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2019年03月08日15:00

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11-25 晩秋の道志山塊 大地峠 金山峠 デン笠

2018年11月25日

四方津駅→川合→川合峠→大地峠⇔甚ノ函山→金山峠⇔デン笠→金山 日影沢金鉱跡→
上野原駅

晩秋の道志山塊 大地峠・金山峠・電笠
https://yamap.com/activities/2772075
写真90枚、軌跡など


0、四方津駅から川合峠へ

7時20分、中央線 四方津駅着。改札を抜け、ザックをベンチに下ろしてホットの缶コーヒーを飲む。
11月最終週とあって、朝の空気は晩秋らしくひんやりとしている。

駅前にはゴルフ場のマイクロバスが待機し、ゴルフバッグを担いだ男性たちが次々と吸い込まれていく。
見たところ、ハイカーらしい姿は無い。
ハイカーが自分だけなら誰にも煩わされずに心静かな山歩きのスタートを切る事ができる。

しかしコーヒーを飲み終わり、さあ出発!というところで改札内にザック姿の女性3人組の姿が見えてガックリしてしまった。
朝から賑やかにやられてはたまらないのでさっさと出発する。

東に折れて道標に従って進み、南に下って桂川に架かる橋を渡る。眼下の桂川の景観は両岸に岩や紅葉を配して雰囲気が良い。西へ緩やかに登ると古く立派な造りの大きな廃屋を見て、やがて川合の最上部の集落に至る。
北に列なる桂川北岸の山肌は晩秋らしく乾いた印象ながらもまだ紅葉の色彩をとどめ、茶色混じりの渋味のある黄色が朝陽に照らされて眩しい。
見上げる青空は澄みわたって雲ひとつ無い上々の天候だ。

石垣の上の畑の隅に並ぶ石造物群はすっかり風化しているが江戸時代の「享保」(1716年〜)「元文」(1736年〜)の文字が読み取れた。
道の分岐で昔の月待ち信仰を示す「二十三塔」を見て左に進むといよいよ山道となる。

山道に入るとすぐ前方に4人の男性が立っていた。その傍らには三脚に据えつけられたカメラが並んでいる。
バードウォッチングかと思って尋ねてみると、電車を撮るとの事。
晩秋の山間部を走る中央線の姿を俯瞰で狙う、本格的な趣味の人達のようだ。

ここから「川合峠」までは5分もかからない。高柄山北麓の千足集落から北の川合へと抜ける古径が通っていた小さな峠で、寛政8年(1796年)と享和2年(1802年)の馬頭観世音の石碑が置かれている。
柔らかな朝陽に照らされた草露の光がきらきらと睫毛を撫で、小鳥の清らかな囀ずりが耳に優しい愛すべき静かな峠だ。



1、紅葉の尾根道・大展望・石仏

さてここから、「大地峠」を目指して南へ尾根を辿る。
倉岳山を主峰とするいわゆる「前道志」の連山には尾崎喜八の昭和10年頃の紀行文に書かれて有名になった「穴路峠」を始めとして幾つもの峠があるが、径が沢沿いではなく尾根通しで、しかも自然林の割合が高く展望も良いのは唯一、この大地峠への道だけだろう。

水害の影響を受けやすい沢筋の径路が安定的に確保されたのは近世以降の事であり、崩落が起こりにくい安全な尾根筋はさらに時代を遡る古い峠路であると考えられている。
山神研究家として幾つもの著作がある佐藤芝明氏によれば、この峠路からわずかに外れた小さな台地上に古い石造物群があり、うち一つは500年以上前の石仏だというが、果たして今回見つけられるだろうか。

ちょうど1年前に穴路峠から秋山村に下り、寺下峠に登り返して矢平山からの下りでこの道を使ったが、日没との競争で駆け下りただけに終わったので、 今日は探索を兼ねてゆっくりと味わいながら歩こう。

尾根に並行して付けられた径路は自然の地形を利用しつつも実に巧みに凹凸を躱しており、無駄な登降の手間を省いた古人の知恵と工夫にはつくづく驚嘆させられる。
そして、青空に映える紅葉が眼を瞠るほど素晴らしい。

