い立った事によるという。
甲州、信州、飛騨などを遍歴した安山吉道は生まれ故郷に戻り、扇山の中腹(＊寺屋敷)に庵居して長く山麓民の尊崇を集めたが、晩年は富士山に籠り、前述の通り大往生を遂げたそうだ。
安山吉道の墓碑は猿橋町朝日小沢の曹洞宗長應寺にあるが、安山は安産に通じ、且つその高徳を尊崇するところから古来 妊産婦を主とした信者によって御符として削られた事から、文字は(＊昭和初期の時点で)｢時延寶七巳未五月之｣(＊1679年)のみ読み取れたという。
仁科義比古氏は、記事をこう結んでいる
。
｢以上筆者の記述したところは、彼の傳燈録竝に近村里人の傳説とによりて古今稀な高��安山吉道和尚の生涯の一面を報じ、扇山寺屋敷の史的觀察への資料を提供したまでにすぎないが、近く同山保勝會の人々の手により、其所に祠堂の再建が實現しやうとしてゐる。｣
氏が4ページに亘って詳細に綴ったこの記事は昭和12年(1937年)のものだが、昭和15年のガイドブックには寺屋敷の謂われを記した立て札があった旨の記述がある。
しかし太平洋戦争の為だろうか、その後 祠堂の再建は成らず、立て札もいつしか失われ、現在は登山道から外れた単なる平坦地であって地図に記載も無い。
祠堂再建の計画は80年以上前の事であり、当時の方々ももう存命ではなく、地元でも次第に忘れられつつあるのではないだろうか。
前述の【あしなか】(昭和63年)の記事は、南麓の中野地区に｢寺屋敷の古塚には決して馬を繋ぐな｣との言い伝えがあり、その塚を調べてほしいと地元の方から頼まれた有志が山麓で伝説を採訪した結果との事。
それから平成の30年間が過ぎて、この有志の会も既に存在していない。
2020年の今、伝説の寺屋敷跡に立って見回してみると、すぐ北側には｢北都留三山｣の主峰 権現山(1312)から東に連なる標高1000m前後の山波が連なっている。この山々の景色は、アンザン和尚が見た風景そのままだろう。
一方、現在 南側は人工林の為 展望は無いが、扇山 山頂にまで登れば山また山の重畳を見遥かし、とりわけ富士山の姿は今と変わらず美しく荘厳で、安山和尚が最期の地と定めたのも自然な事に思われる。
落ち葉が積み重なった寺屋敷跡には、今はただ小鳥の囀ずりだけが響いている。
4、展望抜群の「犬目丸」
登山道に戻ると、南の斜面からチェーンソーの唸り声が湧いた。二台の音なので何人かで人工林の整備をしているようだ。
緩やかに下り続けて犬目に下る道を分け、直進すると｢犬目丸｣の山頂に到る。
ほんの小さな突起に過ぎず標識が無ければ山頂とも気付かないが、展望の良さは抜群なので誰もが立ち止まって見とれてしまうはずだ。
南側が極端に刈り払われており、油断すると山麓まで転げ落ちそうな感覚になる。
桂川右岸の前道志の山波の全貌を一眸に収め、道志山塊主稜、西丹沢と中央丹沢の山々、西には逆光に霞む富士の高嶺、東には上野原と藤野町周辺の低山が見える。13時過ぎとあって景色は霞んでいるが、真冬の空気が澄んだ日なら展望絶佳だろう。
木に手製標識が括りつけられており、表には「犬目丸 861m」裏には「2018年1月3日戌年」とある。誰かが戌年の初登りの時に付けたものらしい。
詳細図にも犬目丸とあるが古い資料にこの名は見当たらず、昔は南麓の犬目の名を取り この山域一帯は「犬目山」と総称されていた。
5、萩ノ丸から旧 甲州街道に下る
さらに東へ、展望の無い混交林の尾根を緩やかに下り、｢萩ノ丸｣(794m)のピークに立ち寄ったが地味で静かな人工林で、山名から受ける品のある印象にはそぐわない。
ここから少し下り、左下の平坦地に立ち寄ると金毘羅社の赤い祠があった。
祠の前からは南東の展望が良く、四方津のニュータウン｢コモアしおつ｣と国指定重要文化財「大野貯水池」の青い水面、すぐ眼下には中央自動車道の談合坂サービスエリアを見下ろす。
