秀吉がその全盛期に、京にも奈良の東大寺の大仏をしのぐ大金銅仏を作ろうとし、
天正14年からとりかかった。
ところがこの当時の日本にはブロンズの鋳造技術が衰えていたため、技術的にも不可能になり、木造しっこうにきりかえ、ついに二年かがりで十六丈の大仏をつくり、さらに4年かがりで高さ二十丈の大仏殿をつくり、これを方広寺と名づけた。
ところが千僧供養があった翌年に大地震があって大仏も殿舎も大崩れにくずれてしまった。
その後、家康が豊臣家の経済力を涸れさせてしまう目的で、
大阪の秀頼に対し、
「お父上君が執心なされた方広寺の大仏がくずれたままになっております。
あれを再建なることこそ孝養の第一でございましょう」と勧めたのは、慶長7年である。
豊臣家の家老片桐且元も、家康の内意をうけて熱心にすすめた。
秀頼は(実際は淀姫だが)、これを承知し、その年からこれにとりかかった。
「再興されるのならいっそ、金剛仏がよろしゅうございましょう」と、
さらに家康の側はすすめた。
秀吉ですらそれが出来かねて木造しっこう製にしたのに、
秀頼には金剛仏にせよ、と勧めたのである。
いかに豊臣家に財があろうと、城も傾くにちがいなかった。
造営についての人費は、秀吉のときはかれは天下のぬしであったため、
天下二十八か国の大名に工事費用を分担させたから
秀吉自身のふところは痛んでいなかったが、
こんどは世で頼一個の資力でやらねばならない。
片桐且元が奉行になり、その再建にとりかかったところ、ある夜不審火があり、
秀吉時代から残っていた堂塔伽藍がすっかり焼けてしまった。
「豊臣の負担を大きくするために関東が焼いたに違いない」
といううわさが、一時京に満ちた。
この時期の家康とその側近はそんなことでもしかねない状態で、おそらくうわさは事実だったに違いない。
このとき淀殿は少しも動揺せず、「また造りや」と、ためらわずに命じた。
こんどは一からはじめなければならない。
豊臣家の財力はこれで尽きるかもしれないが、
片桐且元は、「このことは、なさなればなりませぬ」と言い、
焼け跡を片付けたその日から建築にとりかかり、一方、鋳造にもとりかかった。
鋳造のほうは存外早くできて、
慶長十七年には金で鍍金した燦然たる六丈(18.18m)の虚像が鋳あがった。
つぎはその入れ物である。高十二丈の大仏殿、塔、仁王門
その他四方の門を造営するのだが、これは大事業であった。
豊臣家がこの建築のために費やした金は、黄金千四百枚、銀が二万三千貫、米二十三万石
というとほうもないものであった。
参考資料 司馬遼太郎と寺社を歩く
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