紅葉としての最盛期は既に過ぎているのだが、澄明な大気を透過して降り注ぐ晩秋の朝陽を満身に浴びた木々の葉は散り際の最後の輝きを放ち、まるでその色彩に呼応するかのように美しい囀ずりを奏でる小鳥たちの歌は遠く近く雑木林に響き渡って、自然の懐に抱かれた自分の心身が隅々まで充ち足りていくのを感じるのだった。

幻の石造物群を探して支尾根を探索していると、直下の登山道を男女ペアのハイカーがゆっくりと登って来るのが見えた。動物のように樹蔭で息をひそめて見送る。彼らが視界から消えるのを見届けて、登山道に復帰した。

9時半、延伸工事中の大地林道を眼下に見ると、北の展望が大きく開けて「北都留三山」「南大菩薩」の山波を望む。
少し進むと昨年は存在に気付かなかった石仏があり、風化して読み取れないが「寛」の字から寛政年間か寛保年間のものらしい。
また、そのすぐ先には寛政6年(1794年)の石仏があって、詳細図には「観音像」と記されている。
峠ではなく径路の途中なので、もしかしたら江戸時代にはこの付近が難所で、人馬の事故や遭難があったのかもしれない。

この後は再び雰囲気の良い自然林の峠路が続き、黄葉を中心とする木々の梢を見上げたり、足元の哺乳類の糞塊を観察したり、樹間から覗く山を眺めたりしながらゆっくりと歩く。

支尾根に入り込むと、何らかの凄まじい力が働いたのだろう、立ったまま幹が激しく割れて大きく撓んだ木を見つけた。
これまでに見た事の無いような豪快な割れ方が何とも不可思議で、昔の人なら「天狗の仕業に違いない」と言うのではと思えた。

この後また別の尾根を探索したが幻の石造物群は発見できなかった。
11時。倉岳山から矢平山にかけての山波を眺めながら小休止を取る。



2、「御座敷の松」伝説と「大丸」の謎

11時10分。「御座敷の松」跡に至る。
平成に入ってから新しく植樹された若い松の傍らに説明板があった。

戦国時代に武田信玄が金鉱開発の為にこの山域を訪れた際、ここに聳えていたマツの大木の下で休んだという伝説があり、その言い伝えを後世に伝承すべく、上野原の川合地区の有志が平成15年3月に新たにマツを植えたとの事だ。

ここからは北の展望が開けて高尾陣馬や奥多摩の山波を望み、中でも「武蔵の鍋冠山」大岳山が目を引く。

信玄伝説は甲州はもちろん甲武相国境には数多くあり、この「御座敷の松」から近い高柄山南麓には複数の金鉱跡があって信玄の時代にも採掘が行われていたとされている。
信玄本人は来ていないはずだが、武田の金山衆がこの古い峠路を歩いた可能性は否定できないので、まったく根拠の無い伝説ではなさそうだ。

この先では再び大地林道を眼下に西には「倉岳山」、その右奥には南大菩薩南端の「滝子山」、左には富士山の頂、そして笹子峠の彼方に南アルプス 間ノ岳の銀嶺が見えて、双眼鏡を覗きこんで暫く展望を楽しんだ。

薄暗い人工林を抜けて大地林道の舗装路を横切り、北に甲武相国境と奥多摩の山波を遠望して進むと12時ちょうどに「大丸」の直下に至る。

甲武相国境、大菩薩、西丹沢の山域には「マル・ムレ」などを山名の末尾またはその一部とする山が多数あり、このうち「マル」は「尾根の高いところ」を指す古代朝鮮語だという。
特定の山名における古代朝鮮語起源説についてはあの木暮理太郎が敷衍した事でも知られるが、より緻密な考証は【日本山岳伝承の謎 〜山名にさぐる朝鮮ルーツと金属文化〜】(谷 有二)(未来社 1983年)に詳しく、実に興味深く説得力のある内容となっている。
この本には直接の言及は無いが、南麓に複数の金鉱跡を擁する「高柄山」の東西に「ホウジ丸」と「大丸」がある事も、朝鮮半島からの渡来人がもたらした金属文化や採掘技術との関連を感じさせるものだ。