双眼鏡があればサービスエリアに出入りする人々の表情も見えそうだ。
登山道に戻ろうとしてふと振り返ると近くの草地に石造物が見え、確認しに行くと双体道祖神だった。
江戸時代後期 文化年間(1810年頃)のもので像容は最も一般的な並立型だが、御二人とも柔らかな表情の神様で微笑ましいお姿だ。
犬目丸からの展望以外は特に見るべきものが無かった山道で、200年の星霜を経たこの仲睦まじい道祖神に出会えた事は嬉しく、心が和んだ。
この後は里山らしい雑木林を縫う明瞭な道を下り、人工林を経て山麓に下り着く。
すぐ後ろから30代くらいの単独男性が下りてきて、この日 山中で出会ったハイカーは計4人だった。
6、義民 犬目宿兵助 決起の地「犬嶋神社」
大木の下に大きな地蔵菩薩と小さな石仏、その近くに馬頭大士(明治十五年)の文字碑を見て新田地区に出た。
ここから西へ安達野地区を経て15時、旧 甲州街道の｢犬目宿｣の犬目地区に入る。
当地出身の義民 犬目宿兵助(犬目の兵助)の墓は見過ごしてしまった。
道沿いの家は新しく、宿場の雰囲気は失われ、地元の方々も愛想が無い。
目指す犬嶋神社を見つけられずに通り過ぎてしまったが、地図を見て引き返す。
天保七年(1836年)、江戸幕府の屋台骨を揺るがした「郡内騒動」(天保騒動･甲斐一国一揆)の震源地の一つとなった犬嶋神社。
しかし神社の位置を知らせる案内板などは無い。
民家の間の細い路地を真っ直ぐに、本当に神社があるのかと半信半疑で北に登って畑の間を抜けると、やがて鬱蒼とした社叢林の中に鳥居が見えてきた。
〈郡内騒動 甲斐一国一揆〉
甲斐郡内地方の中世における領主 小山田氏は手厚い領民保護を図り善政で知られたが、江戸時代初期に上州から入封した秋元氏が領主になると状況は一変、領民は重税を課され、街道の助郷制などの負担も相俟って過酷な生活に喘ぐ事となった。さらに富士山の火山活動による気候災害により農民は凶作の度に飢饉に襲われ、その度に多くの餓死者を出した。
特に天保七年の飢饉は甲斐郡内地方のみならず全国的な大飢饉ではあったが、郡内地方では天保四年から続いていた冷害による大凶作で疫病や飢餓による死者が続出、かつて無い地獄のような惨状を呈して、実に領民の三割に相当する一万八千人の死者 行方不明者を出す事態となる。
また、米穀の高騰は著しく、郡内地方の西の甲斐国中地方、東の相模の米穀商は暴利を貪り、さらなる価格の吊り上げを狙って穀止めを強行、特に国中地方の米穀商 元締めの奥右衛門は六万俵もの米を買い占めた。これにより郡内領の米は枯渇し、領民は草の根や樹皮を食べて露命を繋ぐ窮状に陥った。
下和田村(現 大月市七保)の森武七は米穀商元締め 奥右衛門に米の貸し出しを申し入れ、郡内各村の名主を保証人として高利での返済を願い出たが拒否され、生きる手段を封殺された農民はついに最終手段たる一揆の道を選ばざるを得なくなった。
八月十五日、谷村の近郷九ヵ村の農民が酒屋･米屋を打ち毀し、同十九日までには大幡村近郷二十三ヵ村、大月 猿橋近郷の十三ヵ村が大月宿に集合、下和田村の森武七(70歳)、犬目宿で旅籠を経営していた兵助(40歳)が頭取に推挙された。
兵助は妻子や近親縁者に累が及ぶのを避けるべく妻には離縁状を持たせて子と共に逃がし、近親者には縁切状を出した。
一揆勢の頭取に森武七、副長に犬目宿(姓は水越)兵助、参謀に医師の泰順が選出され、甲州街道沿いの村々に密使を送って笹子の白野宿 天神坂林に集合を呼びかけた。
同二十一日未明、兵助は法螺貝を合図に宿中北方の「犬嶋神社」に近在の農民を集合させ、旗や武器を持ち天神坂林へと出発する。
これが江戸幕府を震撼させた天保郡内騒動・甲斐一国一揆の始まりだった。
