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2019年06月26日13:08

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多様性

 「宇宙は”もつれ”でできている」(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1971417705&owner_id=5691043)読了。感想は後述するが、それと(多少)関連して・・・・

>ノーベル賞・野依博士「本気で怒っている」日本の教育に危機感(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190625-00010002-wordleaf-soci)

この人(野依氏)の化学上の業績はともかく、科学行政上の姿勢にはなにか馴染めないところがある。アベ氏が”美しい日本”などと虚言を吐いていたころ、政権肝いりの教育再生会議などと言うのに祭り上げられ政権の提灯持ちをしたかと思えば、スーパー・コンピュータ開発で某科学音痴議員の「一番じゃなきゃダメなの?」発言への反論として「一番じゃなきゃ他国に隷属することになる」と素っ頓狂に宣ったり、理研のSTAP騒動の際には所長として自己保身にしか見えないような態度に終始したり・・・・と、どうも違和感ばかりが積み重なってきたせいか、この記事にある”本気の怒り”にもどこか空虚な香りがしてならない。記事を読むと、一見おっしゃる言の一々には頷くところも多いのだが、どれも今までも多くの人から散々言われてきたことでもあるように思われる。
むしろ、”そういった諸々の指摘にも関わらづ、一向我が国の教育は良くならなず、科学研究力も弱体化の一方である”・・・と言うのが現状であり、今更同じような指摘をしても事態の改善は望めないように思われる。
別にその責任が野依氏個人に有る訳でもないし、そういった状況は一朝一夕で解決できるものではないだろうという予想はつくが、記事を読んでいてふと考えさせられるところもあった・・・・インタビューに曰く、

<世界が多様性の尊重に向かう中で、日本はなぜ、画一性にこだわるのか>

世界の”多様性”と我が国の”画一性”の問題も、今まであらゆる分野で散々語られきた問題ではある。しかし、何が”多様性”であるか?何が”画一性”であるか?・・・については、我々自身実は良く考えて来なかったまま、言葉の上でだけ”多様性”を確保すれば事態は改善する(はずだ)という虚構を盲信してきたのではないか?
思えば、科学は常に統一性を目指す・・・・より少数の未知を求め統一された原理に基づいて世界の(敢えて言えば)画一化された記述・理解を求めるともいえる。そして、そう言った世界の理解には強力な知力と創造(and想像)力とそれを支える強烈な個性が必須である。この個性には、己の感性を(根拠なく)信じる信念・・・と言えば聞こえがよいが実際には信仰に近い・・・が必要であり、それらは往々にして頑固であり柔軟性に欠けている。科学が(一見?)健全に発展するように見えるのは、実際の方法論が画一的でなく各研究者が多様性に満ちて頑迷ではないから・・・・ではなく、むしろ多様なそう言った”頑迷(で画一的な考えに満ちた)研究者”の多数の存在を普遍的に受け入れるシステムを(なんとか)擁しているからである。
・・・・そういったことを考えてみると、わが国で言われる”多様性”と言うのは、むしろ信念(信仰)無き浮き草のように浮遊する(個人が形成する)社会であるように思われる。望まれるのは、そうではなく、必ずしも広大無辺の多様性を持つ人間ではなく、むしろ狭い視野の画一的な個人が多数・多種集まっても維持できる社会システムである。”個性”の画一性に目を向けることなく、ただお題目のように”多様性”を語るだけでは、それは寧ろ(今まで実際そうなってきているように見える)<”多様性を尊重する社会”と言う”均一(で画一的)”な社会>になるだけではないか、と思う。

今月送られてきた、みすず書房の宣伝紙「パブリッシャー・レビュー」に紹介されている新刊二冊がえらく対照的で面白い・・・・
   「専門知はもういらないのか、無知礼賛と民主主義」(T. ニコルズ著)と
   「大学なんか行っても意味はない?、教育反対の経済学」(B. カプラン著)
前者は曰く・・・
<自分の信じたいことだけを信じ、専門知を否定し、自分の「意見」は専門家の「意見」と等しく尊重されるべきだと言う。専門知の否定に自己実現を感じ、無知を恥じない・・・・>
と、専門知の地位低下に警鐘を鳴らし、
後者は曰く・・・
<アメリカの教育制度の最大の欠点は教育のしすぎ、である。典型的な学生は、生産性を上げるわけでも人生を豊かにするわけでもない教育の勉強に何千時間もついやす・・・>
と、仰っているそうである。
両者、完全に相対立する主張という訳でもないが、どこか「”知”の認識」という一点ですれ違いざまに相反する認識が交差するようなところがあって、その2冊の本が一出版社の宣伝紙の同一ページに載っている・・・・と言うのが、なかなか現代的ではある。

最近マイミクの一人が、”正統派”歴史家と所謂”修正主義的”歴史(素人?)家の論争についてつぶやいていたので、私もちょっと紹介記事を読んでみた。こう言った論争(?)はある意味で昔からあった・・・・と言う既視感と、そう言った議論を取り巻く環境・雰囲気の変化との両者がある。昔は、”俗説”であったものが”正統”を名乗り、昔”正統”であったものが改めてその”正統”性を防衛しなくてはならない・・・・という状況は、上記2冊の本が同時に翻訳・発刊されるということと、”知”の認識の点で妙に符合する・・・・特に”知”の均一化・希薄化、という点で・・・・

「宇宙は”もつれ”でできている」読後感想。
本書の原題は、"The Age of Entanglement : When Quantum Physics was Reborn"、とあるように量子力学について述べたものだが、量子力学そのものではなく、それに携わってきた(ている)物理学者たちの群像を、あたかも”見てきたように”記述したものである。ボーア、パウリ、ハイゼンベルク、ディラック、et al., と言った量子論の巨人たちと、アインシュタイン、シュレディンガー、ボーム、ベルら懐疑派の葛藤は、云わばコペンハーゲン派という”正統派”と量子論の専門家には認識論の素人に見えた頑迷な”異端派”の人間的な葛藤でもある(ここにも正統(画一)と懐疑(多様)の相反がある)。本書の記述の多くは、著者の想像と創造から成り立っていて、鵜呑みにするのは少々抵抗もあり憚られるし、小説のような語り口からは”entanglement=もつれ”の実態・実際についての理解は殆ど得られない。言わば、本書は量子論的に言えば”(物理学者の心の内という)観測されていない事象に実在性を与えようという(意味のない?)試み”とも言えるが、読み物としては頗るおもしろい。それに、”もつれ”の実際が何であるのかは当の物理学者たちにも未だに理解できない・・・・まさにアインシュタインが言ったように”神は老獪にして(理解しがたいが)、悪意はない”・・・・状況に鑑みれば、我々素人がこの”もつれた”宇宙について将に理解”可と不可”の重ね合わせ状態にあるのは、当然でもあり、この世界がまんざら悪いもの(ばかり)でもないと言う希望(的観測)が生じない訳でもない・・・・と言う気分にはなる。

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