また「大丸」を江戸時代の地誌【甲斐国志】にある「乙丸峰」に同定する説もあるがいずれにせよ「マル」を含み、さらに、前述の「ホウジ丸」に加えて矢平山の西に「丸ツヅク」(丸ツック)という山がある事も
興味深い。

人工林の中を登り、やがて右が混交林になると二俣の松に出合う。
雲が出てきたのだろうか、少し翳りを帯びた木洩れ日が梢の枯葉に揺れて、俄に晩秋の哀感が漂う。



3、新旧 「大地峠」の今昔

少し進み、「新 大地峠」を過ぎてしまった事に気付いた。
他の山域での「新 峠」は多くの場合、新しく通された林道上にある為 ここもその例だと思い込んでいたのだが、後で確認すると間違っていた。
実際には、東の「金山峠」方面と南西の「旧 大地峠」方面を分ける分岐が「新 大地峠」らしい。

写真に撮りそびれたが、思い返してみれば薄暗い人工林に囲まれた寂しい峠だった。
しかし、昔は実に峠らしい趣きに富んだ場所だった事が古書に記されている。

松本重男が執筆を手掛け、いずれも昭和15年(1940年)出版の【日本山岳案内 第一輯 丹沢山塊 道志山塊】(鉄道省山岳部 博文館)、【中央線に沿ふ山と峠】(登山とスキー社 )は昔を知る上で極めて貴重な資料で、この大地峠の当時の様子については以下のように記されている。

「この大地峠は、藪をもつて定評のある道志山塊のうち、特にひどい前道志の山嶺を横切る峠でありながら、此處 大地峠だけは珍らしくも春なら、スミレ、ラン、秋なら松虫草、野菊の所一面咲き亂れている草原であつて、明るい快よい峠路を作つている。峠の手前の大丸山の西側を搦む地點から、大地峠まで、ゆるやかな逕と、右下の澤を見下ろす風景は、峠の情緒を滿喫させて呉れる。」【日本山岳案内】

「峠の情景は、この大丸山より大地峠までの間に於て完全に滿喫させられる。(中略)
この大地峠越へは、時節としては晩秋より早春までの冬の期間が、一番性格的な姿を現はすものであつて、特に新雪或は殘雪の候に於いては、その與へる強烈な山の姿に心を打たれる。一度は峠に足跡を印しても良い所である。」【中央線に沿ふ山と峠】

これらの記述から約80年を経て、峠付近の様子はすっかり様変わりしてしまった。
雑木林を伐採して植林するよりも草地を刈り払って植林したほうが簡単だから、という事なのだろうか、かつて野花が咲き乱れていたという峠の明るい風情は今や完全に失われ、展望が無いばかりか鳥すら鳴かない人工林の中に蹲る薄暗い小鞍部となってしまったのは惜しい事だ。
尤も、峠そのものは変容著しいとはいえ、引用が長くなるので割愛したが 北麓の川合から峠に至るまでの雑木林の風情や雄大な山岳展望は今も昔の描写と変わらないように思えてうれしい。

峠から南西へ進むとやがて自然林と人工林の界尾根となって東の樹間に蛭ヶ岳以北の丹沢主脈線を望み、間もなく人工林の鞍部に至る。
ここがいわゆる「旧 大地峠」である。

西の「矢平山」(一説には「大地山」)と南東の「甚ノ函山」に挟まれた明瞭な鞍部で、南のサガ沢に沿って旧 秋山村 大地に下る道があるが、峠は荒れて寂しい雰囲気が漂う。
南がアカマツ林でその向こうに道志山塊主稜の山波が見えるので新 峠よりは明るいが、何よりこの峠を印象付けるのは壊れて倒れかけている道標だ。

南麓のキャンプ場が設置した手製道標で、白いペンキ塗りの木材に黒マジックで書かれた手書き文字こそまだ健在だが、方向指示板は外れて地面に置かれ、あるいは外れかかってまさに風前の灯、すっかり荒れて寂れたこの峠を象徴しているかのようだ。
南麓からはツーリング族のバイクのエンジン音が届き、人声も風に乗って案外近くから聴こえるが、それがまた峠の雰囲気との対照を成している。

