ここ数日朝日新聞の見出しを見ていて気がついたのだが・・・・・
>感情が政権と一体化、近代に失敗しすぎた日本 大塚英志(
https://www.asahi.com/articles/ASLDP3WDFLDPUCVL00R.html?iref=comtop_favorite_01)
>五輪や万博、盛り上がるフリ 内田樹「共感が暴走」危惧(
https://www.asahi.com/articles/ASLDM3SFHLDMPTFC007.html?iref=pc_extlink)
>悲劇の写真も実は加工 国際貢献、共感奪い合うPR合戦(
https://www.asahi.com/articles/ASLDL51NCLDLPTFC00Q.html?iref=pc_extlink)
>18歳の「号泣」だけ狙った音楽番組 共感、想定超えた(
https://www.asahi.com/articles/ASLDD4F6BLDDPTFC007.html?iref=pc_extlink)
どれも、”理”より”情”を優先する”共感”への危惧に関連する記事であるように見える。恐らく、直接的にはツィッターなどを経由して蔓延するフェイク・ニュースの定着、ヘイト発言などに対する危機意識からだと思うが、”共感”への共感は従来朝日自身の主張の基盤の一部をなしていた(様に思える)ことなどを考えると、”なにを今さら・・・”の感も無きにしも非ずではあるけれど、こうまで短時間の間に似たような論旨の記事を載せるのは、朝日も自戒を込めてなにかのキャンペーンでも始めるのだろうか?
また、”共感の暴走”を指摘することは簡単だが、”共感の健全性”を計ることは意外に難しい。人間個々の異なる個性を尊重しながら共通の価値観を共有しようとする”共感”と、没個性の多数が排他的に個性を否定して単に集まるだけの”群れの感覚”を、結果論ではなく予測的に外から見分ける術を我々は実際の所持っていないように見える。
或は”共感”をベースにする(社会)運動の多くが、共感分子と群れ分子を自覚的・自発的に分離することが出来ずに、結局その目的の内容如何を問う前に自己欺瞞と自己矛盾によって自滅に至ることも多い。
時には、”群れ”を嫌い”一匹狼”の孤高を標榜する主張にさえ、多くの”共感”が集まりたちまち”群れ”が出来かねない人間社会の危うさは、いかにも御し難い。
お正月の連想
i) 久しぶりに
モーツアルト:セレナーデ K.203 / カール・リステンパルト:ザール室内Orch.
18才のモーツアルトの溌剌とした音楽を、ドイツ的な厳格さを維持しながらも自由で開放的な響きで演奏したリステンパルトの演奏は、戦後の”新しい感覚”がまだピリオドの頚木に繋がれる前に放った一瞬の輝きを記録して素晴らしく、将に”新春”に相応しい。
ii) リステンパルト・・・・と言えば、私が初めてリステンパルトと言う人を知ったのは、もうかれこれ50年ほども前のバッハの「フーガの技法」だった。彼は、ビンシャーマンの編曲による版も録音しているが、私にとってビッチュ/パスカルによる管弦楽編曲版の演奏が”生涯の音楽”の一つとなった。
iii) パスカルといえば・・・・聴くだけの音楽素人の私は通常編曲者の名前などは覚えていないけれど、何故かクロード・パスカルの名前だけは覚えている。もう十数年前、娘が渡仏してしばらく後パスカルと言う名前の爺さんに音楽のことやフランス語を習っているという話を聞いた。もう少し詳しく聞いてみると、あの「フーガの技法」の”パスカル”氏だった。親と娘二代に渡ってお世話になったような奇妙な感覚・・・・
iv) そのパスカル氏も一昨年、90数年の生涯を閉じられたが、数年前娘は彼の若い頃のVnソナタを蘇演する機会に恵まれた。
今日は、これからビッチュ/パスカル版の「フーガの技法」とパスカルのヴァイオリン・ソナタを聴コウと思っている。
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