時の甲府勤番支配の報告書によると、武七、兵助を頭取とする五千人に及ぶ大集団が、窮民の趣旨を大書した大幟を先頭に村々の印を記した旗を持ち、日本刀、竹槍、鉄斧などで重武装し、鉦、法螺貝、太鼓などを打ち鳴らして天神坂林にて蜂起したという。
この大集団は破竹の勢いで笹子峠を越えて国中地方に達し、鶴瀬の関所を突破して勝沼宿に至る。
夕闇迫る頃には国中地方の貧農、にせ浪人、乞食、無宿人らの無法者が大挙して一揆勢に加わり、忽ち暴徒と化して商家の打ち毀しを始めた。
翌 二十二日、郡内農民の目的地だった米穀豪商 奥右衛門宅の打ち毀しが始まった頃には一揆勢は数万人にも膨れ上がり、武七や兵助の指揮権は失墜して統制は失われ、烏合の渦と化した。
武七、兵助ら郡内領の農民はここから引き上げたが、国中一揆勢は二十三日には甲府城下にまで乱入、甲府勤番は対処できず甲斐国は一時無政府状態に陥った。
信州諏訪藩、駿州沼津藩からの援兵を得て一揆が鎮圧されたのは、二十六日の事だった。
(【郡内甲州街道物語】(鈴木美良)参照)
旧 甲州街道の道筋においては高所の標高500m前後に位置する犬目宿 付近からは南の展望が開けており、さらに高い斜面上にある犬嶋神社からの景色は道志、丹沢、富士の山また山の重畳だ。
一揆勢の綱領には「米穀払底につきこのまま相果つるより甲州に出立し、ここに一命を捨つるべし」とある。
悲愴な覚悟で犬嶋神社に集まり 決起した兵助らの眼に、この山波はどのように映ったのだろうか…
冬の午後の斜陽に照らされた山肌を見ながら、暫し往時に思いを馳せた。
7、白滝山不動尊(白馬不動尊･大滝不動尊)
旧 街道に戻り、【富嶽三十六景】(葛飾北斎)の｢甲州 犬目峠｣の地として知られる宝勝寺を過ぎると山路の入り口がある。
不動尊と滝を見て、日没に間に合えば展望絶佳の犬目丸からの夕景を楽しむ計画だ。
ゆっくりと登っていくと、昼過ぎに山中で伐採作業をしていた方達らしい北都留森林組合の男性三人が下りて来た。最年長の方に「これから登るんですか？」と笑顔で聞かれ、「いえ、そこの不動尊まで。」と答えたが、三人ともまるで昭和時代にタイムスリップしたかのような、古くからの山仕事の伝統を守る職人らしい装備と精悍な風貌が印象的だった。
登山道から不動尊への分岐に入ると石造物群に出会った。石仏と供養碑で、不動尊の開山やその歴史に関係するものは
「當寺 圓享智光木食上人 開山｣( 文化十四丁丑年)(＊1817年)と刻まれた碑と、
｢當山 唱應淨念順上人實阿大和尚 再祖｣
(天保十五辰 十月貳四日)(＊1844年)の碑だ。
例によってこの不動尊も行基の開山と伝えられるが、近世の中興の祖である圓享智光木食上人については入寂した洞穴が山中に残されているという。
木食僧は五穀を食べず、火を通したものは口にしない。厳しい木食戒を守って木の実、草の実や葉を常食とする修験者であり、上人や聖、法印とも呼ばれていた。
庶民に病気快癒や悪霊退散、開運招福、易術、呪術などの加持祈祷をおこない、特に農民層から広く崇敬されていたそうだ。
ここには素朴な仏像や、僧侶の墓碑よりも古い寛政十年(1798年)の小さな石仏、そして側面に「幻雪童女」「秋雪童女」など数人の童女の戒名が刻まれた墓碑(宝暦十二年 三月)(同八月)(＊1762年)もあった。
童女の墓碑にはとても可愛らしい石仏が彫られており、親御さんの慈愛と石工の真心が感じられる。
ここは旧 街道から本参道を進んで不動堂に参詣する時には通らない裏手の斜面で、人の訪れはほとんど無いだろう。
雑木林を淡く彩る夕方の斜光は苔蒸した墓碑を撫でるように静かに揺れて、私も静かにこの幽寂の地に手を合わせた。
ここから下ると不動堂で、｢白瀧山｣の扁額が掲げられている。石段を下ると崩れかけながらもかろうじて立っている小さな石祠や、その傍らの不動明王の石仏から長い歴史が感じられる。