なお、峠の「新」「旧」は戦後、昭和の中頃に便宜上 ガイドブックに記されたものであって、地元の行政はこの呼称を黙認はしたが使用はしていない。
峠の歴史や名称の変遷の詳しい経緯については、実地で調査研究した方の【大地峠の怪】というブログ記事に詳しい。
【秋山村誌】によれば、秋山村では山越えで北の桂川沿いの旧 甲州街道に向かう際に登り着く現在の旧 峠を「一番峠」、尾根筋を辿った先で上野原側に下り始める現在の新 峠を「二番峠」と呼んでいたという。

甲州 郡内でも特に山間僻地の寒村だった昔の秋山村の主産業は製炭で、炭を積んだ馬が峠を越えて北に下り、旧 甲州街道沿いの川合村・巖村・上野原村などで炭と引き換えに得た野菜を受け取って、その野菜や生活物資を堆く積んだ馬が再び峠越えで村に帰ったという。

当時の主要道であった甲州街道筋を伝って各地に伝播していただろう最新の世情の動向も、峠を越えた人々によって秋山村にもたらされた事だろう。食料や物資を積んだ馬を曳きつつ、土産話を携えた村人はどんな想いを胸に峠路を辿ったのだろうか。

ふと気付くと矢平山のほうから熊鈴の音が近づいてきて、人に会いたくないのですぐに出発した。



4、「甚ノ函山」

南東に伸びる尾根に乗り、ゆっくりと登っていくと「道志山塊主稜」の向こうに悠然とした頂稜を構える山が見えて、それが西丹沢の重鎮たる「大室山」である事に気付いた。
大好きな山との思わぬ邂逅に気分が高揚し、思わず「やあ」とばかりに手を挙げて山に挨拶してしまった。
信仰の山なので本当は頭を下げるべきだったかもしれない。

目指す「甚ノ函山」はこんもりと盛り上がって意外な高さに感じたが、思いの外 すぐに山頂に着いた。
人工林優勢の藪山で、頂上の木にはマジックで山名が書かれた石片が括りつけられていた。

昔は甚ノ函山の尾根通しで南に下る径路があったそうだが、またの機会に確認したい。
それにしても「じんのはこやま」とは ちょっと珍しい名前ではないだろうか。
御坂山塊に「ナットウ箱山」の名を持つ山があるが、それに準じるユニークな山名と感じる。
甚ノ函山の南には「三本杉山」があるのでいずれ歩いてみたい。



5、金山峠(コワタ坂峠・茅野)

旧 大地峠、さらに大丸の直下まで戻ると時刻は13時40分。
「高柄山」はまたの機会として今回は東の「金山峠」を目指す事にした。

この方面は藪が煩い箇所もあるのではと想像していたが、意外にもすっきりとした明瞭な尾根道で、アップダウンもほとんど無い快適な径が続く。

人工林と自然林が交互に現れ、北の樹間には高柄山の稜線を、南には逆光に浮かぶ道志主稜東部の山肌を望む。
晩秋の午後の斜光を浴びた自然林は既に枯葉を梢に僅かに残すのみで、カサコソと落葉の径を踏み分ける自身の足音と、サラサラと瀬音のような余韻を残して梢を静かに吹き抜ける風の音だけが流れていく。
一度、北の斜面を鹿が駆け下りていく音が聴こえた。

14時30分、金山峠に到着。
峠はすっかり寂れているのかと思いきや、意外にも行政が立てた道標があり、さらにこの山域の登山道を整備している有志の方々の手による案内プレートも立っており、木製の簡易なミニベンチまでが置かれていた。
地形は典型的な鞍部ではなく平坦に近い緩やかな尾根上の乗越で、古書には「茅野」の名も見える。
現在は北は人工林、南は自然林で展望は無い。
この峠は南の旧 秋山村 小和田と北の旧 秋山村 金山を結ぶ小さな峠で、南麓の字を用いた「コワタ坂峠」の名を記載した古書がある。
明治21年測量 同25年発行の二万分の一図【秋山村】(大日本帝國陸地測量部)には峠路の記載があるが、上野原方面に出るにはさらに山道、あるいは山越えの道を辿らねばならず、秋山村が昔いかに辺境の地であったかが偲ばれる。

ちなみにこの古地図では峠付近に広葉樹と荒れ地の記号がついており、茅などの草が繁茂していたと推測されるので、前述の「茅野」の名も納得できる。
ここでおにぎりを頬張り、一息つく。

下山するにはまだ早いので、少し先のピークに寄ってみる事にした。



6、デン笠(電笠)からの大展望

尾根を辿って少し登ると急に視界が開け、小ピークに達した。ここが「デン笠」の山頂のようだ。
この数年のうちに山頂周辺の刈り払いが行われたらしく、全く予期していなかった大展望に恵まれて胸が高鳴る。

北に高尾陣馬と奥多摩東部の山波、南に道志山塊主稜線、その向こうには手前から丹沢山塊 大室山、東に遠く檜洞丸、蛭ヶ岳の辺りも見えて、標高610m余りの小ピークとしては実に贅沢な眺望だ。
ここでじっくりと腰を据えてラーメン休憩を取る事にした。

午後3時。西に傾く斜陽が柔らかく染めあげた茶褐色の山肌をしみじみと眺めながらラーメンを啜る。

この山は地図には「デン笠」とあるが、おそらく秋山村から見上げた形が電燈にかぶせる「電笠」に似ていた事から名付けられたものだろう。
明治・大正ロマンの香りと山村の生活感が漂う山名が何とも素敵だ。



7、日影沢金鉱跡・金山神社

15時半、金山峠から北へ下り、かつて金鉱があった金山(かなやま)地区を目指す。
人工林の中のやや急な下りで足場は良くないが、ここも有志の方々によって整備されており、真新しいロープが張られている箇所もあった。

20分ほどで下り着き、道標に従って小さな沢の左岸を遡ると「日影沢金鉱跡」の坑道入口がある。屈まなければ入れないような長方形の穴が黒々と口を開けているさまは少々 無気味だが、かつては金が採れたのだろう。付近には他にも「梨ノ木平金鉱跡」「八ッ倉金鉱跡」があると登山詳細図に記されている。
分岐に戻り車道に出ると、「金山神社」は目の前にあった。

鳥居には「金山大社」とあるが小さな神社で、遠い昔には金山を守護する神社として崇敬を集めたのだろうが、現在の鳥居や社殿は質素で、しかも ごく近年に再興されたものらしい。
傍らには小さな石祠、石道標、石碑があるがいずれも風化して詳細はわからない。
【金山神社縁起】には「永享四年(1433年)社殿造営 金山大神を奉祀する。応永年間(1394年〜1427年)金鉱を発見 採掘を始め、地名を金山とする。金鉱は信玄の支配となり、滅亡後は徳川家事業を継承せりと云う。」とあるそうだ。

15世紀の金鉱開発には九州から流れてきた星野氏が携わったとの記録があるので、やはり前述の、この付近の山名の一部が渡来人系の人々による古代朝鮮語に由来するのではないか、との自分の推測も一理ある気がしてくる。

拝殿の格子戸の硝子越しに中を拝見すると、金色の象嵌が施された祭壇が見えた。
格子戸には「許可なく進入すると防犯カメラ3台が作動します」との警告が標示されていて何やら物々しい。

金山にあやかって金運アップを心の片隅で願いつつ参拝したのは、少々不謹慎だろうか。



8、地元の方から貴重なお話を聞く

金山地区には観光で町おこしを図ろうとした形跡が幾つかあった。
「金鉱跡」「砂金取り体験」「かなやま金山資料館」などの看板が立つ中、驚いたのは「相田みつを句碑散歩」(詳細図では「詩碑」)で、路傍のあちらこちらに相田みつをの有名な言葉が刻まれた立て札が立てられている。
この地が相田みつをに所縁があるというわけではなく、単に観光客を当て込んだものらしい。

しかし地区に人影は無く、ただひっそりと静まりかえっている。
路肩の階段の上方に石造物が見えたので上がってみると、民家の傍らに馬頭観世音が3基置かれていた。
中央には困り顔の女性のような表情が印象的な天保6年(1835年)の観音様、左右には明治44年と著しく風化して年代不詳の文字碑がある。
この敷地が広く家構えが立派な民家には人の暮らしが営まれている気配があったが、物音はしなかった。