滝は不動堂の裏手に下ったところにあったが予想に反して落差10mにも満たず、しかも水流は少なくてとても不動滝とか大滝と呼べるものではない。
尤もそれは例えば奥武蔵の高山不動尊の不動三滝のうちの二つも同じで、その昔、人工林が無く本来の自然が豊かだった頃には、どれも水流が豊富で堂々たる滝だったとも考えられる。
またそうでなければ信仰の対象にはならなかっただろう。
順路に従って山路を辿り、畑に出ると前方に夕暮れの山波が美しい。ゆっくりと下りながらふと見ると、畑道の柵代わりに｢日本一 富士山の見える 君恋温泉｣の看板が立て掛けられていた。
登山者に愛され、惜しまれつつ廃業したという小さな温泉旅館だ。
看板はその大きさからみて車道沿いに掲げられていたものだろう。
旧 街道沿いを進むと路肩に｢白滝山不動明王｣と彫られた大きな石柱があり、寛政十年(＊1798年)のものだ。
江戸時代に街道を往来した人々向けのものと考えられ、不動尊の往時の隆盛が偲ばれる。
(この時、白馬不動尊の本参道を歩いて来なかった事に気付いた。白馬に跨がった勇壮な姿の不動明王の石仏や、江戸の信者が寄進した丁目石が幾つかあったはずなので見過ごしたのは残念。いつか再訪して確かめたい。)
8、馬頭観音・石畳・オリオン座
この先で山梨県指定史跡の｢恋塚一里塚｣を見て、間もなく路傍の馬頭観音像塔(宝暦十一年)(＊1761年)に出会う。
馬頭の形もよく残る素朴な佇まいの石仏で、手を合わせて振り返ると旧 街道の遺構である石畳が暮れなずむ山路にひっそりと伸びていた。
車道を離れて石畳の感触を確かめながら緩やかな坂を登ると、元禄の頃の建物が現存するという馬宿がある。裏手に登り建屋の背後から南を遠望し、時代がめまぐるしく変転しても唯一 変わらない山波の景色を眺めながら、昔この街道を行き交った人々の姿を想像した。
石畳は長年 人々に歩かれて角は無く丸いが、それでも登山靴の裏に冷たく硬い感触が伝わってくる。
昔の人々の健脚ぶりは現代の軟弱な我々からは想像もつかないものだ。
17時半、上野原市から大月市に入る頃にはだいぶ暗くなり、南には桂川右岸 秋山山稜の倉岳山、高畑山、大桑山がまるで三兄弟のように並んで淡い残照に仄黒く蟠り、その横には富士の麗姿が影絵のように浮かんでいた。
18時。山谷地区で車道を離れ、久しぶりにザックからライトを取り出して点灯し、道を照らしながら歩く。
眼下に中央自動車道を走る車の光列を見ながらすっかり暮れ落ちた斜面を下ると、雑木林を動物が逃げていく音がした。
漸く民家が見えてきて、ふと空を見上げるとオリオン座が美しい。
暫くすると眼が慣れて、オリオン座を中心に全天に散りばめられた幾つもの星が見えてきた。
南西に一際 光り輝くのは宵の明星だ。
｢我寂滅の後は彼方の空に一大明星となって現るべし｣
山麓の村民たちが宵の明星を「それ安山星よ」と呼んで聖人の在世の日々を追憶して讃嘆したというあの伝説が脳裏を過り、遠く歴史の彼方に明滅する灯火の揺らめきを見つめながらゆっくりと夜道を下る。
mixi
「丹沢を歩く会」コミュニティ
副管理人 S∞MЯK
モリカワ ショウゴ
(現 事務局長)
ユーザーネーム
YAMAP
☆S∞MЯK★エリゴンズ
ヤマレコ
smrktoraerigon
☆S∞MЯK★丹沢Λ@moyanotabikai
(ヤマレコには記録は残していません。
同好の士とのメッセージ等の連絡用に作りました。山ツイッターは始めたばかりです。
moyanotabikai(靄の旅会)は｢霧の旅会｣へのオマージュです。)
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