錆びたポストや廃倉庫などを見ながら下るが民家は見えても犬の鳴き声すら聴こえず、見渡す限り、動く物の影すらない。
路肩の擁壁から水が湧き出している所には「金流水」の看板が、やはり人待ち顔で寂しげに立っていた。

地図を見ながら上野原駅まで歩こうと足を踏み出すと、不意に後ろから車が近づく音がしたので路肩に寄った。
徐行して隣に停まった白い軽トラの窓から男性が「乗っていく?」と顔を出した。
駅までのんびり歩くつもりでいたし、まだ新しそうな車の助手席に乗せてもらうのは気が引けたが、せっかく声をかけて下さったので御厚意に甘える事にした。

ラジオから相撲中継が流れている。
思わず「おっ、貴景勝…」と呟くと、男性は「まだ先だよ」と苦笑した。
この日は九州場所の千秋楽で、元 貴乃花の愛弟子「貴景勝」の初優勝がかかって盛り上がっている。

聞けば 男性は金山地区の出身で現在は上野原市に住んでおり、時々 実家の畑をいじりに金山に通っているという。
地区では裏山ともいえる「高柄山」にも毎年登って山菜を採っていたが、最近はめっきり山の幸が減ってしまったそうだ。

金山峠から下って金鉱跡や金山神社を見てきた事を伝え、「山や峠の歴史に興味があっていろいろ調べています。」と言うと「へえ!そういう山歩きをしてる人がいるんだ!?」と驚いた様子で、いくつかお話をして下さったので書き留めておく。

「昔は歩いて桜井峠を越えて学校に通っていた。金山地区にも子どもは多く、一時はスクールバスも入っていたけど今は子どもはいない。幾つかの家にまだ人は住んでるが、もう限界集落だ。子どもの頃は金鉱の坑道の穴に入って遊んだものだが、今は崩れてだいぶ小さくなってしまった。桜井峠の旧道は何年か前に歩いてみたけど藪がひどくて歩けたものじゃなかった。」

そう語る男性の横顔は日焼けして浅黒く、ハンドルを握る手は節榑立って大きい。
頑健そのものの体躯は、やはり農作業で鍛えられたものだろうか。
若々しいので40代後半か50代前半とお見受けしたが、話の内容からするともう少し上なのかもしれない。

車はひたすら北上し、桂川南岸の平野部に出て視界が大きく開けるとすぐ西に小粒ながらぽっこりと盛り上がった山がある。
「あれは御前山だ。」と男性が言った。
標高は500mに満たないが山容は目立つ。
この近傍の中央線沿線には確か3つか4つの御前山がある。

やがて車は半年前に供用が始まったばかりの上野原駅南口ロータリーに滑り込んで駅前に横付けした。

何度目かの礼を丁重に述べたが、男性は「いや。」と何でもない事のように軽く頷き、「また金山に遊びに来てください。」と付け加えた。
拾った人間を駅まで送り届けたのは別に感謝されるような事じゃない、というさりげなさには謙虚なお人柄を、また金山に、という言葉には深い郷土愛を感じて、なんとも心暖まる思いで軽トラが去っていくのを見送った。

駅南口として開発された場所の変貌ぶりは以前の姿からは到底想像もつかないものだが、同時に、どこにでもある地方都市の駅前の妙にだだっ広いロータリーと言えば容易に思い浮かぶような典型的な代物だ。
エレベーターで改札階に上がると、全面ガラス張りの待合室からは桂川南岸の低山の列なりが見えた。
16時半。上り電車の時刻が迫っている。
仄かな茜色の残照に影絵のように踞る山々の姿をゆっくり眺める間もなく、踵を返してホームへと向かう。

mixi
「丹沢を歩く会」コミュニティ
副管理人 S∞MЯK
モリカワ ショウゴ
(現 事務局長)

ハンドルネーム
YAMAP→ ☆S∞MЯK★丹沢Λ
ヤマレコ→ smrktoraerigon

(ヤマレコには記録は残していません。
同好の士とのメッセージ等の連絡用に作りました。)



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